まぐまぐ日記・2011年……(6)

まぐまぐ日記
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10月10日(月)晴れ

 今日は祭日なので気功は休み。午前中は小説を書く。ベルンハルト・シュリンク『週末』読了。20年ぶりに出所した元ドイツ赤軍派の男と、彼にゆかりの人たちが別荘に集まる。扱っている題材にたいして描き方が甘い。テロリズムについて、この程度のことしか考えていないのだろうか。同じ作者の『朗読者』も読んだはずだが、いまでは内容をほとんど忘れている。

 夜はDVDでトリュフォーの『突然炎のごとく』を観る。学生のころに劇場で観たときには、たいして面白い映画だとは思わなかったが、あらためて観直し、やっぱり傑作だと思った。カメラがとても美しい。『大人は判ってくれない』と『突然炎のごとく』と『アデルの恋の物語』が、ぼくのなかではトリュフォーのベスト3。しかし『アメリカの夜』も捨てがたいなあ。ジャクリーン・ビセットは中学時代の憧れだった。

10月11日(火)曇り

 午前中、小説を書いて、午後は明日の講義の準備。森鷗外について喋るつもりだったが、適当な参考書が見つからない。ジュンク堂で探したら、漱石の研究書は山ほどあるのに、鷗外のものは一点も見当たらなかった。かわいそうな鷗外。研究対象として、よほど魅力がないのだろうか。鷗外にかんする研究書が極端に少ないこと。これだけで面白い研究テーマになりそうだ。明日は近代文学の成立について喋ることにする。

 ゴダールの『映画史』下巻を読んでしまう。それにしてもゴダールの映画は、『勝手にしやがれ』以外は、どれも興行的には惨憺たるものだったらしい。本人が言っているのだから間違いない。その言い訳がまたおかしい。「われわれがつくる映画が興行的に成功しないのは、われわれがものごとについて誠実に語ったり、自分たちに出発できる場所から出発しようとしているからです。人々はそうした映画を到達点とみなし、きわめてわるく解釈するのです。」なるほど、と思う一方で、それなら到達点を見せてくれと言いたくなる。結論。「私の最もすぐれた映画というのは、まさに、私がつくらなかった映画です……」

 ゴダールって、本当におかしい。彼の映画もそうだけれど、なぜか元気が出る。多くの人に、ぜひ読んでもらいたい。ただ上下巻あわせて6600円(+税)というのは高すぎる。せっかく版元が筑摩なのだから、学芸文庫に入れて各巻1500円(+税)くらいで販売してほしい。

 夜は溝口健二の『祇園囃子』を観る。溝口の映画では『雨月物語』や『近松物語』などの評価が高いが、これも傑作である。京都の花街、芸妓三代の生きざまが鮮烈に描かれる。若尾文子、名前のとおり若い。木暮実千代、色っぽい。二人とも名演、力演である。だが、なんといってもすごいのは、置屋の女将を演じる浪花千栄子だ。この貫禄、この風格。オロナイン軟膏のイメージが払拭される。

10月12日(水)晴れ

 午前中、小説。午後、講義。夜、剣道。ラウィ・ハージ『デニーロ・ゲーム』読了。1964年、ベイルート生まれ。レバノン内戦化のベイルートとキプロスで育つ。その後、ニューヨークに渡り、モントリオールに移住。すごい体験をしていると想像される。だが小説は、それほど面白くない。志が低いと思う。小説にとって、体験は絶対的なものではない。山の登りをしておにぎりを食べた。そこから何を引き出すかが問題なのだ。

 衛星放送の海外ニュースで、トリポリ空港に降り立つフランスのビジネスマンたちの様子を紹介していた。みんな新たな利権やビジネス・チャンスを求めて目がギラギラしている。こういう映像を見ると、かつてキリスト教が果たしていた役割を、いまは民主主義が果たしていることがよくわかる。まさに「人道」という名の侵略である。

 帝国主義以降、戦争はたんなる勝ち負けではなく、相手国の歴史や文化や伝統を抹消すべきものになった。消えていくものなかには、言葉や記憶も含まれる。いかなる経済的援助も、いかなる人道的支援も、その国や地域の文化や伝統を破壊するものであるかぎり、「戦争」とみなされるべきである。たとえビジネス・スーツを着ていようと、彼らは兵士であり破壊者なのだ。カダフィは何を守ろうとしたのだろう?

