あの日のジョブズは(5)

あの日のジョブズは
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5 とりあえずのバイオグラフィー(後編)

 アップルから追放されたあと、ジョブズはただちに新しい会社をつくる。アップルにたいする復讐心に燃えていたとも言われるが、ジョブズにしてみれば当然だろう。アップルを退社する際に、彼は5人の中核社員を引き連れている。この5人がネクストの最初のスタッフになった。新会社でジョブズは本能の赴くままに行動する。まず企業ロゴのベテラン、ポール・ランド(IBMのロゴが有名だ)に10万ドルの報酬を支払って会社(Next)のロゴ・デザインを依頼する。またアップルのデザインを手掛けていた工業デザイナー(ハルトムット・エスリンガー)をネクストに引き込む。
 1988年10月にネクスト・コンピュータが発売される。結果的に、このコンピュータは売れなかった。価格が高いわりに機能的な魅力に乏しいことが原因だったようだ。1986年には、ジョージ・ルーカスが持つ映画スタジオのコンピュータ部門を買収している。のちに『トイ・ストーリー』などアニメ映画のヒットを飛ばすピクサーだが、当初、会社を支えたのはコンピュータ(ピクサー・イメージ・コンピュータ)の販売収入だった。ピクサーのコンピュータは、アニメーターやグラフィック・デザイナーから医療分野、情報分野と順調に市場を開拓しつつあった。
 しかしジョブズの悪い癖で、ネクストがあるにもかかわらず、しだいにピクサーの運営に口を出すようになる。彼の指示によって一般向けのピクサー・コンピュータを販売するが、案の定、売れ行きはかんばしくなかった。厳しい経営がつづくピクサーにあって、ジョブズは大幅な予算カットを断行する。そのなかで頑なに守りつづけたのがアニメーション部門だった。1989年、ピクサーの短編アニメ『ティン・トイ』がアカデミー賞短編アニメーション賞を獲得する。コンピュータで作られたアニメとしては初の快挙だった。これが一つの転機になる。
 1991年、ローリーン・パウエルと結婚。ジョブズは36歳、パウエルは27歳だった。1995年、ディズニーから資金提供を受けてピクサーが制作した映画『トイ・ストーリー』が公開され大ヒットする。あわせてジョブズはピクサーの株式を公開、このIPOの大成功によって投入した資金を回収できた上に、これまで以上の資産を手にする。ジョブズにとってもピクサーにとっても、まさに起死回生の大当たりだった。

 そのころアップルは瀕死の状態に陥っていた。1995年はマイクロソフトのウィンドウズ95が発売された年である。ウィンドウズが大ヒットする一方で、マッキントッシュの売り上げは急速に落ち込む。市場シェアも1980年代の16%をピークに下がりつづけ、1996年には4%になった。アップルはCEOを頻繁に交代させ、なんとか立て直しを図ろうとするがうまくいかない。同じころ、ジョブズ率いるネクストも倒れかけていた。アップルは自社製品にOSを提供してくれる会社としてネクストに目をつけ、会社の買収を打診してくる。ジョブズにとっては渡りに船だった。
 ただ売るだけでは面白くない。アップルにネクストを買わせて自分も会社に戻る、しかも経営権を握る。そんなプランをジョブズが描いていたのかどうかわからない。結果的にそうなったわけだが、アップルに復帰当初のジョブズの肩書は「非常勤のアドバイザー」というものだった。しかし戻ってみると、やはり自分が創設したわが子同然の会社である。自分の子どもが堕落していくのを黙って見ているわけにはいかない。ジョブズは父親らしい行動に出る。まず息子を助けてくれそうな人物を社内の要職に就ける。同時に悪い友だちを排除していく。アップルの元社員に復帰を呼びかけ、外部からも有能な人材を引っ張ってくる。見込みのない事業は打ち切り、赤字を償却して会社から切り離す。
