まぐまぐ日記・2011年……(2)

まぐまぐ日記
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8月28日(日)晴れ

 午後から剣道6段の審査を見に行く。ぼくは去年、ようやく5段に昇段することができた。4年後からは、6段への挑戦がはじまる。それで審査がどんなものか、様子を見に行ったのだ。ぼくが剣道をはじめたのは35のとき。息子たち二人を道場へ通わせるうちに、自分でもはじめてしまったのである。以来、17年間、ほとんど毎日竹刀を振らない日はない。子どもたちは途中でリタイアしてしまったけれど。

 大人になってはじめた剣道は、なかなか上達が難しい。関節が固くなっていたり、身体の癖が出来上がっていたり、いろいろ理由はあるだろう。でも下手は下手なりに、楽しくつづけている。そんなぼくが五段まで昇段できたのは、良き師に恵まれたからである。いまの腕前で六段合格は難しいと思われるが、まあ、目標は目標としてがんばってみたいと思っている。そして何よりの目標は、「80歳まで剣道をつづける」ということだ。ぼくが毎週稽古をつけてもらう先生方のなかには、80を超えている方が何人もおられる。幾つになっても上達しつづけられるのが、剣道のいいところだ。ぼくの場合も、あと30年あると思うと、楽しみは尽きない。

 夕方、Skypeで藤井さんと歌詞についての最後の打ち合わせ。小さな修正をほどこし、一応、歌詞の部は完成ということになった。藤井さんからオファーをいただいたのが7月末だったので、ちょうど夏休みの宿題を終えたような感じだ。なんとかかたちになったのでうれしい。小説をはじめとする文章は、いつも一人で書いている。こんなふうに、いろんな人たちとの共同作業には、小説とはまた違った喜び、達成感があるなと思った。

 今日は大石さんともはじめて話をする。なんと彼のお母さんは、高校でぼくの二年後輩だったそうだ。若い! というか、ぼくが歳なんだ。そんなおじさんが、15歳の少年を主人公にした恋の歌をつくる。なんだかなあ……。でも、無理をしている感じはしない。きっとぼくのなかには、いまでも15歳の「ぼく」が息づいているのだろう。そいつにうまくアクセスできれば、いつだって15歳の少年に戻れるのさ。

追記。六段の昇段審査、いまだに受けている。つまり落ちつづけているというわけだ。う~ん、きびしい! でも80歳まで剣道をつづけるという目標はもちつづけている。「ぼくが毎週稽古をつけてもらう先生方のなかには、80を超えている方が何人もおられる」と書いた先生方は、ほとんど亡くなってしまった。寂しいかぎりだ。お一人お一人の構えをおぼえている。このとき苦戦していた歌詞は「海を見ていた、ぼくは」という曲になっている。個人的には大石昌良さんの数多い名作の一つだと思っている。

8月31日(水)晴れ

 ぼくの電子書店が予告なくオープンしてしまった。プロバイダーの都合で、「何日何時から」というわけにはいかないらしい。このホームページは、もともと電子書籍を販売するために、メディア・ナレッジの田代真人さんがセットアップしてくれたもの。ぼくも自分のブログがもてるので、前々から楽しみにしていた。とはいえ、いまはまだブログは空っぽの状態なので、早くコンテンツを充実させなければならない。さあ、がんばって書くぞ!

 電子書籍の販売にかんしては、ぼくにも状況がよくわからない。ビジネスとしてやっていくことは、いまの段階では難しいのではないだろうか。今後はどうなるかわからないけれど。それでもぼくが自著の電子書籍化を進めているのは、版元の事情で自分の本が品切れや絶版になることに、どこか釈然としない思いを抱いていたからだ。在庫や保管の問題があるから、仕方のないことなのだけれど、読みたいという人がいても、本が手に入らないというのは、著者としては残念なことだ。

 これからは電子書籍というかたちで、いつでも手軽に、ぼくの作品を読んでいただくことができる。本当は図書館みたいに、無料で閲覧してもらえるといいのだけれど、そうするといろんな人に迷惑がかかってしまうので、とりあえず購買というかたちをとっている。できるだけ安価な料金設定にしてもらっているので、気軽にお求めいただけるのではないかと思う。

 将来的には、全著作を電子書籍化して、自分のホームページで一括して扱う予定だ。そして電子書店に、アーカイブやデータベースの機能をもたせていきたいと考えている。これは物書きとして、一つの大きな夢の実現である。田代真人さん、ありがとうございます。

9月6日(火)晴れ

 夕方、このメルマガでも写真を使わせてもらっている、小平尚典さんとお会いする。日本といわず、世界中を飛びまわって活躍されている小平さんだが、小倉のご出身ということもあり、年に何度か福岡に立ち寄られる。そのたびに声をかけていただくのを、ぼくは楽しみにしている。

 今回は、BASCO’sの澤田明子さんを紹介される。時間があまりないので、博多駅近くの居酒屋さんに入って軽く呑む。小平さんも澤田さんも旅のベテランだ。自然な流れで、あちらこちらの旅の話になる。ぼくは海外には数えるほどしか行ったことがないので、どの話も耳新しく、あそこも行ってみたい、ここにも行ってみたとの思いが募る。何かのはずみにオーストラリアのケアンズの名前が出た。二人とも口をそろえて、とてもいいところなので、一度行ってごらんなさいとおっしゃる。ケアンズか……。

