現代文学として『源氏物語』を読む……第2回 まぼろし

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 『源氏物語』は最愛の人の死からはじまります。ときの帝は一人の更衣を溺愛している。更衣は身分の低い妃で、寝殿は内裏のなかでも北東の端(淑景舎)にあります。別名桐壷と呼ばれることから、この薄幸の更衣は桐壷更衣、彼女を愛した帝は桐壷帝と呼ばれることになります。

 桐壷帝の正妻は弘徽殿女御で、帝の東宮時代からの妃にして、第一子(のちの朱雀帝)の母です。右大臣の娘なので押しが強い。桐壷更衣の父も大納言まで登った人なので、身分が低いというわけではないのですが、故人ということもあり立場は弱い。

 その更衣を桐壷帝が身も世もなく寵愛し、朝に夕に自分の寝殿(清涼殿)に呼ぶものだから、他の女性たちの妬みをかい、途中でいろいろ嫌がらせをされたりします。こうした心労が重なって更衣は病気がちになり、ついには実家で亡くなってしまう。内裏のなかでは弘徽殿女御に呪い殺された、などという噂までたてられる始末です。娘を看取った母親が「よこさまなるやうにて(横死同然に)」と言っているくらいですから穏やかでない。悲嘆に暮れて日を送る帝が詠んだ歌。

 たづねゆくまぼろしもがなつてにても 魂のありかをそこと知るべく

 現代語訳には歌の解説が付いているものが多いのですが、谷崎潤一郎は「更衣の魂を尋ねに行ってくれる幻術士でもいないものであろうか、彼女の魂のありかが何処であるかを知るために」と注釈を付しています。瀬戸内寂聴訳では「あの世まで楊貴妃を探し求めたかの幻術士よ、わたしの前にもあらわれてほしい。あの人の魂魄の行方を探し、その在処を知らせてほしい」、いちばん新しい角田光代さんのものは「亡き桐壷の魂をさがしにいく幻術士はいないものだろうか。そうすれば、人づてにでもそのたましいのありかを知ることができるのに」となっています。

 いずれも「まぼろし」を「幻術士」と訳しているところが面白いでしょう? 「まぼろし」とはぼくたちが日常使う「幻影」という意味ではなく、魔法使いやシャーマンに近い存在なんですね。そういうのが物語の最初から出てくる。帝は明け暮れに白居易の『長恨歌』を読んでいたらしく、そこに楊貴妃のことが歌われ、容姿が描かれていました。瀬戸内さんの訳にあるように、帝は亡き更衣を楊貴妃とくらべ、わが身を漢の皇帝(玄宗帝)になぞらえているわけです。『長恨歌』には「道士」とあり、「能ク精誠ヲ以テ魂魄ヲ致ク」と記されています。つまりあの世とこの世を往来して、死者の消息を尋ねることのできる存在だったのでしょう。

 『桐壷』は光源氏の誕生から元服(12歳)までを扱っています。物語を進めて41巻の『幻』を見てみましょう。源氏は52歳になっています。現在の年齢でいうと70歳くらいでしょうか。その間、40年の歳月が流れたことになります。前年の秋、源氏は長年連れ添った紫の上に先立たれ、季節が進むごとに昔のことを思い出しては悲嘆に暮れています。一周忌(8月14日)が過ぎ、10月になって時雨がちになるころ亡き妻を想って歌を詠んでいます。

 大空をかよふまぼろし夢にだに 見えこぬ魂の行く方たづねよ

 大空を自在に渡る幻術士よ、夢にさえ現れてくれないあの人の魂はいったいどこへ行ったのか? その行方を捜してわたしに教えておくれ、というほどの意味でしょうか。41巻が『幻』と呼ばれるのは、この歌に由来しています。

 またしても「幻術士」です。桐壷帝が溺愛した更衣の死を悼んで詠んだ、あの「まぼろし」がここで再び出てきます。歌の内容もほとんど同じですね。桐壷帝と光源氏、50年の時を隔てて詠まれた二つの歌はともに最愛の人の死を嘆くものです。

 『幻』は光源氏の最晩年の一年間を描いています。このあとに『雲隠れ』という源氏の死を暗示するタイトルだけが置かれ、つづく『匂宮』からは源氏の息子・薫(じつは源氏の正妻・女三宮と柏木のあいだに生まれた不義の子)を中心とした物語になります。そのあいだに8年間の空白があるのですが、どうやら『幻』のあとで源氏は出家し、2、3年後に亡くなったらしい。

 つまり光源氏の生涯を描いた『桐壷』から『幻』までの物語は、最初と最後に同じ歌が置かれていることになる。最愛の人の死ではじまり、最愛の人の死で終わる物語、と言ってもいいでしょう。そして亡くなった人への想いを、父も子も大空を渡る「幻術士」に託している。大空を自在に行き来する幻術士よ、あの人の魂の行方を尋ねておくれと。何か因縁めいたものを感じますね。

 『源氏物語』は不思議な作品です。男女の情念や女たちの嫉妬など、トルストイやドストエフスキーの近代小説のような生々しさで描かれているかと思うと、呪術的と言っていいような古代の習俗や観念が顔を見せる。それらが平安京の内裏という非常に狭い世界の、貴族たちの暮らしのなかで展開され、物語に陰影をつけている。『万葉集』にもそういうところがあります。現代にまでストレートに伝わってくる情感と、古代の呪術的なものが混然一体となっている。そこが『万葉集』や『源氏物語』を読む面白さの一つではないかと思います。

 現代社会のなかにも、この「まぼろし」は姿かたちを変えて現れます。生きている者と死者を媒介する幻術士のような存在ですね。それを若い人たちは小説のなかでいろいろ工夫して書いている気がします。インターネットのようなテクノロジーを幻術士として使うとかね。あるいは脳内化学物質の作用によって「まぼろし」を生み出す。現代の暮らしのなかに古代的(呪術的)なものをうまく取り入れると面白い小説になります。興味のある人は、そういうストーリーを考えてみてください。(2020.9.30)