アフター・コロナ(3)

アフター・コロナ
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 ぼくたちは「自分」を中心として、全球的に無際限につながっている。自己が世界の中心を占めているという全能感は、裏を返せば、その自己をめがけて世界が押し寄せてくるということでもある。あらゆるレイヤーからの膨大な情報が不断に、かつ瞬時に、世界の中心を占める「私」に向かって殺到する。有用な情報もあれば無用な情報もある。有益な情報もあれば有害な情報もある。いずれにしてもグローバルなネットワーク社会において、ぼくたちは常に情報のオーバーフロー状態に曝されている。

 自己というシステムは、持続的ストレスのためにオーバーヒートしかけているのではないか。ときどき血圧をチェックしてみる必要があるかもしれない。ストレスによって交感神経系が興奮すると、脳へより多くの血液を送るために末梢動脈を収縮させ、その結果、動脈の血圧が上昇する。ぼくたちの多くが、交感神経の緊張が常に高く、細動脈が収縮して血圧が上昇している、本態性高血圧の状態にあるのではないだろうか。

 インターネットは戦時下に軍、大学、民間企業という三つのグループのパートナーシップから生まれた。当初の目的は攻撃を受けた際に早期警報を出し、迅速に応戦準備を整える防空システムの構築だった。これが一般市民と営利企業に公開されたわけである。防空システムがぼくたちの日常になった。四六時中敵から攻撃を受ける危険に曝されているため、24時間年内無休で応戦態勢を整えておかなければならない。

 そして敵が現れたとき一人きりで戦うしかない。ぼくたちは相互につながっているけれど、そのネットワークは「関係ない」というアーキテクチャーで設計されている。誰もが一つのモナドとして孤立無援である。トランプも習近平もジョンソンもネタニヤフも、みんな孤立無援で無人島に一人きりの状態である。そのことは現在の新型コロナ・ウイルスにたいする各国の対応を見ていてもよくわかる。世界各国がばらばらに危機を克服しようとしている。どの国も「自国第一」なのだ。ぼくたちが個人として「自分第一」であるように。

 しかもその行動は恐ろしいくらいに画一的である。誰もが同じように考え、同じように判断、同じように行動している。みんなが同じ環境、同じサイバー・スペースを生きているからだろう。ネットワーク化した世界で定義される自由とは、誰もが相応の自由度のなかでアクセス可能ということであり、平等はアクセスの機会がデモクラタイズされていることである。すると21世紀の現実世界のなかでは、国家や国民が消えたように「人生」や「体験」も消えていくかもしれない。遍在化したウェブが個人の人生や体験を吸い上げて、誰のどの人生も似たようなものになるかもしれない。

 人生や体験だけではない。ウェブは思考や傾向も吸い上げる。電脳空間では考える必要がない。アマゾンで買い物をしているうちに購入履歴から商品をレコメンドしてくれるようになる。人間関係はフェイスブックのアルゴリズムが構築してくれる。週末のレジャーや旅行先はグーグルが教えてくれる。旅先でランチをしようとするときには食べログの星の数を見て店を決める。どこかへ行こうとするときにはグーグルマップを開く。行き先を入力すれば、何も考えなくてもそこへたどり着く。途中の景色を見る必要もない。スマホの表示画面だけを見ていればいい。こうしたぼくたちの日常のあり方が、今回のコロナ・クライシスの大きな要因になっているように思う。(2020.5.21)

Photo©小平尚典