まぐまぐ日記・2012年……(7)

まぐまぐ日記
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2月14日(火)雨

 気分が載らないので、小説は棚上げにして『アクリート』のエッセーを書く。これは愛媛新聞が毎月、購読者に配っている小冊子で、ぼくの連載は4年目に入る。新年度の連載タイトルは「雨ニモ負ケズ」とした。こういう時代なので、少しでも前向きなメッセージを発信していこうと思っている。

 埴谷雄高『ドストエフスキー論集』を読む。面白い。引きつづき『白痴』も拾い読みする。この小説は大学生のときに読んだが、そのときは退屈で読み終えるのに一年くらいかかったおぼえがある。いま読むと、ムイシュキンとナスターシャの関係など、とても面白い。ムイシュキンが癲癇を起こすときの描写や、ペテルスブルグの美しい風景描写など、思わず引き込まれる。

 今日はバレンタインなので、妻が板チョコを五枚くれる。このあいだゴディバのチョコレートがあまりにも高価なので、馬鹿げていると文句を言ったことの意趣返しだ。結構。ぼくの好きな明治ミルクチョコレートをはじめ、ロッテ・ガーナチョコレート、不二家ルックチョコレートなど懐かしいラインナップだ。コストパフォーマンスもいい。三十年近くも一緒にいると、生チョコだのトリュフだのと甘いことは言っていられない。

2月15日(水)雨

 今日はさすがに小説を進める。いつまでもぐずぐずしてはいられない。午後は埴谷の『ドストエフスキー論集』を読み終える。

 3月から刊行がはじまる古井由吉自撰作品集、ファンとしては誰よりも早く予約したいところだが、「自撰」というところに引っかかっている。「杳子」以前の初期の作品がごっそり抜けているのだ。全8巻などと言わずに、小説、エッセー、講演、対談、翻訳などを網羅して、全24巻(別巻2)くらいで出してもらいたい。いま日本の小説家で、全集を出す価値があるのは古井さんくらいではないか。

 ドイツ文学者として出発した古井さんの訳業には、ブロッホの『誘惑者』という長大なものがある。またムージルの「愛の完成」と「静かなヴェロニカの誘惑」には新旧二種類の訳があり、改訳(岩波文庫版)は別物と言っていいくらい旧訳と違う。ぼくが学生なら、二つの訳を比較することによって、古井由吉の文体論を物して卒論にするところだ。

 夜は剣道。稽古から帰る途中、突然、頭のなかでローリング・ストーンズの「ロック・オフ」のリフが鳴りだし、帰ってから、久しぶりに『メイン・ストリートのならず者』を聴いた。ぼくが中学2年生のときに買った、はじめての2枚組のレコードだった。B面のアコースティック・サイド、2枚目がキースの「ハッピー」からはじまるのもよかった。

2月16日(木)曇り

 夢のシーン。森のなかで女と出会う。差し出された掌には、ほのかに白く光るものが載っている。「わたしの骨よ」と彼女が言う。すると骨はふわりと浮かびあがり、蝶に姿を変えて飛び去る。小さな翅をはばたかせ、高く昇り、最後は樹冠のあたりに漂う、やわらかな光に紛れて見えなくなる……そんなシーンを書いていた。

 あいかわらず『白痴』を読んでいる。消費社会というのは要するに、パンのみで生きると人間はどうなるかという壮大な実験をしているようなものではないだろうか。スティーブ・ジョブズが提供したものも、一見、パンには見えないけれど、やはりパンだと思う。ドストエフスキーを読みながら、そんなことを考えた。せめて放射能より長く残る小説を書きたいものだ。

 五味太郎の『ときどきの少年』(新潮文庫)を読みはじめる。これは五味さんの自伝的エッセーとでも言うべきもの。子どもたちが小さかったころ、ときどき保育園からもらってくる絵本が楽しみだった。とりわけ気に入っていたのは、五味太郎と長新太の作品だった。それらの絵本は、いまでも大切にとっている。

 夜はビリー・ワイルダーの『嵐が丘』を観る。若い日のローレンス・オリビエ、デヴィッド・ニーブンが出ている。映画としては、よく出来ているけれど、どうしても原作の狂気は薄まってしまう。ちなみに、わが家の猫は「ヒース」という。8年ほど前に飼いはじめたとき、息子たちがつけた。彼らはブロンテなど読んでいるわけがないから、出典は吉田秋生の『カリフォルニア物語』だろう。