10月13日(木)晴れ

 午前中、小説。午後、白石一文さんの文庫本の解説を書き上げる。原稿用紙10枚前後と言われていたのに、16枚くらいになった。まあ、小説が長いから、解説も長くていいだろう。

 夕方、二匹の猫を予防接種に連れて行く。オスのヒースは、7歳半のアメリカン・ショートヘア。ショッピング・モールのペット・ショップで売れ残っていたのを買ってきた。そのペット・ショップには、生後一ヵ月くらいのときにお目見えし、飼育ケースのなかで月齢が上がるにつれて値段が下がっていった。三ヵ月を過ぎても買い手が現れず、さすがにその後の運命が心配になり、うちで飼うことにした。

 フクちゃんは女の子で2歳半。二年ほど前に、近くの公園に捨てられていたのを長男が連れてきた。雑種だが、体型はシャム、毛並みはアメリカン・ショートっぽい。乳児期のトラウマからか、極度に警戒心が強く、やることなすこと乱暴で困ったものだが、最近はようやく落ち着いてきた。夜、ぼくは猫ちゃんたちに「おやすみ」を言いにいく。「どういう縁で、うちに来たんだろうね」などと、二匹の猫に、いまでもときどき話しかけている。

 夜はグリフィスの『散りゆく花』を観る。リリアン・ギッシュの主演で有名な映画だが、いま観ると、やはりいろんな面で古さを感じざるを得ない。それにリリアン・ギッシュは、はじめて観た映画が『八月の鯨』であったというのも災いしている。90歳のおばあちゃんのイメージが強くて、どうしても可憐な美少女として見られないのである。それにしても『八月の鯨』で共演したベティ・デイヴィスは十歳以上年下のはずだが、なぜかデイヴィスが姉で、リリアン・ギッシュが妹役なのであった。そういうキャラクターなんですね。

10月14日(金)雨

 久しぶりに雨が降っている。午前中は小説の執筆。『愛についてなお語るべきこと』の第八章を書き終える。このあと第九章は「雨期」というタイトルで、タイの山間部に降りつづく雨のことを書こうと思っていたら、大雨でタイの日系企業に被害が出ているということが報道されていた。かなり内陸部にある工業団地が被害を受けているので、原因はダムの水門調節の誤りなど人為的なものだろう。雨期と乾期のあるタイでは、貯水量の管理などが難しいのかもしれない。

 夜は剣道。松浦寿輝の『ゴダール』を読み終える。蓮実重彦といいこの人といい、かくもまわりくどい日本語が書けることに、半ば呆れつつ感心する。

10月15日(土)曇り

 午前中、執筆をつづけて、午後は施設にいる父を迎えに行く。毎週、土曜日は外泊の日で母がみているのだが、その際の送り迎えがぼくの役目。施設までは10キロほどあり、ちょっとした距離だ。母が元気で父の面倒をみてくれているので、ぼくはほとんど何もしていないに等しい。それでも少しずつ父の介護に手がかかるようになり、最近は外泊の日だけヘルパーを雇っている。

 いわゆる「やらせ問題」にかんする九電社長の一連の振舞いを見ていると、これだけ目先の現実しか考えられないのは、人間としてイビツではないかと思えてくる。トップになればなるほど視野に入る時間が短くなるのだとすれば、現代の企業の在り方そのものがイビツなのだろう。善い生き方がしたければ、九電社長と逆のことをすればいい。それは五十年先、百年先といった、遠い未来を視野に入れて生きることである、と言えそうな気もする。

 企業にとっても、これからは未来への構想力と想像力が勝負の分かれ目になると思う。先日亡くなったスティーブ・ジョブズとアップルが、どうしてこれだけ支持されたのか? それは市場経済が魅力のないものになっているからである。ジョブズに率いられたアップルは、「買いたいもの」を提供してくれるのではないか、という期待を抱かせる数少ない企業だった。裏を返せば、もはや市場に、ぼくたちの欲しいものはない。誰もが市場経済に飽きはじめているし、大切なものは市場経済の外にあることに気づきはじめている。消費行動として見れば、未来に投資することが時代のトレンドになるだろう。その点でも日本の電力会社は、いちばん見込みのない企業ということになりそうだ。

 9月に台風で延期になった香椎の花火大会が、いまごろになって開催されている。ぼくの家からは、ほとんど目の前に上がるのだが、いくらなんでも10月も半ばに花火見物という気分にはならない。DVDでマーヴィン・ルロイ監督の『哀愁』を観る。こっちの方が、正しい秋の夜の過ごし方だろう。

10月16日(日)晴れ

 今日は香椎宮の神前剣道大会。道場の子どもたちも出場しているので応援に行く。それほど広くない境内に三つ試合場がとられ、ご神木の綾杉の下、子どもたちは裸足で剣道をする。今年で60回目という伝統のある大会だ。流鏑馬の馬がお祓いを受けるため、途中で試合が一時中断したりするのも、この大会に独特の趣を与えている。子どもたちにとってもいい思い出になるだろう。

 吉本隆明が日経に原発について書いている。「お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない」という言い方は誤解を招くかもしれないが、真意は「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない」ということだろう。それはその通りだが、「魅力がない」という理由で、ぼくたちが原発に見切りをつけるという選択はあり得る気がする。

 すでにぼくたちはいろんなものに飽きはじめている。自分のことだけを考えることにも、人間を中心に世界をまわしていくことにも。脱原発は望ましいか否か、といった議論はいずれ風化していく気がする。だが飽きることは風化しない。ただ飽きつづけるだけだ。原発を是とする世界に、ぼくたちは飽きはじめている。この確かな感覚を、かたちにしていく思考が求められていると思う。

 「まぐまぐ」のエッセーを書くために世阿弥の『風姿花伝』を読む。夜は『西部戦線異状なし』を途中まで。