まぐまぐ日記・2012年……(4)

まぐまぐ日記
この記事は約7分で読めます。

1月23日(月)曇り・晴れ

 午前中、気功。いまは冬の土用の時期である。「用」は動くという意味。地面が動く。そうやって、新しい季節への準備をする。心身の調律にとっても大切な時期である。そんな話をY先生はされていた。

 あいかわらずシモーヌ・ヴェイユの本を読んでいる。本に書き込みをしたり、メモを取ったりしながら読んでいるので、なかなか進まない。とりわけ「力」ついて述べているところは興味深い。いかに力の行使を免れるか、力を解除するかということは、ヴェイユの思考の大きなテーマだ。

 『経済学・哲学草稿』のノート。この著作で読むべきは、マルクスの自然哲学である。人間と自然の関係を「疎外」ととらえた彼の視点は、現在でも有効である。このことをスルーしてエコロジーだの共生だの言ってもしょうがない。原子力は究極の自然エネルギーであり、人間の科学的思考がとる究極の姿であるからだ。それを根本からひっくり返そうと思えば、「人間」の概念を変えるしかない。

 夜は剣道。最後にH先生に稽古をつけてもらう。終わったあと、肩ががちがちに強ばっていた。力が入っている証拠だ。こんなに力が入っていては、打てるものも打てなくなってしまうだろう。剣道では、いかに力を抜くかということが、いちばん難しい。これは剣道に限らない。ものを考えるときも、集中しながらも、いかに力を抜くかが大切だ。力の入った思考は窮屈で、射程が短い。

1月24日(火)曇り

 今日は小雪がちらつく寒い天気。小説が進まないので、村上隆の『芸術企業論』(幻冬社)を読む。かなり前に出た本だが、先日、新聞に載っていた彼のインタビューが面白かったので取り寄せてみた。「文化人の最終地点が大学教授でしかないなら、若者に夢を語ってもしかたがありません。」そのとおり! いいぞ、村上。ぼくの理想は、酒樽を住処として思索をつづけたギリシアの哲人だ。名前はなんといったかなあ?

 ヴェイユにすっかりはまっている。たぶん読んだ時期がタイムリーだったのだろう。自然科学や原子力についてどう考えればいいのか、大切なヒントが書かれている気がする。彼女が使う「神」という言葉は、いろいろな言葉に置き換えることができる。また、置き換えなければ面白くない。それがヴェイユを読むということではないだろうか。

 元ジャパンのベーシストで、先ごろ亡くなったミック・カーンの『自伝』(リットーミュージック)を読んでいる。一人の誠実で公正な人間の魂の記録として読み応えがある。内省的で、文学的な香りも高い。こんな人だったのか、とあらためて哀惜の思いがつのる。

1月25日(水)曇り

 小雪のちらつく寒い天気。二ヵ月に一度の九大病院受診。今日はエコーがあるので絶食で出かける。血液検査、エコーとも異状なし。支払いを待つあいだに、病院内のカフェでサンドイッチとコーヒー。

 内山節『哲学の冒険』(平凡社ライブラリー)。いい本だけれど、ちょっと物足りない。なんのために哲学を学ぶのか、という問いにたいするエピクロスの答え。「未来を恐れないためである」。思慮深いことは、ほとんどギリシアの哲人たちによって言われている。

 シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』を読み終える。久しぶりにのめり込んだ。ヴェイユの本は万人向けとは言えないが、必要としている人には、「これほど必要な本はない」と思わせるところがある。「神」という言葉に躓かずに、多くの人に読んでもらいたい思想家だ。

 そんなことをTwitterで呟いていたら、訳者の今村純子さんからメールをいただいた。Twitterでヴェイユを紹介したことのお礼だった。こちらこそ、いい本を翻訳していただき、ありがたい。

 夜は剣道。寒いけれど、「寒い」なんて言っていられない。帰ってきたらBSで『天然コケッコー』をやっていたので、ご飯を食べながら観てしまう。この映画は公開時に観て、とてもよかったので、くらもちふさこの原作(集英社文庫)まで揃えてしまった。エンドロールで流れる、くるりの「言葉はさんかく こころは四角」も最高だ。『Tanz Walzer』に収録。

1月26日(木)曇り

 今日も小雪が舞う天気。小説は新しい第10章「洪水」へ進んでいる。いつものように、まだ調子が出ない。こ書く内容は、だいたいきまっているのだが。少しずつ進めるしかない。

 午後から久山酒店へお酒を買いに行く。もう7年くらい、自分で飲む日本酒と焼酎は、この店でしか買わない。そのくらい品揃えのクオリティが高いのだ。ぼくは肝臓に持病があるので、あまりたくさんは飲めない。だから美味しいお酒しか飲まないことにしている。

