蒼い狼と薄紅色の鹿(25)

創作
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 ほんのひと月ほど前のことだ。このあたりに建っていたアパートの一室で、わたしたちは一つの布団に入っていた。まわりの世界は消え去ったように感じられた。時間からも切り離されたところにいた。騒々しい世界の外、過去も未来もない場所に二人きりでいた。

 そんな奇妙な場所で、わたしは彼女に触れた。頬に触れ、瞼にそっと唇を近づけた。彼女は「くすぐったい」と笑った。わたしの胸に耳をあて、心臓の鼓動を聞きながら言った。
「ここにいるのは誰かしら」
 人類だと思った。これまでに誕生した何百億かの人類が、いま二人のあいだで静かに息をひそめている気がした。
「きっとあなたの子どもね」やがて自分で答えて言った。「あなたにそっくりの子ども」
「きみにもそっくりだ」
「どうかな」
「違うの?」
 答えるかわりに彼女はたずねた。
「子ども、ほしい?」
「二人の子どもならね」
「わたしたちが子どもだったらよかったのに。こんなふうに大人になる前に、子どものままで知り合えればよかった」
 彼女が言ったことについて考えた。わかったようで、いまひとつ真意がつかめなかった。難しい比喩を使われたような気もした。わたしは彼女の胸に手を触れた。
「この貧弱な胸では、まだ完全に大人とは言えないなあ」
 それから唇を合わせた。大人の入り口あたりをうろうろしている者同士のぎこちないキスだった。いま、ここにあるものがすべてだった。二人がいまいる、この場所の外に価値のあるものは何もない。この小さな部屋は、何十億もの人々が生きる世界よりも広く、世界中の富をかき集めたよりも豊かなものに満たされている。何もかもが、二人が寄せる肌の、触れ合う唇の、ごく一部だった。

 彼女は泣いていた。理由をたずねると、泣き顔のままで微笑み、小さく首を横に振った。そして静かに涙を流しつづけた。まるでアントニオ・カルロス・ジョビンの曲のように。それは夏を閉じる三月の雨、きみの心のなかの生命の約束……。
「子どものころから自分の名前が嫌いだった」
 しばらくして彼女は言った。理由は言わなかったし、こちらもたずねなかった。それはガラスのかけら、太陽、夜、死、森を渡る風、崖、滝、引っかき傷……。
「だから名前では呼ばないで」
「なんて呼べばいい?」
 そのときわたしは思った。いまこの瞬間に核戦争が起こっても、二人は身じろぎひとつせずにこうしているだろう。現実の世界で起こることは、眼下のはるか下で起こる些末な出来事に過ぎない。人類を滅亡に追い込みかねない現実も、世界の片隅で起こる小さな出来事に過ぎない。時間は無限の相を帯び、一瞬が永遠のように感じられた。
 あれが頂点だった。知らないうちに登り詰めていたのだ。なにもかもこれからはじまると思っていた。しかしその先はなかった。あのとき起こればよかった。わたしが彼女を抱いている、あのとき巨大な地震は起こるべきだった。わたしの人生はあそこで終わるべきだった。