 アップルの取締役たちも、このままではアップルは倒産すると考えていた。そこでジョブズにCEO就任を打診する。しかしジョブズは受けない。「アドバイザー」という曖昧な立場のまま、ビジネスのあらゆる側面にかかわっていく。むしろ曖昧な立場を利用してうまく立ちまわった、という見方もできるだろう。こちらの要求が通らないならいつでも身を引きますよ、と言って取締役会に揺さぶりをかけ、承認を取り付けてしまう。ジョブズの真骨頂は「顧問」や「助言者」に過ぎない人間が取締役全員の辞任を要求したことだ。改革を断行するために自分の息のかかった人間、彼に忠誠を誓う人間だけを取締役にしたいということだったようだ。「そっちが辞めないからぼくが辞め、月曜日から出社しない」という言葉に、取締役のほとんどは呆気にとられたはずだ。だが、いま彼に出ていかれては困るし、倒産寸前の会社の取締役をつづけることの魅力もなくなっていたのだろう。
 結局、現職の取締役は辞任し、ジョブズによって新たな取締役が任命されることになる。本来、取締役会はCEOから独立した組織であるものだが、一新された取締役会は実質的にジョブズが意のままに動かせるものとなり、ジョブズ独裁の体制が整えられていくことになる。彼の会社への関与が可視的なものになるにつれて、アップルの株価は上がっていく。1997年8月にボストンで開催されたマック・ワールドは、さながらヒーローの帰還を祝うセレモニーになった。このころからジョブズのプレゼンテーションは、あたかもパレスチナの民を導くイエスを想わせるものになっていく。

 1997年8月、ジョブズは「シンク・ディファレント」をキャッチ・フレーズとしたCMを展開、会社の新たなブランディングを推し進める。さらに10月には彼の暫定CEO就任が発表される。これまでもジョブズは実質的にアップルのCEOだったわけだが、ここにきてようやく(「一時的」にというエクスキューズは付いているが)正式に会社の経営を引き継ぐことになる。とはいえジョブズとアップルの取締役会は、しばらくのあいだ本命CEOを探したようだ。おかしいのはオファーを受けたほうが「ジョブズが取締役にとどまるならやりたくない」と回答してきたことだ。むべなるかな。結局、ジョブズが無期限でCEOをやることになる。
 このころからしだいに彼のなかで、アップルという会社を自分の「作品」とみなす意識が強くなっていったように思われる。あるいは会社を自己という人格の延長と考えたのかもしれない。だから無理を押して働きつづけたのだろう。こうして瀕死のアップルは復活を遂げるが、結果的に、この時期に重ねた無理がジョブズの身体を蝕んでいったのかもしれない。
 1998年8月、家庭用デスクトップ・コンピュータとしてiMacが発売される。キーボードとミニターとコンピュータが一体化し、箱から出したらすぐに使えるオール・イン・ワンのシンプルなデザインだ。しかも卵型の半透明のプラスチック・ケースに収まっているためなかが見える。それはアップルが自社ブランドとして打ち出していた「シンク・ディファレント」を体現するマシンだった。価格は1299ドルと高めだったにもかかわらず、年の終わりまでに80万台を売り、アップル史上最高の成績を上げることになる。
 アップルの株価はジョブズが復帰した1997年7月の14ドル弱から、インターネット・バブルのピークと言われる2000年には102ドル以上になった。このころからジョブズのプレゼンテーションには一層磨きがかかっていく。製品ショーは緻密に組み立てられ、会場にはミサを助ける待祭があふれており、企業の製品発表というよりはミサや宗教的な伝道集会(キャンプ・ミーティング)といった雰囲気だ。ジョブズのデモやプレゼンはアップルが提供する製品とよく似ている。小道具も少なくすっきりしたステージでシンプルだが、じつは驚くほど緻密に用意されている。

