第3回 『万葉集』(後半)

九産大講義
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6 草摘みの歌
 
 『万葉集』には、春菜摘みの歌が数多くおさめられている。もともと草摘みは、天候の安定や豊作や村落の平穏無事などを祈願するために、共同体的秩序のもとで行われる予祝的な神事だった。この予祝は、神との約束を一定の条件のもとに満たすことによって成就されると考えられていた。その条件として、標(しめ)という標識を立て、神縄などを結び渡し神域とした。「標結ふ」ことからして、何らかの願望のために神に働きかける魂振り的な行為であったと言える。

 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(1・20)

 この額田王の有名な歌を、「なんて大胆なことをなさるの、わたしに向かって袖を振るなんて。野の番人に見られたら大変じゃないの」と恋歌ふうに解していいものかどうか。むしろ懸命に草摘みをする乙女に悪戯をしかける男(天皇)を、やや遊戯的な気分で軽く戒める歌、というくらいに受け取った方がいいのではないか。標野で草を摘む女性は神事にたずさわっているのだから、一時的に禁忌(タブー)の状態にある。いかに天皇であろうと、そのような女性に袖振る(モーションをかける)のは不謹慎な行為であったはずである。

 明日よりは 春菜摘まむと 標し野に 昨日も今日も 雪は降りつつ(8・1427)

 同じように、山部赤人の有名な歌も、たんに「草摘みができなくて残念だ」という意味にはならないだろう。雪が降って草摘みができないということは、祈願が成就しないということだ。共同体の将来がかかっている。たんなる自然愛好家の歌というよりは、やはり何か霊的な交感が詠まれていると解すべきだろう。
 草摘みが神事的儀礼であったことを示す歌としては、つぎのようなものの方がはっきりしているかもしれない。

 いざ兒等 香椎の潟に 白たへの 袖さへぬれて 朝菜つみてむ(6・957)帥大伴卿
 時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな(6・958)大弐小野老朝臣
 往き還り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしも無し(6・959)豊前守宇努首男人

 大宰府の長官であった大伴旅人が、大納言に任ぜられて大宰府を去り、奈良へ向かうときに詠んだとされる。香椎宮に参詣したあと、一行は近くの香椎潟で海藻を摘んだ。その一首目に、「さあ皆の者、袖の濡れるのも気にせずに、朝餉の藻を摘もうではないか」といった解釈をあてていいのかどうか。現在でも、下関市の住吉神社と北九州市の和布刈神社では、陰暦の大晦日から元旦にかけて、夜中の干潮時に神官が海に入ってワカメを刈り、神前に供えるという神事が執り行われている。旅人たちの歌に詠まれているのも、これに類することではなかったかと思われる。おそらく道中の安全を祈願し、都への帰還を確実にするための、予祝的意味をもつものだったのだろう。
 折口信夫は「国文学の発生(第四稿)」のなかで、「呪言はもと、神が精霊に命ずる詞として発生した。自分は優れた神だということを示して、その権威を感銘させるのであった」と述べている。折口が「ホ」の音に着目したことは、よく知られている。「ほぐ(祝ぐ)」や「ほむ(褒む)」など、「ほ」を語幹とする動詞は、もともと神が精霊に向かって働きかける動作を意味していた。「ことほぎ(寿ぎ・言祝ぎ)」の詞に感応して、稲に宿っている精霊が「ほ(穂)」を出す。これが「よごと(寿詞)」や「のりと(祝詞)」の古い形式である、と折口は考えた。
 最初は神の一方的な託宣であってものが、しだいに神と精霊の問答として様式化されていく。つまり神の言葉に答えて、精霊のほうもなんらかの応答をする。実際の神事では、神に扮した人間と精霊に扮した人間との問答になる。それが神に扮する人間と神を接待する村の処女との問答になり、さらには村の男と女の掛け合いになっていった、というのが折口の説である。おそらく穂を出す、実をつけるといった自然現象は、生殖行為とのアナロジーによって、神に扮する男と精霊に扮する女のやりとりに転化しやすかったのだろう。こうした過程を経て、五穀豊穣を祈願するための神事が、「うたがき(歌垣)」のような男女の性欲的な問答へ発展していき、さらに時代が下ると、相聞に見られる恋愛詩的なものになっていったと考えられる。
 白川静も同様のことを述べている。氏族共同体の時代には、神事的な習俗として行われていた草摘みが、共同体的紐帯の弛緩とともに、私的な予祝行為として行われるようになった。『万葉集』にみえる草摘みの歌は、そうした時代のものだというのだ。豪族勢力が伸長し、地域的政権が成立するなかから、王朝的な統一政権が樹立されるに及んで、古い共同体は解体していかざるを得なかった。律令制的な新しい国のしくみのもとで、社会構造は変質し、古代的な共同体の秩序は失われていく。それにともない、元来は氏族共同体的な神事として行われていた草摘みが、しだいに個人的な動機によって行われるようになったということだろう。

