あの日のジョブズは(1)

あの日のジョブズは
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1 ジョブズの写真

 父親はシリアからの留学生だった。母親はドイツ系移民の厳格な家庭に育った。ウィスコンシン大学の大学院生だった二人のあいだに生まれた子どもは、最初から養子に出されることがきまっていた。こうして彼の姓は「ジョブズ」になる。

 養父のポール・ジョブズは高校中退後、機械工として働きながら中西部を転々としたのち沿岸警備隊に入隊、第二次世界大戦中は機械工にして機関兵だった。戦争が終わり沿岸警備隊を除隊したポールは、アルメニア移民の娘、クララ・ハゴビアンと結婚する。子どもに恵まれなかった二人は、1955年2月24日に生まれた男の子を養子にする。こうしてスティーブ・ジョブズという一人の人間が、この世界の片隅に小さな場所を占めるようになる。

 イエスの父、ナザレのヨセフは大工だった。キリスト教神学ではイエスは聖母マリアの処女懐胎によって生まれたことになっている。するとマリアの婚約者にして夫であるヨセフは、イエスにとっては養父ということになる。「処女懐胎」というのは、どう受け取ればいいだろう? キリスト教徒ではないぼくたちにはこなしきれない。苦し紛れに「養母」と解釈してみる。キリストもジョブズと同じようにもらい子だった。養父と養母によって育てられた彼らは、ともに内に激しいものを宿した。

 ナザレのイエスは言葉と行動によって世界を変えようとした。一方のジョブズは、自分たちの会社が生み出す製品によって世界を変えようとした。現に二人とも、その後の世界を大きく変えた。イエスの宗派は人種や民族を超えて世界中に広がった。ジョブズの生み出した製品は、社会的にも経済的にも文化的にも異なる何十億もの人々の日常生活を文字通り一変させた。

 歴史上の人物としてのイエスの生涯は、洗礼者ヨハネにはじめて会うところからはじまる。新約聖書によると洗礼を受けたイエスは荒野に赴き、そこに40日とどまってサタンから誘惑を受ける。ジョブズも若いころインドに出かけている。有名な導師に会うためだったという。自分のなかに過剰なものを抱えた若者を連想させる。

 ぼくが学生のころにもインドに魅せられる若者は多かった。物質的なものでは満たされないからスピリチュアルなものを求める。ぼくなども高校生のころには禅寺に入って僧侶になろうか、などと何かへの反発から考えたりしたものだ。若いということは、自分の過剰さに追いつめられるということかもしれない。

 いま手元に50枚ほどの写真がある。友人の写真家が送ってくれたデータをプリントしたものだ。1990年前後のものだそうだ。当時のジョブズはアップルを追放され、新しく立ち上げたネクストで苦戦していた。自らが創業した会社は、いまや敵とは言わないまでも追い越すべきライバルになっていた。彼は新しい自分の会社をアピールしようとPR活動に精を出し、インタビューなども積極的に受けていた。そのころの写真である。

 どのカットも魅惑的である。いずれの写真も雄弁で、さまざまなことを語りかけてくる。撮影した写真家の力量はとりあえず脇に置こう。ここでは被写体に絞って話を進めていく。この雄弁さはジョブズに特有なものだ。ビル・ゲイツやジェフ・ベゾスの写真には決定的に欠けている。少なくともぼくは、彼らの写真から何かを感じることはない。報道写真と同じで、ただビル・ゲイツをビル・ゲイツとして、ベゾスをベゾスとして認識するだけである。認証としての写真。「これが誰それか」の先に関心は向かわない。

 ジョブズの写真は、その先にあるものを語りかけてくる。ジョブズという人間のなかに内包されている物語を。若くて溌剌としたジョブズが写っている。けっして激昂しているわけではないのだが、何か内に秘めた熱いもの、強い意志を感じる。とくに目に力がある。力がありながら深く澄んで美しい。こうした印象は彼のどの写真にも感じられるものだ。何か繊細なものが写っている。激しさと同時に静けさが、強さとともに寂しさや悲しみが……そこに通奏低音のように流れている孤独を、ぼくの耳はどうしても聞き取ってしまう。いやでも耳に届いてしまうのだ。

 ジョブズのポートレートに深い陰影をつけている孤独。この孤独は、たとえばランボーの孤独ほどわかりやすくはない。地理的なものでも空間的なものでもないからだ。現にジョブズのまわりには多くの人がいた。家族がいて友だちがいて仲間がいた。アップルという会社をつくってからは多くの部下がいたし、有能なスタッフにも事欠かなかった。さらに計算高い投資家や虎視眈々とビジネス・チャンスを狙うライバル、彼が開拓した市場を喰い荒そうとする敵にも囲まれていた。ジャーナリズムはジョブズを追いかけ、熱狂的なファンは彼を教祖のように崇めた。これほど賑やかな人生は稀だと言っていい。27歳でアフリカに渡り、10年という歳月を完全な孤独のうちに過ごしたランボー、家族からも友たちからも消息を絶ち、言葉も通じない部族が住む土地で一人死んでいった男にくらべれば、ジョブズの人生は圧倒的に華やかである。

 にもかかわらず、彼は深い孤独のなかにいるように見える。追いかけてみたいのは、ジョブズという人間と切り離しようのない孤独だ。彼をめぐる物語は、ご神託めいたものも含め、すでに何人もの書き手によって数多く書かれている。それでもなお書かれていない物語がある気がする。自分だけが言葉にすることのできる物語が。おそらくジョブズの写真がもっている力、強い説得力によるものだろう。世界でもっとも広く知られている人間の一人でありながら、個人的にも知っている気がする。馴れ馴れしい言い方を許してもらうなら、ぼくだけのジョブズが存在する気がするのだ。

 経験的な事実として会ったことはないし、これからも会うことはない。しかし彼のことを知っている気がする。この「知っている」という感覚は、過去からやって来るようでもあるし、また未来へと運ばれるようでもある。かつて彼のことを知っていたし、いつか知ることになるだろう。写真が語りかけてくるものを自分の言葉にすることが、ぼくにとってジョブズという一人の人間を知ることなのかもしれない。

Photo©小平尚典