2月17日(金)曇り

 また寒くなった。第10章の「劫火」を一応書き上げる。最後の火災のシーンはちょっとあっさりし過ぎかもしれない。あとで読み返したときに手を入れよう。

 パンのみで生きることに慣れてしまうと、パンを取り上げられることにたいして、誰もが異常な抵抗を示すようになる。脱原発というかたちで、電力を取り上げられることにたいしてもまた。人はパンのみで生きるにあらず。このことを鮮明な社会的イメージとして提示できないだろうか。

 人はなぜパンのみに生きてはならないのか。それはパンによって生きる度合いが大きくなるほど、死は恐怖と虚無に塗りつぶされた、厭うべきものになっていくからだ。自分の死は、生涯最大の笑いでなければならない。

 夜は剣道。昨日、日記で言及したばかりの、わが家のヒースが、今日は一日餌も食べずにぐったりしている。風邪を引いたのだろうか。ヒースはアメリカン・ショートヘアのオス。もう一匹のフクちゃん(雑種・推定年齢2歳半のメス)に比べると、ずいぶんデリケートだ。すぐに吐いたり、こんなふうに元気がなくなったりする。心配だが、しばらく様子を見よう。

2月18日(土)曇り・雪

 ヒース、元気になり、朝から餌をねだっている。動物はこんなふうに、具合が悪くなると絶食して、休息というシンプルな方法でたいていの病気を治してしまう。大したものだ。人間も見習わなくてはならない。

 今日は小説を休んで、マルクス『経済学・哲学草稿』のノートをつくる。ぼくの卒論はマルクスの疎外論だった。このたびの原発事故を機に、人間と自然の関係について、もう一度考えてみたいと思ったときに、まず頭に浮かんだのがマルクスだった。彼の「疎外」の概念は、現在でも有効だと思う。三種類の翻訳、さらには原書まで引っ張り出して奮闘している。原発を根本的に超えるためのヒントを得たいと考えている。

 午後から赤坂の青年センターで、劇団アントンクルーによる『旅路』を見る。原作は韓国の劇作家、ユン・ヨンソンで、翻訳者の津川泉さんが招待してくれた。上演時間は約90分、リーディングと演技を折衷させた不思議な演出だった。役者さんたちはみんな熱演だったが、ぼくにはいまひとつ面白くなかった。終わってから、津川さんたちと近くの喫茶店でアイリッシュ・コーヒーを飲みながらしばらくお喋り。店内から外を見ていると、雪が猛烈に降っている。福岡では珍しいことだ。おかげで殺風景な通りが美しく、見とれてしまった。

 本屋で時間をつぶしてから、剣道のH先生と落ち合い、軽く食事をしたあと、西中洲のライブ・ハウス「Candy」へ。オーナーのSさんは、しばらくぼくたちの道場に通って稽古をしていた。このたび店を閉めることになったので、剣道教室の仲間と遊びに行くことにしたのだ。生バンドをバックにうたいまくる。ぼくはなぜか女の人と「飾りじゃないのよ涙は」と「酒と泪と男と女」をデュエットする羽目に。なぜ? 午前1時近くまで騒いでいた。

2月19日(日)雪・曇り

 さすがに眠い。いつもは12時前にやすむのに、昨夜は家に帰りついたら1時半だった。しかしみんな元気だなあ。『経済学・哲学草稿』のノートをつづける。

 午後から梅田さんのところの栄一君が、最近書いた小説を持ってきた。原稿用紙に10枚。タイトルは「穴」。面白そうだ。きっと自信作なのだろう。読んだら連絡すると言っておいた。

 横尾忠則『坐禅は心の安楽死』(平凡社ライブラリー)が面白い。横尾さんは30代のころ、禅に凝っていた。そのころの参禅の記録だ。寒い、眠い、痛い。禅の修行は三重苦。なんでこんなことをやっているんだろう、と自問しながら、繰り返し山門を叩いてしまう参禅ジャンキー。活きのいい明晰な文章で、ザクザクと禅の本質へ切り込んでいく。

 ぼくも高校二年生の夏休みに、禅寺に泊まり込んで坐禅を組んだことがある。恋情を断ち切り、受験勉強に身を入れるためだ……なんちゃって。でも暗くて重い自我を持て余していたことは確かだ。そうでなければ、高校生が泊まり込みの参禅なんかしないだろう。