 君がため 浮沼の池の ひし採むと 我が染めし袖 ぬれにけるかも(7・1249)人麻呂
 君がため 山田の澤に ゑぐ採むと 雪消の水に 裳のすそぬれぬ(10・1839)不詳
 妹がため 菅の実採とりに 行く吾を 山路にまどひ この日暮しつ(7・1250)人麻呂

 これらの歌で「ヒシ」や「クワイ」や「ヤマスゲ」の実を採ることは、「あの人に差し上げるために」ではなかったと思われる。そのような現物贈与のために採集が行われたのではなく、先の春菜摘みの歌と同様に、神々との約束を果たすことによって自分の魂を相手に魂に合一させようという、魂振り的な行為だったと考えられる。こうした「君がため」「妹がため」という発想をとる歌は、『万葉集』のなかには非常に多く見られる。いわば紋切型の常套的表現だったと言っていいだろう。「片歌」や「旋頭歌」の古い形式が、類型は類型のままに個人的な契機の方へ引き寄せられていった。そして徐々に相聞的な予祝の歌に転化していったということだと思う。
 歌に込められた真実味という点ではどうだろう。あまりにも類型的というか、ただ雛型に適当な言葉を入れただけの歌にも見える。これらは本当に恋愛詩なのだろうか。ある特定の一人の相手を念頭において詠まれたものなのか。たしかに「君がため」「妹がため」とうたわれてはいるが、どこか外面的、形式的な感じを拭えない。当事者でなくても容易につくれそうな歌だ。個人による表現というよりも、なお集団的な表出行為という側面が強いように感じられる。

7 「恋歌」という誤読

 恋歌が挽歌に由来するという説を唱えたのは折口信夫だった。先述のように、古代の鎮魂法の中心的な観念は、「魂振り」と呼ばれるものだった。「魂ごひ」「魂よばひ」など、幾つかの呼び方があり、いずれも魂のつながりを回復しようとすることを目的としている。古い時代の挽歌には、すべてこうした魂振りの意味が込められている。
 『万葉集』が成立した七世紀から八世紀は、古代的なものが滅び、律令的国家の体制が急速に進行しつつある時代だった。火葬の施行によって、古来の招魂儀礼は衰退し、それとともに挽歌本来の意味合いも失われていく。すると挽歌が、あたかも恋歌のように見えてくる。

 君が行 日長くなりぬ 山尋ね 迎へに行かむ 待ちにか待たむ(2・85)
 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根し枕きて 死なましものを(2・86)
 ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに(2・87)
 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いづへのかたに わが恋ひやまむ(2・88)