 2001年にはジョブズが設計からデザインの細部に至るまでかかわったアップル・ストアがオープンし、記録的な売り上げを達成する。それはおしゃれなデジタル機器を扱うショップであるとともに、ジョブズが生み出した作品を展示する美術館でもあった。この新しいタイプの店は人々に大きな興奮をもたらした。店舗がオープンするときには大勢の人が徹夜で列をなし、アップル・ストアのファンを対象とするウェブ・サイトまで立ち上げられた。
 さらにジョブズの快進撃はつづく。つぎに彼が打ち出した戦略は、パーソナル・コンピュータをデジタル・ハブにするというものだ。それは音楽プーイヤー、ビデオ・レコーダー、カメラなど、さまざまな機器をコンピュータにつないで同期させ、音楽や写真や動画や情報などをすべてコンピュータで管理するという新しいライフ・スタイルの提唱だった。現在では当たり前になっていることだが、当時、なぜそのような未来をジョブズが予見でき、またほとんど一人の力で推進できたのか不思議な気がする。iPod、iPhone、iPad……ミレニアムの最初の10年間に、アップルは文字通り世界の風景を変えてしまう製品をつぎつぎと世に送り出す。そしてマッキントッシュは、これらガジェット群のデジタル・ハブになっていく。
 少し丁寧に見てみよう。まず2001年に音楽管理ソフトウェアとしてiTunesが発表される。さらにiTunesと連携するポータブルの音楽プーイヤーとしてiPodが発売される。言うまでもなく、アップルを単なるコンピュータ・メーカーから世界最高の価値をもつテクノロジー企業へと変える原動力になった製品である。つぎにジョブズは音楽をシンプルかつ合法的にダウンロードできる仕組みをつくろうとする。こうして2003年に音楽ソフトのオンライン販売としてiTunesミュージック・ストアがオープンする。1曲99セントで、いつでもどこでも聴きたい音楽を手に入れることができる。この新しい音楽の楽しみ方は、またしても消費者の潜在的な渇望を満たすものだった。4月のサービス開始から6日間で100万曲を売り上げ、初年度の販売曲数は7000万曲に達した。
 同じ2003年にはピクサーが制作したアニメーション映画『ファイテング・ニモ』が大ヒットする。その結果、ピクサーはかなりいい条件でディズニーに買収される。こうして会社の運営資金はさらに潤沢になり、いよいよジョブズがアップルに専念する態勢が調う。しかし好事魔多しのことわざどおり、ジョブズの膵臓に癌が見つかる。医師はただちに手術を勧めるが、本人は代替療法を試みる。結局、1年後に手術を受けて膵臓の一部を取り除く。
 のちに明らかにされたところによれば、このときすでに癌は肝臓に転移していたらしい。2005年6月に、ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で有名なスピーチをする。このなかで癌と診断され、手術を受けたことにも触れる。15分に及ぶスピーチは、「ハングリーであれ、分別臭くなるな」という有名な言葉で締めくくられた。彼が青年時代に愛読したスチュアート・ブランドの雑誌『ホール・アース・カタログ』の最終号に添えられていた言葉だった。

 2005年、ジョブズは50歳になる。この年の秋、彼はティム・クックをアップルの最高執行責任者(CEO)に就任させる。自身は一歩退いたかたちにも見えるが、実際には残りの5年間を、ジョブズはこれまで以上にフルスピードで突っ走る。残された時間から逆算して、やりたいことをやり残しなくやり遂げたようにも見える。
 死を覚悟したジョブズが渾身の力を注いだ作品がiPhoneだった。きっかけは携帯電話だ。携帯電話に音楽プレイヤーの機能が搭載されれば、iPhoneは市場から駆逐されてしまうに違いない。カメラ付き携帯電話の普及によって、すでにデジタル・カメラがそうなっていた。このあたりジョブズの先を見る目は冴えている。携帯電話の市場は小学生から年寄りまで非常に広い。ここにアップルがヒップなプレミアム製品を投入すれば、シェアを得る余地は十分にある。
