蒼い狼と薄紅色の鹿(38)

創作
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 園内は奥に進むにつれてますます閑散とし、空中をのろのろ進むコースターなどはほとんど全身が麻痺しかけている。帰路を駐車場のほうへ向かう何組かの親子連れとすれ違った。みんな忌まわしい場所から早々に引き上げようとしているみたいだった。
「もはや凋落へ向かいつつあるって感じだな」
「まるで病院のベッドで死にかけているおじいさんみたい」と藤井茜が言った。
「うまい比喩だ」
 そんなことでも言っていないと間がもたない。ゴーカートの横を抜けると、その先がバラのトンネルになっている。つる性のバラが色とりどりの花を咲かせていた。トンネルのなかは薄暗く、花に囲まれているというのに寂寥感が漂っていた。

「猫がいる」藤井茜が目ざとく足を止めて言った。
 二匹の子猫がバラの根元から顔を出している。一匹は縞目で、もう一匹は真っ黒い猫だった。
「まだ子どもだね」
「今年生まれたんだ」高椋魁が言った。
「すると兄弟?」
「姉妹かも」
「それにしては全然似てないね」
 藤井茜は猫のそばに腰を下ろした。
「連れて帰れないかな」後ろから高椋魁が言った。
「どうすんのよ」
「公園に放してやる」
「やめといたほうがいいと思う」
「どうして?」
「いじめられるかもしれないじゃない」
「そうかなあ」
「いろんなリスクを考えておかないとね」藤井茜は分別臭く言った。「彼らだってそれを望んでいるかどうかわからないし」

 納得したわけではなさそうだが、高椋魁は意外とあっさり自分の思い付きを引っ込めた。しばらく歩きつづけたところで藤井茜が言った。
「ときどきニュースで保育園に子どもを預け忘れた父親の話とか聞くじゃない。仕事のことを考えていて、後部座席に乗せた子どものことを忘れちゃったり、上の子を小学校に送って、下の子を保育園に預けるのを忘れちゃったり。忘れられた子どものほうは、車のなかに何時間もいるあいだに日射病や脱水症で死んでしまう」
 高椋魁は感情の読み取れない表情で話を聞いている。
「いろんなことを考え合わせると、子どもをつくるのってすごくリスキーだと思う」藤井茜はつづけた。「結婚して家族をつくって子どもができて、そういうのってものすごくハイリスク。しかもリターンはほぼゼロ。だからわたしたちはいまのままでいいんだ」

 ウラジミール・ナボコフがどこかに書いている。タイプの違う三人の男が、同じ一つの風景のなかを歩いている。一人は休暇をもらって都会からやって来た男で、二人目は植物学者、三人目は土地の農夫である。都会人である一人目の男は、ごく常識的に木を木として見ている。植物学者はもう少し専門的に、樹木や草花の種類などに気を留めて歩いている。土地の農夫は、木々や小道を毎日の仕事や、少年のころの思い出と結び付けて見ている。こんなふうに三人の男は、同じ一つの風景を三者三様に見ている。つまり彼らは、それぞれに違った現実を生きている。

 だが、そうした一人ひとりの違いよりも、一人と二人の違いのほうがはるかに大きいのではないだろうか。個人の違いは、たんに興味や視点の違いに過ぎない。彼女が福岡に来たとき、この遊園地で半日を過ごした。そのときわたしたちはいまとは別の世界にいた。もっと厚みや奥行きやふくらみのある世界にいた。それはわたしが彼女とともに対象を見ていたからだろう。彼女の興味やまなざしを展開することが時間の経過に等しかったからだろう。いまわたしがいる世界は痩せて平面的だ。二次元の線だけでできているように感じられる。