14 還暦
60歳になった。還暦である。身に覚えのない気分だ。60年でひとまわりして生まれた年の干支に還るといっても、十二支のほうはともかく、十干なんて日ごろはほとんど意識していない、と文句を言っても還暦である。
歳をとるのが難しい時代だと思う。人は否応なく老いる。しかし歳をとることは、それとは違う。やはり重ねた年月に相応のものが伴わなければ、歳をとるとは言えないだろう。その意味で、誰にとっても歳をとることは難しくなっている。
昨夜も子どもたちとワインを飲みながらクイーンのライブ・ビデオを観ていた。「フレディって、かっこいいのか悪いのかわかんないよね」などと、60歳のおやじと30代の息子たちの話が噛み合っている。これでいいのか! わが家的にはいいのだけれど、広く世間に目を向けると、やっぱりちょっとまずいのではないかという気がしてくる。
世代が消滅している、ということなのだろう。ぼくが学部学生のとき、主任教授が還暦を迎えて、みんなでお祝いをしたことがある。ぼくたちから見ると立派な「老教授」だった。33歳上の父にたいしても別世代という意識が強かった。戦争に行った父と、戦後の民主主義教育でぬくぬく育った息子とでは、完全に価値観が異なっていた。ぼくが「天皇制なんてなくしてしまったほうがいい」と言うと、父はむきになって反論したものだ。政治のことで夜更けまで激しく議論したことは何度もある。
いまはどうだろう? 息子たちと議論をすることはほとんどない。ぼくがトランプや安倍晋三の悪口を言うのを、彼らは「うるさいなあ」とか「困ったもんだ」といった顔で聞き流している。そんなことを言ってもしょうがないと思っているのだろう。ぼくだってしょうがないと思っている。でも腹立たしいからつい言ってしまうのである。しかし価値観の違いや、世代の対立といったほどのものではない。「父親は勤勉に働いて家族を養うべき」といった考え方は、子どもたちにもないし、ぼくにもない。当の父親にないのは問題だが、幸い奥さんにもなかったらしく、「働ける人が働いてお金を得ればいい」ということで夫の面倒も見てくれた。これでいいのだ!
いや、よくない。おまえはバカボンのパパではないだろう。そんなことだから60にもなって息子たちとフレディ・マーキュリーの話で盛り上がっているんじゃないか。それはそうだけど、とにかく親も子もインターネットや携帯電話などの同じインフラを使い、同じような消費生活を送っていては、世代間の差異や対立などは生まれようがない。ただ息子たちのほうが絶望の度合いが深く、そのぶん覚めているという気はする。
歳をとることの中身が絶望や諦観だけになっては、面白くもなんともない。短期的には絶望でも、長期的には希望であり、最終的にはハッピイエンドだぞ、という考え方をつくって、自分がバカボンのパパでないことを証明したい。とはいえ奥さんから、「あなたは思ったことをすぐに口にしてしまう、行動に移してしまう。もっと熟考できる大人になってくださいネ」などと言われると、「そうか」と腕組みをして、こういうときだけ熟考してしまう。
ぼくにも思うところはあるのだよ。とくにトランプや安倍を見ていると、ああはなりたくないと思う。だがしかし、「思ったことをすぐに口にしてしまう、行動に移してしまう。もっと熟考できる大人になって」といううちの奥さんの言葉は、そのままトランプや安倍に当てはまるではないか! ということは、このまま歳をとりつづけると、いずれ彼らのようになってしまうということだろうか? メラニア・トランプ、それに安倍昭恵、何か言ってやったほうがいいぞ。そんなことより、ぼくのなかですでにドナルド化や晋三化がはじまっているとしたら……おそろしいことだ。
わかった。いまこそ誓おう。沈思黙考の男になる。熟考、熟慮を重ねて生きる。人の悪口はできるだけ言わない。新聞の一面にトランプや安倍の顔写真が出ていても、マジックインクでウサギさんの耳を描いたり、ミッキーマウスの鼻と髭を付けたりしない。他にもいろいろありますが、今日のところはとりあえず。