 第二巻には、挽歌とともに相聞も数多くおさめられている。編者たちは、これらの歌を相聞に分類している。相聞とは、ある特定の相手に向けた贈答歌である。『古今和歌集』以降は、「恋の歌」と解されるようになっていく。もちろん『万葉集』における部立ては、大伴家持たちが採用した編集方針であり、歌がつくられた目的や状況を反映したものでは、かならずしもない。
 上の四首は、いずれも磐姫皇后が亡き天皇(仁徳)をしのんでつくったとされる歌である。元来は挽歌であったという白川などの説は、自然な解釈のように思える。しかし八世紀の中ごろには、すでに相聞として読まれていた。当時の編者たちの理解の仕方では、これらは「恋の歌」に分類されるものだった。『記紀』や『仁徳記』などの記述によって、ずいぶん嫉妬深かったと伝えられる磐姫皇后が、亡くなった夫への恋情を吐露した歌、といった解釈になる。
 たしかに、そう読めてしまう。また、そのように受け取った方が、現代のわれわれにはしっくりくるところがある。恋の歌、しかも非常に激しい恋の歌である。二首目などは、とくにそう読める。「こんなにも恋焦がれるくらいなら、いっそ死んでしまった方がましだ」といったところだろうか。うたい手の苦しい胸の内が伝わってくるようだ。三首目にも、「白髪になるまで、あの方をお待ちしよう」と強い情念が込められている。
 挽歌として読めばどうなるだろう。一首目の歌には、「待ちにか待たむ」という表現が出てくる。三首目にも、「君をば待たむ」と似た言いまわしが使われている。白川によると、「待ちにか待たむ」「君をば待たむ」「待つには待たじ」といった類型的表現は、本来挽歌のものだった。また「山尋ね」とは、死者の葬られている山中の墓所を訪ねることであった、と折口は述べている。すると四句の「迎へに行かむ」というのは、死者の魂を迎えに行くという意味になるだろう。そこで死者の魂が寄り添ってくるのを待つのである。
 古代の自然観においては、天候や気象もしばしば霊的なものとのつながりにおいてとらえられる。彼らにとって自然は、多分に神話的なものだった。すると四首目の「秋の田」の歌はどうだろう。ここで詠まれている「朝霧」は、田んぼの稲穂の上にぼんやりかかっている水蒸気というよりは、もっと霊的なニュアンスをもっているのではないだろうか。鳥が死者の霊の具現化したものであったように、ここでは霧が、そのようなものと観ぜられていたのかもしれない。秋の田にかかった朝霧が、あなたの霊のように見える。それはどこへ帰っていくのだろう。あなたの魂の在所を知ることができるなら、こんなふうに切なく乞い求めることもなくなるであろうに……。
 折口も言っているように、飛鳥・奈良の時代に至ってもなお、宮中に仕えていた女性たちは、みんな巫女としての自覚をもっていた。彼女たちは宮廷の神および神なる君に仕えていたのである。したがって故人を偲ぶ歌にも、そうした巫女的な気分が底流していたと考えなければならない。先の磐姫皇后の歌は、おそらく代作者が彼女の立場で詠んだ歌だろう。自分以外の女性を寵愛する夫への嫉妬に悶え苦しんだ、という伝説の皇后である。彼女の気持ちを想像しながら、代作者たちは歌をつくったはずだ。これらの「恋の歌」は、同時に巫女の魂振り的な歌としての側面をもっている、と言うこともできるのではないか。

8 「魂振り」の恋愛への転化

 家持の時代には、すでに人々のなかから、魂振り的な感受性が失われていたということかもしれない。すると相聞の文脈で読むしかなくなる。先の「秋の田」の歌などは、主観と客観がうまく組み合わされた、非常に完成度の高い歌として受け取られたはずだ。叙景のなかに抒情を映す「朝霧」は、はかないものの比喩や、鬱屈した心象風景ということになるだろう。これらのことは歌を受け取る側の自然観が変化したことを暗示している。自然から神話的な意味が失われるにつれて、秋の田に漂う霧は、繊細な恋愛感情を投影するための比喩的自然に変容していく。あるいは恋愛の象徴としての自然としてとらえなおされていく。こうして挽歌は、しだいに恋歌として読まれるようになっていったと考えられる。
 挽歌が魂振りの意味合いを失い、恋歌として読まれていくにつれて、今度は挽歌的な表現を手本として恋歌がつくられる、という逆転した現象が生まれてきた。歌の解釈が、歌のつくり方に反映してくるわけだ。その理由として、短歌の独特の声調が早い段階の挽歌において成立したこと、初期の挽歌が歌として高い完成度を示していたこと、などが考えられる。また何よりも挽歌は、故人への追念や思慕の情を述べるものだから、相聞的な抒情性を表現するのに適したスタイルであった、とも言えるだろう。
 類型的とも言える挽歌の表現を踏襲しながら、恋愛詩としての抒情性が展開されていく。とくに強い恋情を詠んだ歌では、意図的に挽歌の修辞法が使われるようになっていく。

 君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(4・488)額田王
 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ(4・489)鏡王女

