蒼い狼と薄紅色の鹿(16)

創作
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 日がすっかり落ちてから、二人は高椋魁のアパートを出た。最寄りの駅から藤井茜はJRで家に帰る。途中で公園に立ち寄った。小さな池のまわりに桜が植えられ、数分もあれば一周できるほどの遊歩道が整備されている。池の向こうに茶碗を伏せたような築山が見えた。その横は滑り台などの遊具を備えた児童公園になっている。コンクリートの脚が地面に固定されたベンチに二人は腰を下ろした。高椋魁はオート・ハープを持ってきている。

「いつもここで練習する。音を聞きつけて猫が寄ってくる」

 高椋魁によれば猫はオート・ハープの音色を好むらしい。さっそく唯一のレパートリーである「グリーン・スリーブズ」を奏ではじめた。まわりは住宅地だが、このくらいの音量なら苦情もこないだろう。猫も来ない。
「まだ時間が早いのかも」と彼は言った。
「他の曲も弾いてみてよ」
「この曲しか弾けない。さっきも言ったとおり」
「練習すればいいじゃない」
「猫に曲の違いはわからないから」

 とりあえずレパートリーを増やす気はないらしい。高椋魁は「グリーン・スリーブズ」をもう一度最初から演奏した。
「やっぱりレパートリーを増やしたほうがいいと思うな」藤井茜はこだわった。「そうすればもっと猫が寄ってくるんじゃない?」
 さらに夕闇が濃くなって、家々の窓に明かりがともりはじめた。その色は家ごとに少しずつ異なっている。
「猫、好きなの?」藤井茜がたずねた。
「別に好きってわけじゃないけど、恩義がある」
 トラックの前に飛び出してきた猫によって命を救われたことを言っているらしい。それから高椋魁はまたしても「グリーン・スリーブズ」を弾きはじめた。さすがに三度目ともなると、聴いているほうはうんざりした顔をしている。
「むかしインコを飼っていたんだ」曲が終わったところで彼女は言った。「小学校に上がる前。ちゃんと人間の言葉をおぼえて喋るんだよ。お帰りとか、おはようとか。可愛かったな。高椋くんは?」
 彼はうつろな目で相手を見た。
「何か飼ってた? 猫とか犬とか」
「カメ」
 藤井茜は吹き出した。
「何がおかしいの?」
「きみらしいなと思って」悪気のない口調だった。「なんて名前?」
「アキレス」
「はあ?」
「父親が付けた」彼は機械的に答えた。「カメならアキレスだろうって」
「どういうことかなあ」
「知らない」
「何をする人だったの」
「高校の先生」
「科目は」
「数学」
 藤井茜は頭のなかの古いメモリを検索して、「なんかそういうの、出てきた気がする」と言った。「アキレスとかカメとか」
「メロスとか」
「それは太宰治じゃない」
「セリヌンティウス」
「太宰だってば。からかってるの?」

 高椋魁はまたしても「グリーン・スリーブズ」を爪弾きはじめた。よほど好きなのだろうか。貧乏ゆすりのような一種の固着反応かもしれない。不安やストレスが原因ともいわれるが、彼の「グリーン・スリーブズ」はどうだろう?
「ほんとに肉とか魚とか食べられないの?」曲が終わると、今度は高椋魁がたずねた。
 藤井茜は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「あれは嘘」しばらくして言った。
「なんだ、嘘か」
「本当だと思った?」
「藤井さんと結婚する人は大変だなって」
「どうして?」
「ごはんのこととか」
「きみなりに心配してくれたわけだね」

 暗くなったので公園の街灯がともった。二人がいるベンチの近くの街灯は、電球が切れかかってチカチカしている。
「高椋くん、猫のための音楽家になればいいよ」唐突に彼女は言った。
「レパートリー、一曲なのに?」
「猫に曲の違いはわからないかも」
 それは先ほど高椋魁が言っていたことではないか。
「生活していけるかなあ」
「猫が養ってくれるって」
 そんないい加減なことを言う藤井茜を、わたしは好ましく思いはじめている。スマートフォンで時間を確認すると、彼女はベンチから腰を上げた。促されるようにして高椋魁も立ち上がった。
「猫、いないね」
 すっかり暗くなった公園に猫の姿を探す藤井茜は、どこか頼りなげに見えた。