57)ボサ・ノヴァの女王、デビュー作

ネコふんじゃった
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 ときは1963年、かの名作『ゲッツ・ジルベルト』の録音時。スタジオに遊びに来ていた妻に、夫のジョアンが「おまえも一曲歌ってみないか」と声をかけたのが、そもそものはじまりであった。いくらジョアン・ジルベルトの妻とはいえ、素人に一曲まるまる歌わせるのは無謀だ。とりあえずアスラッドは「イパネマの娘」の、英語の歌詞の部分だけを歌うことになる。これが大げさに言うと、ボサ・ノヴァの歴史を変えた。

 それまで彼女は、台所で鼻歌くらいしか歌ったことがなかったという。ボサ・ノヴァなんて、もともと鼻歌みたいなもの……というのは表面的な聴き方。鼻歌が歌えれば、ボサ・ノヴァが歌えるわけではもちろんない。声の質、リズム感、発声など、ボサ・ノヴァという音楽を心地よく聴かせるためのハードルは、意外と高い。これらすべての素質を、アストラッドは備えていたのである。加えて、英語の歌詞でもボサ・ノヴァっぽく歌ってしまうという稀有の才能が、彼女をインター・ナショナルなスターにした。

 ジルベルトの妻であったという偶然は、やはり大きい。もともとボサ・ノヴァという音楽は、ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンという二人の天才が作り出したようなもの。アストラッドは、いわば彼らの愛弟子である。ここで聴かれる歌も、まさにジョアン・ジルベルトを女性の声にしたような味わい。選曲はジョビンの作品を中心に、ベスト・オブ・ボサ・ノヴァといったラインナップ。ボサ・ノヴァ入門に、最適の一枚と言えるだろう。(2020年7月)