 第四巻におさめられた相聞である。一首目には額田王が天智天皇を偲んでつくった歌という題詞がついている。二首目の作者、鏡王女についてはよくわかっていない。本居宣長は額田王の姉と考えていたようだが、異説も多い。二首とも秋相聞として第八巻にも出てくるから、当時は代表的な相聞歌とされていたのだろう。少なくとも編者たちの目に、完成度の高い歌と映っていたことは間違いない。第四巻と第八巻は、ともに大伴家持が編集したと考えられている。彼は後代の詠み手たちに、「これらを手本にしなさい」と言いたかったのかもしれない。
 一首目を額田王の作とすることには、早くから疑問がもたれていた。作風が他の額田王の作とされる歌とはあまりにも異なっていること、「すだれ動かし秋の風吹く」といった繊細な表現が、この時代に突然あらわれることの不自然さ、などが主な理由だ。やはり後代の歌人が仮託してつくった歌と解するのが穏当だろう。つまりフィクションである。額田王や鏡王女といった叙事伝説上の女たちをヒロインとしてつくられた、虚構の恋歌ということになる。
 歌の作者は、二人のヒロインを、ともに天智天皇の寵愛を受けた女として想定している。いわば恋敵であり、二人のあいだには嫉妬などの対立感情があったかもしれない。そこで一首目、「すだれを動かして秋風が吹いていく」といったデリケートな情感を湛えて、恋する人を待ちかねている切ない女心が優美に描かれる。それに答えた歌、「風をすら恋焦がれているなんて、羨ましいこと。風が吹くたびに、あの人が来たのかしら、と胸をときめかすことができるなら、何を嘆く必要があるかしら」といくらかの皮肉を交えながらも、いじらしく応じる。まさに相聞の形式を踏んだ恋の鞘当てが繰り広げられているわけだ。
 いずれの歌も、誰か特定の人を想定して詠まれたものではないだろう。挽歌の類型を踏みながら、表現の上での洗練と繊細が追求されている。その結果、先の磐姫皇后の歌に比べると、呪術的な暗さ、重さ、激しさ、おどろおどろしさは影を潜め、上品で可憐な印象を与えるものになっている。理解できない言いまわしはない。そこに表現された、恋する女たちの心情は、現代のわれわれにもすんなり通じてしまう。その意味では、モダンな歌と言ってもいいかもしれない。
 こうした歌が秋相聞を代表するものとされ、長い歳月にわたって人々に愛誦されてきた。読み手に「いいなあ」と思わせるものがあったからだろう。歌を受け取る人々の心に共鳴する何かがあった。だから時代を超えて愛誦しつづけられた。フィクションの力とは、そういうものだと思う。歌が詠まれた状況は嘘だとしても、歌に詠まれたものは真実である。

