宮沢賢治の周辺(4)

宮沢賢治の周辺
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第4話 「小岩井農場」②

 ユリアがジュラ紀に、ペムペルがペルム紀(二畳紀)に由来する名前だとすると、数億年の視野で考える必要がある。そのくらい遠いともだちなのだ。そこまで遡らないと、「わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから/血みどろになって遁げなくてもいいのです」ということにはならない。それにしても「血みどろになって遁げ」るとは穏やかではないなあ。先に見たように、この詩人は一方に「何をやっても間に合はない/世界ぜんたい間に合はない」という激しい焦燥感を抱えている。そこから「ああ誰か来てわたくしに云へ/億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界はかならず来ると」といった痛切な祈りは出てきていた。

 この祈り、どこかシモーヌ・ヴェイユの不在の神に向けた祈りを想わせる。

 神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。(『重力と恩寵』田辺保訳)

 別のところでヴェイユは、「神の体験をもたない二人の人間のうち、神を否定する人のほうがおそらく神により近いところにいる」(前掲書、渡辺義愛訳)と、まるで親鸞の悪人正機みたいなことを書き残している。

 相矛盾することがらがどちらも真実である場合。神は存在する――神は存在しない。問題はどこにあるのだろう? 自分の愛が錯覚でないことを確信しているという意味合いで、私は神が存在することを確信している。実在するものがなに一つとして、神という名前を私が口にするときに思い浮かべることのできるものに似ていないことを確信しているという意味合いで、私は神が存在しないことを確信している。ただし、私が思い浮かべることのできないものは、錯覚ではない。(渡辺義理愛訳)

 とても大切なことをヴェイユは言っている。「神」を実体化してはいけないということだ。実体化された特定の神に祈ってはならない。「私は神が存在しないことを確信している」と彼女が述べているのはそういうことだ。「実在するものがなに一つとして、神という名前を私が口にするときに思い浮かべることのできるものに似ていないことを確信している」とは、キリスト教の神やイスラム教の神や、その他のいかなる宗教の神も、彼女が存在することを確信している「神」の名前には値しないということだ。

 これは『銀河鉄道の夜』の異稿で、ブルカロニ博士がジョバンニに「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」と語りかける言葉と正確に対応している。実在する特定の神に祈りはじめた途端、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだ」と主張しはじめた途端、人間の歴史は「血みどろになって遁げ」なければならないものになってしまうのだ。