 もちろん高価な酒という意味ではない。日本酒も焼酎も2500円前後(一升)のものが、いちばんコストパフォーマンスがいいと思う。日本酒は燗をして飲むのが好きなので、生酒はめったに買わない。ほとんど火入れをした純米酒である。焼酎はもっぱら芋。この2年くらい、植園酒造(鹿児島)の「園乃露」という銘柄を、飽きずにひたすら飲みつづけている。いまでは珍しい35度の芋焼酎で、お湯で薄めに割って飲むととても美味しい。この焼酎と出会ってから、他の芋焼酎を飲む気がしない。他にも美味しい芋焼酎はたくさんあるのだけれど。根が酒好きなので、お酒の話は尽きない。

 夜はトリュフォーの『華氏451度』を観る。原作はレイ・ブラッドベリ。トリュフォー自身は不本意な作品だったらしいが、なかなか面白かった。

 ミック・カーンの『自伝』を読み終える。「美しい魂」という言葉を思い浮かべたくなる、本当にいい本である。愛猫の死について綴った章などは、さながら珠玉の一篇といった趣き。この本の版元リットーミュージックは、担当編集者はもちろん、社長が元ジャパン・ファン、取締役にいたっては、年末の社内コンサート(そんなことをやっているんだ)で、メイクをしてジャパンの曲を演奏していたそうだ。素晴らしすぎる! こんな会社、世界に一つだけだろう。応援したくなってしまう。

1月27日(金)曇り

 あいかわらず寒い。小説を少し進める。非常勤講師をしている九州産業大学での後期授業の採点を終える。Web上で報告し、出力した成績表に印鑑を押し教務課へ送る。ちょっと肩の荷が下りた。

 ヴェイユの『重力と恩寵』を読み返している。どうもピンとこない。最初に読んだときは、ものすごく面白かった印象があるのだが。そのとき読んだのは田辺保訳のちくま学芸文庫(1995年)、いま読んでいるのは渡辺義愛訳の春秋社版(1968年)。この渡辺訳が、いまひとつ乗れないのだ。たとえば「surnaturel」を「本性的」と訳してある。その方が原語の意味に忠実なのかもしれないが、ここはやはり「超自然的」と訳してもらわないと、ヴェイユっぽさが出ない。

 マルクスの『経済学・哲学草稿』でも感じたことだが、訳の善し悪しは難しい。かならずしも読みやすい訳が、いい訳というわけではない。まあ、せっかく二つあるのだから、比べながら読むことにしよう。

 夜は剣道。帰ってご飯を食べているうちに、調子が悪くなった。どうやら風邪を引いたらしい。

1月28日(土)曇り

 やっぱり風邪だ。頭が重く、身体の関節が痛い。担当している講義の成績報告を終えて、気が緩んだのかもしれない。こんな体調では小説を書く気がしない。軽めのエッセーを書く。

 午後はいつものように父を施設へ迎えに行く。施設ではシャワーだけで湯船に浸けてくれない。湯に浸かることは、水圧と温度によって身体に刺激を与え、とくに老人にはとても良いと言われている。代替手段として、先週から足湯をしている。

 今日は剣道を休んで、ヴェイユの『根をもつこと』(冨原眞弓訳・岩波文庫)を読みはじめるが、気力がつづかない。夕方になって寒気がするので、熱を測ると38.4℃まで上がっていた。夜はお粥を食べて早く寝る。

1月29日(日)曇り

 今朝は平熱に戻っている。風邪は抜けた感じだが、大事をとって本格的な仕事は休む。自著『どこへ向かって死ぬか』(NHK出版)を読み返してメモをとる。自分の小説は文庫化するときくらしか読み返さないが、この本はときどき部分的に読み返している。そのたびに「こんなことを書いていたのか」とか「いま考えていることは、もう前に書いているじゃないか」とか、小さな驚きがある。また自分が書いたことの多くを忘れているのにも呆れる。今回も大いに啓蒙された。

 『前キリスト教的直観』のノートをとりはじめる。引っかかったところを、少し掘り下げてみたいと考えている。ヴェイユ独特の宗教的な文脈を漂白して、自分の言葉で読み変えることができればと思う。

 夜はダニー・ボイルの『普通じゃない』を観る。この監督は『トレイン・スポッティング』がとても良かった。アーヴィン・ウェルシュの原作(青山出版社)も面白い。『普通じゃない』は監督第二作で、こちらも面白い。主演はユアン・マクレガーとキャメロン・ディアス。とくにキャメロンが好演。コケティッシュな魅力をうまく出している。しかしこの人は、ハイレグの水着になっても全然色っぽくないなあ、と感じるのはぼくだけだろうか。