8 恋愛感情の発見

 いったい恋愛感情というものは、いつごろ、どのようにして発見(発明?)されたのだろう。性愛は生殖に重きを置いたものであり、動物としての本能的な色合いを強く残している。そこから恋愛感情が生まれてきたとは考え難い。生殖はどこまで行っても生殖であり、恋愛とはとりあえず関係がない。ぼくたちが恋愛感情として知っているものは、生殖や性愛とは、まったく別のところからやって来たように思われる。
 これまでに見てきた文脈で言えば、日本における最初の恋愛詩は挽歌のなかから出てきた。挽歌には、古い呪歌の伝統が反映している。そこで中心的に詠われているのは、魂振りによる死者への鎮魂だった。こうした挽歌のなかで、はじめて強い感情表現があらわれる。たとえば「待つ」という表現は、死者の魂との交感の場面で、とりわけ切実な意味をもった。死者の面影が甦り、その魂が自分に寄り添ってくれるのを「待つ」のだ。待ちきれないときには「迎えに行く」という表現が使われた。これも死者の魂を迎えに行くのである。こうした歌がつくられた背景には、生者と死者が自然を媒介として霊的に交感し合う古代的な世界観があった。
 やがて律令的な国家の体制が確立されていくにつれて、古代的なものは滅びていく。氏族共同体的な紐帯を解かれた人々は、いわば一人ひとりの個人として、新たな秩序と緊張関係なかを生きることになった。こうして公的・儀式的な魂振りは、少しずつ私的・個人的なニュアンスを強めていったと考えられる。やがて磐姫皇后の歌に見られるような、一人の「私」の立場から、死者にたいする激しい追念思慕の情を詠んだ歌があらわれてきた。
 この時代に至ってもなお、個人的動機から歌がつくられることはなかった。当時の人々には、個人の感情を表現する機会も、また必要もなかったと言っていい。個人も作者もないところで、長いあいだ歌は詠まれ、つくられてきた。「魂ごひ」や「魂よばひ」といった招魂儀礼にしても、もとは共同体の利益のために、あるいは皇位継承のような公的な目的で、儀礼的に行われていたものだった。そこに表現された感情は、今日のわれわれが想像するよりは、ずっと政治的でドライなものだったと思われる。
 磐姫皇后の挽歌にしても、個人的動機からつくられたものではないだろう。作者は人麻呂のようなプロの宮廷歌人ではなかったか。彼らが磐姫皇后に仮託して歌を詠む。そこにはどんな意味や目的があったのだろう。おそらく天皇という共同体の運命を左右する重要な人物の死を神話化し、統一的な国家意識のようなものに高めたかったのだと思う。そのために嫉妬深いヒロインが呼び出された。彼女の立場から、一人称的な「私」の場所で、過去の天皇にたいして強い哀悼の意を表す。彼女の思いが、共同体的意識にまで高められ、共同体の成員たちによって共有される必要があった。いわば政治的な目的のために、仮託(虚構化)して詠まれた歌は非常に効果的に機能した。
 同時に、この段階に至ると、もとは公的・儀礼的であった挽歌が、個人の私的感情を盛り込むことのできる器として整えられていることがわかる。公的な挽歌を利用して、私的な感情は表現の水路を見出したと言ってもいい。個人の意識や意思が寄せ集まって、共同体的意識が生まれてくるというのは誤りである。むしろ共同体的意識のなかで、個人の意識や意思が発見されると言ったほうが正確だろう。同様に、最初に個人のリアルな感情があり、それを表現するための言葉が生まれてくるというのは、道筋としては間違っている。少なくとも文学の場合は、まず形式がある。自由詩の前には、定型詩の時代が長くつづいた。
 しかも磐姫挽歌に見られるように、古代の叙事的な物語や人間関係に仮託して歌が詠まれる時代が長かったと考えられる。現代のわれわれの感覚で言えば、フィクションのなかで歌をつくるということだ。伝説的な天皇や妃たちを主人公に立てて、彼らは多くの歌を詠んだ。そうすることで歌はドラマ性を獲得していく。誇張をともなった、激しい叙情性を獲得していく。こうして歌は徐々に古代の牧歌的な歌謡性を脱し、厳しい韻律と悲劇的な声調のなかへ投げ込まれていくことになった。
 国家が不安定な動揺期にある段階では、強固な共同体意識を育て上げるためにも、磐姫挽歌のような歌は積極的につくられただろう。しかし国内の政治秩序が安定してくると、歌はそれまでのチーフを失い、相聞的な抒情性へと急速に傾斜していくことになる。ぼくたちが恋愛詩として無理なく受け取ることができるのは、これら以降の歌である。
 美しい叙景をともなった隠微で繊細な感情表現といったものは、あくまで技巧的に出てきたものである。短歌表現の技巧が技巧として追及されるなかで生まれてきた、優美さであり繊細さである。そうした歌に親しみ、それらを手本として歌をつくる、といったことを繰り返していくうちに、少しずつ実感が肉付けされ、真実味がともなってきた。つまり感情が表現に追いつくようになった。ここに至って、はじめて恋愛詩のようなものが成立したと考えられる。
 別の言い方をすれば、われわれの祖先は短歌的な表現に導かれて、「恋愛」という未知の感情を発見したのかもしれない。恋愛感情は恋愛表現に先行され、恋愛表現には挽歌的表現が先行していた。起伏や陰影に富んだ幅広い感情表現は、まず死者との関係において成立した。そうした挽歌的な表現のなかから、やがて優美で繊細な恋愛表現が生まれてくる。死者への思慕や追憶を生きている者へ向けるとき、挽歌的な激しい表現は、自ずと声調を和らげて恋愛表現になった。やや図式的に言うなら、「あなたのために……」という表現を、死者から生者へ転用したとき、はじめて恋愛表現のようなものが可能になったということだろう。
 無数の読者が恋愛詩を読み、無数の作者が恋愛詩をつくるなかで、表現と作者のあいだの溝は少しずつ埋められていった。こうして本当の意味での恋愛詩が成立した。それは個人の心のなかに、恋愛という感情が生まれたことを意味している。『源氏物語』のような宮廷文学に描かれた恋愛も、おそらく同じような経緯の下に達成されたものだろう。光源氏と紫の上の関係は、神と巫女との相聞を想わせる。六条御息所の生霊には、磐姫挽歌の遠い声調が聞かれないだろうか。この作品の作者たちは、かなり自在に恋愛を描けるようになっているが、宮中の貴人たちが繰り広げる艶やかな恋の諸相にはなお、古代の糸が織り込まれている気がする。(2018年11月7日)

参考文献
 白川静『初期万葉論』(中公文庫)
 折口信夫『古代研究』(中公クラシックス)
 佐佐木信綱編『万葉集』(岩波文庫)
 伊藤博訳注『新版・万葉集』(角川ソフィア文庫)