 幾多の試行錯誤を経て2007年1月にiPhoneが発表される。舞台となったサンフランシスコのマック・ワールドで、ジョブズはいまでは伝説になっているデモンストレーションをおこなう。それは1968年にダグラス・エンゲルバートがおこない、のちに「あらゆるデモの母」と呼ばれるようになったデモ以来の歴史的なものだった。
 2008年、癌が再発する。すでに2004年に、膵臓の大半を摘出する手術を受けている彼の体重は20キロ近くも減少する。ジョブズに重大な健康上の問題があるのは誰の目にも明らかだった。会社のCEOにプライバシーはないと言っていい。とくにジョブズのようにカリスマ的なリーダーの場合、その健康状態はただちにコーポレート・ガバナンスに影響を与える。現に2008年6月初めに188ドルだった株価は、7月末には156ドルに下がり、さらに10月初めには97ドルまで下落する。投資家とメディアはジョブズ側に正直な情報の開示を求めた。
 2009年1月のマック・ワールドにジョブズは現れない。やつれた姿を見せないほうがいいという判断だろうが、過去11年間、かならず大きな製品発表を行ってきたジョブズが登壇しないことは、かえってその健康状態の深刻さを浮き彫りにする結果となった。それでもアップル側は病状を公表しない。このため会社が「重要情報」を株主から隠しているのではないかと、証券取引委員会が調査にまで入る騒ぎとなった。たしかにジョブズのように会社とCEOが一体となっているケースは稀だが、一方で彼には、極端なまでにプライバシーを守ろうとする傾向が強かった。
 現実には肝臓移植が必要とされるほどジョブズは追い詰められていた。アメリカの臓器配分値ネットワークは公正にできているらしく、順番は移植の必要性を判定するスコアによってきめられている。このリストは癌よりも肝硬変や肝炎の患者を優先しており、ジョブズのように裕福でも前のほうに割り込むわけにはいかない。カリフォルニア州で移植手術を受けられるのは6月以降だが、医者からは4月ごろまでしかもたないだろうと言われていた。このときジョブズの妻が二つの州で順番待ちのリストに登録する方法を思いつく。違法ではなかったが、テネシー州の病院まで8時間で行けるという条件は、自家用ジェット機を持つ者だからクリアできたことではある。
 こうして2009年3月、交通事故死した20代の若者からジョブズは臓器提供を受ける。最高の医療と看護のおかげで5月末、彼は自家用機で死から生還する。仕事への執着の強いジョブズは、戻って数日後の取締役会に姿を現し、6月末には完全復帰を果たす。あいかわらず気が短く怒りっぽかった。喧嘩っ早く辛辣な性格もそのままだった。臓器を取り換えても性格は変わらないらしい。
 ジョブズが最後に行った新製品発表は、2010年1月27日のiPadのプレゼンテーションだった。iPhoneの発表から3年が経っていた。新製品を手にしたジョブズはゆっくりとした足取りで壇上を歩き、ル・コルビュジエがデザインした革張りの椅子に腰を下ろす。サイド・テーブルはエーロ・サーリネンだ。いかにもハイセンスでアットホームな演出だが、じつはジョブズの健康状態に配慮したものだったらしい。iPadはiPhoneを上回るスピードで売れつづけ、発売から9ヵ月で1500万台に到達した。新発売された消費者製品として史上最高の成功を収めたと言われている。
 たしかにiPadはジョブズが追及しつづけてきたパーソナル・コンピュータの一つの完成形と言えるだろう。スクリーンに指を走らせるだけでアプリが起動し、電子メールを送ったり、本や新聞を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりといった多くのことができてしまう。小学生に上がる前の子どもから80歳の老人までが、難しい操作法をおぼえなくてもなんとなく使えてしまう、まさに愛犬のように「フレンドリー」なガジェットだった。
