まぐまぐ日記・2011年……(8)

まぐまぐ日記
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10月24日(月)晴れ

 午前中、気功。講演原稿を書いてしまう。夕方、白石君より、解説のお礼の電話をもらう。いつか対談をしようと、前から言ってくれているのだが、頭の回転の速い白石君が相手だと、ぼくは聞き役で終わってしまいそうだ。電話でも喋るのはほとんど白石君の方だし……。夜は剣道。

10月25日(火)曇り

 肌寒い。午後、床屋へ。夜は『続・丹下左膳』を観る。主演は『百万両の壺』と同じ大河内傳次郎だが、監督はマキノ雅弘。『百万両』がすばらしかっただけに、これはいまいちだと思った。まあ、山中貞雄が素晴らし過ぎるのだけれど。

10月26日(水)晴れ

 午後、九州産業大学にて講義。自然主義について話す。それにしても、このさわやかな秋晴れの日、若い女弟子に逃げられた中年男が、女の残した布団に顔を埋めて泣く話(田山花袋『蒲団』)をしている自分がいる。ネイティブ・アメリカンの格言じゃないけれど、今日は自然主義の話をするのにもってこいの日ではない。

10月27日(木)晴れ

 午後から車で佐賀県鹿島市へ。約2時間のドライブ。夕方、6時前には到着。時間まで近くの干拓地を散歩する。午後7時より、JA佐賀鹿島支部・女性部の人たち100人ほどを相手にブンガクの話をする。ほとんど即興で1時間ほど。学生時代の話や、どうして小説を書きはじめたかなど。どうでもいいような話だが、皆さん熱心に聴いてくださる。

 終わってから、関係者・スタッフの人たちと打ち上げ。地元の料理で歓待される。ビールと焼酎を呑んで、12時に近くのビジネス・ホテルへ。楽しい一夜だった。

10月28日(金)雨

 8時ごろホテルを出て、車で福岡へ。雨のなか、白石平野を通って帰る。さすがにくたびれたので、午後はのんびりする。夕方から博多駅に出て、学生時代の友人、浜崎君、津田君と会う。いずれも農学部農政経済学科の出身。浜崎君は徳島県庁に3年ほど務めたあと、辞めて医学部に入り直し、いまは市内で医者をしている。ロック好き、ジャズ好きで、ぼくとは昔から話が合う。津田君はキッコーマンに務めている。このたびは鹿児島の実家に帰ったついでに立ち寄ってくれたのだ。井出君とは昨日に引きつづき。わざわざ佐賀から出てきてくれた。義理がたい。三人とも津田君とは大学卒業以来である。約30年ぶりだというのに、あのころにタイムスリップしてしまうのが不思議。馴染みの居酒屋で焼き鳥やギョーザを食べながら、2時間ばかり楽しい時間を過ごす。

10月29日(土)曇り・雨

 少し風邪気味だけれど、午後から剣道に行く。昨日から柄谷行人の『「世界史の構造」を読む』(インスクリプト)を読んでいる。このなかで柄谷が、軍備放棄を「贈与」と言っているのが面白い。前に読んだ『世界史の構造』でも同じことを言っていたはずだが、あまり印象に残っていない。今度の本では、何度か同じ趣旨の発言をしている。とても言い考え方だし、ぼくなりに展開したいと思う。

 たとえば原発も同じように考えてみればどうだろう。原発の放棄は、未来の他者へ向けての贈与であると。モノや情報によって、すでにぼくたちの欲望は満たされなくなっている。贈与が、未来の消費のかたちになるのは間違いないと思う。未来の経済は、新たな交換の形態として、贈与をベーシックに組み込んだものになるだろう。憲法九条に加えてフクシマを体験した日本は、先手をとるチャンスである。

 ぼくが考えているのは単純なことだ。自分の欲しいものをがまんして、好きな人にプレゼントをする。子どもにおいしいものを食べさせる。それは自分のために何かを買ったり食べたりするよりも、喜びと満足度が大きい。ぼくたちのなかには、駆動したくてたまらない贈与への衝動があるのだ。自分一人の欲望は有限だが、贈与への欲望は無限だ。これが大きな可能性でないはずがない。

10月30日(日)雨

 外泊している父を自治会の敬老会へ連れて行く。幸い、会場の小学校体育館はマンションの隣だが、雨の降りしきるなか、車椅子を押しての移動なので大変だ。近所の老人を招いて、二時間ほどの会食だったらしい。

 夜はフランク・キャプラの『オペラ・ハット』を観る。愛と善意の力を臆面もなく描いた、とても理想主義的な映画だが、キャプラ自身がこのような理想主義にたいして強い信念をもっているので、こちらも気持ち良く映画の世界に入り込むことができる。主演のゲイリー・クーパーは例によって大根で、最初のうちははらはらさせられるが、話が進むにすれて演技がこなれてくる。

 もはや時代的に、このような映画は作れないだろう。たとえばスピルバーグが同じ理想主義を掲げて撮ろうとすれば、どうしても作為的にならざるをえない。そのぶん作品が濁ってしまう。おまけにスピルバーグは、そのあたりのことに無神経なまでに無自覚なので、押しつけがましい映画になってしまうのだ。(『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』など)