蒼い狼と薄紅色の鹿(4)

創作
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 二人を部屋に招いたのはたんなる気まぐれで、彼らが手に余るような心の闇を抱えていると直感したわけではない。ふとした出来心というか、雨に濡れて泣いている子猫を家に連れて帰るようなものだ。ときどきこんな気まぐれを起こすことがある。どうも自分の意思ではない気がする。神が介在しているのかもしれない。

「すごい本の量」藤井茜がわたしの本棚を眺めて呆れたように言った。「これみんな先生の?」
「まあ、商売道具みたいなものだからね」
「小説を書くためには、やっぱり本とかたくさん読まなきゃだめですか」
「小説を書きたいの?」
「そのために先生の授業を受けてるわけだから」
「そうか」
「なんだと思ってたんですか?」
「本を読まなくても小説は書ける」
「よかった」
「でも小説を書く書かないにかかわらず、やっぱり本は読んでほしいな。とくに文学をね」
「そうなんだ」

 藤井茜は浮かない顔をした。

「どうした。本が嫌いなのか?」
「本は好きです。大好き。たくさん読むけど、どっちかというと小説以外が多いかな」
「たとえば?」
「雑学みたいなやつ。クイズで学ぶものとか。健康法の本も大好き。ミトコンドリア健康法とかメガビタミン健康法とか。トリセツの本もたくさん読みました。男のトリセツ、わくわくする人生を送るためのトリセツ」

 わたしなら読む前に廃品回収に出してしまいそうな本ばかりだ。しかし日ごろから学生たちに、「つまらない本というのはありません。つまらないと感じるのは想像力が足りないからです」などと言っている手前、率直な意見を口にすることは控えた。

「本当に小説を書きたいの?」
「いけませんか?」
「いけなくはないけど、思いっきり文学からかけ離れたものを読んでるよね」
「文学とはかけ離れた小説が書けるかも」

 藤井茜についてはこんな感じだった。高椋魁のほうは部屋に来てからまだ一言も喋っていない。わたしが記憶するかぎり、自分の名前以外には「すいません」と「はあ」しか言っていないはずだ。彼をアントワーヌ・ロカンタン状態から引きずり出すことは、教育者としての責務である気がしてきた。

「きみは本とか読んだりするの?」
「ええ、まあ」
「どんな本」
「どんな本っていうか」
「最近読んだものは?」
「『異邦人』を読みました」
「ほお、カミュか」
「先生が授業で紹介していたから」
「それで」
「途中で意味がわかんなくなってしまって」
「なるほど」
「何が書いてあるのか、さっぱりわかんなくて」
「そういう読者は多いよ」
「だから全部は読んでないです」
「どこまで読んだの」
「最初のお葬式のところかな」
「ママンの?」
「そう、ママンの」
「そりゃまたずいぶん最初のほうだね」

 二人がコーヒーを飲み終え部屋を出ていってから、わたしはレターケースを掻きまわして一通の封筒を取り出した。教務課から回ってきたもので、なかには「配慮等を要する学生」にかんする文書が入っている。「下記の学生は、障がいのある学生の支援にかんする委員会において、配慮等が必要である旨了承されています。」障がいの程度等には「注意欠如多動性障害・学習障害(書字)・自閉症スペクトラム症」と記されている。学生の名前を確かめたところで首をかしげた。

 念のため、もう一度レターケースのなかを探してみたが、「配慮等を要する学生」についての通知はこれだけだった。ADHDや自閉症スペクトラム症と診断された学生が、わたしのクラスを受講することは珍しくない。おそらく年に数人は出会っているはずだ。釈然としない気持ちになったのは、彼らの多くがどちらかというと藤井茜のタイプだったからだ。しかし通知は高椋魁についてのものだった。

 たしかに「社会的状況把握の困難」や「対人コミュニケーションの不器用さ」といったことは高椋魁に当てはまるかもしれない。だが彼以外の多くの学生にも当てはまるだろう。「時間や物の管理、生活行動の管理が苦手である」とは、まるでわたしのことではないか。

 それ以上に、藤井茜についての文書がまわってきていないのが不思議だった。わたしにはどちらかというと彼女のほうが「配慮等を要する学生」のように思えた。