ぼく自身のための広告(21)

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21 ホウタレ

 ホウタレ、ぼくにとっては懐かしい名前だ。亡くなった父が若いころ好んで食べていた魚で、お酒の肴には、これがいちばんいいと言っていた。安月給の公務員だったので、負け惜しみも多少はあったかもしれないが、他の高級魚よりも口に合ったのは事実だったようだ。

 カタクチイワシというのは通常は干物などに加工されることが多い。傷みが早いからだろう。しかし新鮮なホウタレの刺身は、子どもの口にも美味しいと感じた。魚屋さんの店頭でザルに盛られているホウタレは、青く光って見た目もきれいだった。これを買ってきて刺身にするわけだが、このとき包丁の類は一切使わない。素手、というか指だけで刺身にしていく。傷みが早いのは身がやわらかいからだ。親指と人差し指でちょっとひねると、頭は簡単にもげてしまう。臓物を取り除き、手でしごきながら骨をはずしていく。慣れると調理も早い。うちの母などはてきぱきと三枚におろしていた。冷水でさらして水分をしぼり、皿に盛って出来上がり。素朴なところがいいのだ。ほとんど漁師料理の延長みたいなものだったのしれない。

 ホウタレの刺身は醤油にワサビで食べるのが普通だが、母はときどき酢味噌とあえて「ぬた」にしていた。さっと茹でたネギとよく合った。少し鮮度の落ちたものは煮物などにもしたが、骨がましくて子どもは持て余した。酒も飲まないのに、やっぱり刺身が美味しいと思った。「寒ボウタレ」というくらいだから、シーズンは冬場だったのだろう。季節が移って初夏になるとキビナゴが食卓にのぼるようになる。これも美味しいのは刺身と酢の物だ。酢の物にするときはキュウリと合わせ、薬味にネギやショウガを添えると、いかにも夏を感じさせる涼しげな料理になった。

 宇和島地方には他にも懐かしい魚料理が幾つもある。鯛そうめんというのも、やはり郷土料理になるのだろうか。大皿にそうめんを盛り、その上に魚の煮汁をかけ、最後に尾頭付きの鯛を丸ごと載せる。いかにも豪快で見栄えがいい。主に秋まつりなどハレの料理で、小皿にそうめんとほぐした魚の身をとりわけて客人にふるまわれた。父がお酒を飲んだせいか、フカの湯ざらしもわが家の食卓にはよくのぼった。湯通しして水にさらしたフカの切り身を酢味噌でいただく。いまでも宇和島に帰ったときには、ときどき注文する。あと、ぼくが好きなのは丸ずし。酢飯のかわりにおからを使い、酢でしめたサヨリやイワシなどの魚を巻いたもの。他の地方では目にしたことのない、美味しい郷土料理である。

 現在ではじゃこ天という名称がすっかり定着してしまったが、ぼくたちが子どものころは「てんぷら」と言っていた。てんぷらといえば魚のすり身を揚げたもののことで、衣を付けて揚げた正統なてんぷらはなんと呼んでいたのだろう? いずれにしても紛らわしいということで「じゃこ天」になったのだろう。ハランボという小魚をすり身にすると聞いたことがある。揚げたてのものはそのまま、冷えたものは少し火で炙って食べた。大根おろしを添えると、立派な朝ごはんのおかずになった。

 四季をとおして豊かな海の幸を贅沢に口にしながら育ったことになる。とりわけ新鮮なホウタレの味など、いまではおぼえている人は少ないかもしれない。室生犀星の詩ではないが、ふるさとは遠くから想うものということだろうか。この「遠さ」には時間的な意味もあって、故郷を離れて四十年以上も経つと懐かしい人たちの多くは亡くなり、街も自然も変貌し、ホウタレの味も幻として追い求められるものになった。悲しくうたっているつもりはないけれど、こんなふうに文章にすると郷愁めいたものがまとわりついてくるのは、そのせいかもしれない。(「Eのさかな」2019.夏)