 『世界の中心で、愛をさけぶ』では、エアーズ・ロック(ウルル)が重要な場所として出てくる。高校生である主人公の少年たちは、修学旅行でオーストラリアに出かけるのだが、そのとき恋人の少女はすでに病気で一緒に行くことができなかった。それで彼女が亡くなってから、遺骨をウルルへ撒きにいく、というのが小説の大まかな筋である。映画でも最後のシーンで印象深く使われていたせいか、あの作品というと、ウルルを思い浮かべられる方が多いらしい。「オーストラリアへは行かれたのですか」といった類の質問を、これまで何度も受けてきた。そのたびに、「いや~、行ったことがないんです」と答えるのが常だった。

 作品のなかで、ケアンズは主人公たち高校生の御一行が降り立つ街として出てくる。そこからアリス・スプリングズへ移動してウルルを目指す、というのが修学旅行の行程だ。行ったことのない場所のことを、さも行ったことがあるように書くのは、小説家の常套的な手口である。生涯一度もモテたことがないのに、いかにもロマンチックな恋をたくさんしてきました、という顔をしたがるのも小説家の性癖である。経歴詐称と同様に、ほとんど病気と言っていいだろう。

 加えて、ぼくにはオーストラリアへ行かない(行けない)理由があった。①お金がなかった。②飛行機が怖かった(その後、克服)。飛行機の怖い男が、お金もないのに、どうしてオーストラリアへなど行くだろうか。行くわけがない。行けるわけがない。あの小説のなかのオーストラリアにかんする記述は、すべて本による知識である。『るるぶ』や『地球の歩き方』を見て書いたのである。しかもお金がないので、本はほとんど近所の図書館で借りていた。う~む、リアルな話になってきたぞ。

 具体的にお話ししよう。ぼくの一冊目の単行本、『きみの知らないところで世界は動く』は定価1800円で、初刷りの部数は4000部である。印税率は10%なので、1800×4000×0.1=720000。あの本でぼくが得た収入は、72万円である。次っ! 二冊目の単行本、『ジョン・レノンを信じるな』は定価1600円で、初刷りは同じく4000部。印税率は8%なので、1600×4000×0.08=512000。あの本で得た収入は、51万2千円である。なんたるワーキング・プアぶり! 自分でも呆れてしまうが、とにかくそんな状態では、取材費など捻出できるわけがない。自ずと区の図書館である。『るるぶ』と『地球の歩き方』なのである。

 どうです、みなさん。参考になりましたか? 小説家を目指している方は、自分の思い描いていた夢が音をたてて崩れていくように感じられるかもしれません。それでいいのです。間違った幻想は抱かない方がいい。小説では喰えません。小説を書いて生活している作家は、出す本、出す本、売れてリンダこまっちゃう、というごく一部の人たちだけです。そうですねえ、日本では10~20人くらいではないでしょうか。ぼくだって、一度だけ宝くじがあたったようなものです。

 では、『るるぶ』と『地球の歩き方』時代のぼくが不幸だったかというと、けっしてそんなことはない。あのころはまだ子どもたちも小さかったので、いまよりも毎日が充実していたくらいだ。家族の理解に支えられてということもあるが、何より、ぼくは誰に強いられたわけでもなく、自分が好きで小説を書いていたのである。「好き」という言い方は、ちょっと誤解されるかもしれないが、とにかく小説を書かずにはいられなかった。書かないと、生きている気がしなかった。これはいまでも変わらない。だから売れなくても、やっぱり小説を書いていただろうと思う。

 小説にかぎらず、音楽にしても美術にしても、多くの「アート」はお金にならない。またアートの世界においてこそ、「winner take all」の傾向は強い。どの世界でも、勝者はごく一握りだ。勝者になる可能性はきわめて小さい。そんなことはわかっている。にもかかわらず、ぼくたちはなぜお金にならない小説を書き、音楽を発信し、作品を制作するのだろうか。

 マルクス流に言うなら、こうした行為が「理想の労働」に限りなく近いものであるからだと思う。人間の歴史が経験してきたあらゆる労働は、何かのため、誰かのための労働であるという意味で「疎外された労働」だった。マルクスは資本主義による富の蓄積が、こうした疎外された労働から人間を解放すると考えた。そこでなされる労働とは、自由で自発的な労働、それ自体を目的とした労働であり、マルクスが思い描いた生産形態の最終的な姿は、いわば「アートとしての労働」を可能にするものだった。

 今日では、マルクスの将来見通しは再考を要するものになっている。それでもなお、お金にならない文学や音楽や美術が、「疎外されざる労働」というユートピアに近いものであることは事実なのだ。たとえそれが「先進国」においてのみ許される贅沢であるとしても、この贅沢のなかには、人類の夢が孕まれている。(どうも、なかなか日記っぽくならないなあ。)