蒼い狼と薄紅色の鹿(11)

創作
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 父の仕事は、いわゆる顧問弁護士というものだった。企業法務に精通した十人ほどの若手弁護士を率いて事務所を立ち上げ、どこか後ろ暗いところのある会社のための訴訟対応や紛争解決によって、けっこうな報酬を得ていたようだ。仕事一筋で、妻のことも家庭のことも息子のことも顧みなかった。

 仕事の面では有能だったのかもしれないが、あまり幸せそうには見えなかった。晴れやかな笑顔など見た記憶がない。わたしの知るかぎり、父の人生は愉悦や満足とは無縁だった。野望はかもしれないが、幸福とは疎遠だったと思う。「幸福」という言葉は知っていても中身は知らなかっただろうし、知ろうという気もなかったのではないだろうか。

 そんな父が脳梗塞で倒れたのは五年ほど前のことだ。応急の措置が終わるとリハビリテーション病院に移された。あらかじめ予想されたことだが、父は新しい環境での生活に馴染むことができなかった。早く家に連れて帰ってくれ、と息子が顔を見せるたびに言った。こんなところにいたら頭がおかしくなってしまう、というのが本人の言い分だった。

 もちろんわたしは父を家に連れて帰る気など毛頭なかった。
「帰ってどうするんだよ。自分のことは何もできないのに」
「ヘルパーを雇えばいい」
「どれだけ料金がかかると思ってるの。一時間五千円として、毎日十万円はかかるんだぜ」
「カネならある。おまえに迷惑はかけん」
「無理だね。誰に父さんの世話なんかできるもんか。一週間ともたないね。どんな人でもすぐに辞めちゃうよ」

 そんなやり取りが延々と繰り返された。リハビリテーション病院から介護施設に移ったあとも同じだった。わたしのほうは洗濯物を受け取り、こまごました雑事を片付けると、文句や不満を聞かされぬうちに早々に引き上げるのが常だった。

 いまにしてみれば、もう少し話をしておけばよかったと思う。機会はいくらでもあった。脳梗塞を患ったあと、ただちに現在の状況に立ち至ったわけではない。車椅子での生活があり、食事の介護が必要になり、排泄の問題が生じ、徐々にベッドの上での生活へと移行していった。その間、頭はずっとしっかりしていた。息子の顔がわからなくなることはなかったし、五分前に話したことを繰り返すようなこともなかった。

 しかし健常な頭脳を、父は主として病院や施設や医療スタッフにたいして文句を言ったり、愚痴をこぼしたりすることに使っていた。わたしのほうも面会に行くたびに、父の愚痴から一刻も早く逃れることだけを考えていた。認知症にでもなっていたら少しは違っていただろうか? 違っていたかもしれないし、同じだった気もする。いずれにしても頭がしっかりしたまま、父は徐々に嚥下機能を低下させていき、いまや誤嚥性肺炎で死のうとしていた。

 病室にはポータブルのプレイヤーと何枚かのCDが置いてあった。一ヵ月ほど前、急に音楽が聴きたいと言い出したので、手元にあったものを適当に持ってきた。ヴィヴァルディのチェロ・ソナタ、ジョスカン・デ・プレの声楽曲、ブラームスの間奏曲……普段から音楽を聴くような人ではなかった。わたしのほうもとくにこだわりなく、病人の気持ちが落ち着きそうなものを適当に選んだ。

 これらのCDを父が聴いた形跡はない。少しは聴いたかもしれないが、すぐにうんざりしたのだろう。「まるで葬式でかかる音楽みたいじゃないか」と鼻白んだかもしれない。たしかに葬儀場で、会葬者が僧侶の入場を待つあいだに流れているような音楽ではある。「おれに葬式の予行練習をさせてどうするんだ」と、苦々しく呟く顔が目に浮かぶようだ。

 父が自分たちの結婚をどう思っていたのかわからない。積極的に関係を立て直そうとした様子はない。母の病気にたいして辛抱強く付き合ってはいたが、息子から見て気持ちが通じ合っていたとは思えない。見捨てたわけではないにしても、どこかで見切りをつけて、そのぶん仕事に打ち込んでいたのかもしれない。誠実に自分の責務を果たそうとしていたようも見える。まるで契約上の債務を履行するみたいに。それが母には耐え難かったのかもしれない。

 母が死んだ日のことは、ほとんどおぼえていない。その日、どんな様子だったのか。いつもよりもふさぎ込んでいたのか、それとも機嫌が良かったのか。記憶に残っていないということは、普段と変わりなかったのだろう。いつもどおりに起きて、とくに変わった様子もなく朝食の支度をし、父とわたしを送り出したあと、まるで外出時の服を選ぶようにして死を選んだ。長い時間を経て振り返ると、それは当たり前の日常に紛れ込んだ些末な出来事のように思える。

 予期せぬかたちではじまった父との二人暮らしは、安楽でもあり空疎でもあった。わたしたちはまったくと言っていいほど話をしなかった。そもそも顔を合わすことさえめったになかった。会話を避けるため、互いに遭遇を避けていたふしもある。朝食の時間は東京と北京の時差ほどもずれていたし、昼はたいてい二人とも外食だった。夜は夜で、わたしは学食で済ませたり、家で何か適当に作って食べたりしていた。父がどうしていたのかおぼえていない。

 ひょっとして父は、わたしが母のことを持ち出すのを恐れていたのかもしれない。どうして死んだのか。長年、彼女を苦しませた病気について思い当たることはないのか。そんなことを息子からたずねられるのは、父としても御免被りたかっただろう。実際のところはどうだったのかわからない。いまさらたずねてみる気はないし、たずねたところで、もはやまともに答えられる状態ではない。