 ウォズニアックと二人でアップル・コンピュータを立ち上げたのが1976年、そのきっかけとなったアップルⅠは剥き出しのワンボード・マイコンに過ぎなかった。それからiPadまでの35年間を、ジョブズはほとんど一人で駆け抜けてきた。とくにジョブズがアップルに復帰してからの10年余りは、本人も会社もすさまじい勢いで前に進みつづける。この間に、ジョブズとアップルが生み出した主な製品を見ても、1998年のiMac、2001年のiPod、2007年のiPhoneと、それぞれが大きなイノベーションと言っていい画期的なマシンばかりだ。

 晩年のジョブズとアップルの歴史をたどっていると、ぼくはビートルズのことを思い浮かべてしまう。ビートルズのイギリスでのデビューは1962年、「プリーズ・プリーズ・ミー」や「抱きしめたい」を楽しそうに歌っていたバンドは、たった7年で陰影と深みに富んだ『アビーロード』にたどり着いてしまう。60年代にビートルズが起こした奇蹟を、ジョブズは晩年の10年間にコンピュータの世界で成し遂げたと言えるかもしれない。
 中学生のころにビートルズを聴きはじめて、いつも不思議に思っていたことがある。それはデビューから解散までのメンバーの風貌の変化の大きさだ。1963年にEMIビルで撮ったデビュー・アルバムの写真と、1969年の『レット・イット・ビー』の写真を比べてみるといい。はつらつとした四人の好青年は、疲れ果てた暗い表情の男たちになってしまった。ジョージはインドの修行者みたいだし、ジョンも頬がこけてふっくらしていたデビュー当時とは別人みたいだ。いったい彼らに何が起こったのか?
 ぼくの立てた仮説は、「極度に濃縮された体験による加齢」というものだ。デビューから解散までの7年ほどのあいだに、彼らはエリザベス女王を含む世界中の要人・貴人(奇人)・変人と会い、巨大な富と名声を得て、ドラッグや女性関係を含めて、ぼくたちが一生かかっても知りえないほどのことを経験したはずだ。普通の人にとって数十年にも一生にも相当する濃縮された時間が、彼らを急速に老成させたのではないだろうか。
 ジョブズにも同じことが起こった気がする。最後のプレゼンとなった2011年3月、iPad2の発表のとき彼は56歳になったばかりだった。いまのぼくより5歳も若いのに、まるで70代の老人のように見える。もちろん病気のこともある。臓器移植まで受けた肉体が年老いて見えるのは当然かもしれない。しかしアップルに復帰してからの10年間で、ジョブズの風貌は大きく変わっている。まるで60年代のビートルズのメンバーたちの変化を見ているようだ。ジョブズにも「極度に濃縮された体験による加齢」が起こったのではないだろうか。癌という病気も、むしろ加速度のついた彼の生き方が引き寄せてきたような気がする。
 死は刻々と近づきつつあった。iPad2のプレゼンのあと、ジョブズには7ヵ月しか残されていない。6月にサンフランシスコのコンベンションセンターで、彼がデジタル時代の新しいヴィジョンとしてiCloudを発表すると、数分後にアップルの株価は4ドルも下落する。会社のCEOの健康状態がただならぬものであることは誰の目にも明らかだった。7月には骨をはじめ身体のあちこちに癌が転移してしまい、もはや手の施しようがなくなった。身体中が痛み、固形物はほとんど食べられなくなった。気力も体力も失い、日がな一日、テレビを見ながら寝室で過ごすようになる。
 夏を通じて、ジョブズの健康状態は少しずつ悪化していった。これ以上、会社のCEOをつづけるのは無理だった。ついに彼は自分がつくり上げてきた会社の経営権を手放すことを決意する。8月24日の定例取締役会に、ジョブズは最後の気力と体力を振り絞って出席する。車椅子で会議室に入ると、アル・ゴアをはじめとする6人の社外取締役に自分の口から辞任を伝えた。ジョブズが亡くなったのは2011年10月5日、56歳7ヵ月の生涯だった。

Photo©小平尚典