蒼い狼と薄紅色の鹿(32)

創作
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 少年は毎日、日が暮れると海辺に転がっている流木を集めて火を焚いた。荒波に洗われた木は、樹皮が削り取られて白い幹がむき出しになっている。それは海に棲む巨大な生物の白骨を想わせた。漁船の燃料に使う油を、家の者に内緒で瓶に詰めて持ってきた。細い枝を組み上げた上に油を注ぎ、マッチを擦ると簡単に火は熾った。小さな火を少しずつ太い木に移していった。

 大海原に一つだけ取り残されたような島だった。陸からは遠く隔てられている。島には百人ほどが暮らしていた。小さな港があり、狭い土地に肩を寄せ合うようにして建つ家々があり、山の上の方まで畑が築かれている。畑には主に芋や麦が植えられていた。水と土地が乏しいため、水田はわずかしかない。ほとんど自給自足の島で米は貴重品だった。男たちが日常に飲む酒も、芋や麦を蒸留したものが主だった。

 遠方に一つ島が見えた。少年が住む島から目にすることのできる唯一の島だった。大きさははっきりわからないが、おそらく彼の島とあまり変わらないだろう。不思議なのは、誰もその島へ行こうとしないことだった。危険な潮の流れが二つの島を隔てているかもしれない。それとも別の理由があるのだろうか。何度かたずねてみたけれど、大人たちはいつも言葉を濁してしまい、納得のいく答えを得ることはできなかった。海を隔てて遠くに見える島は、少年には生きてたどり着くことのできないところに思えた。

 夜になると、遠い島の集落にもほのかな明かりが灯る。家々の明かりは、小さく瞬きしているように見えた。灯火の下に、自分と同じくらいの少女が暮らしている。いつのころからか彼は、そんなことを考えるようになっていた。彼女も毎日、この島を眺めている。そして島に住む彼のことを想っている。来る日も来る日も海岸で焚火をしながら、海の向こうの離れ小島を見ているうちに、空想は確信に近いものになり、一人の少女の存在が実体を帯びてきた。

 行こうと思えば行けないことはない。だが生きてたどり着くことは難しい。そんな島に一人の少女が住んでいて、彼と心を通い合わせている。少女を想うことで、彼は未知の自分を発見した気がした。自分だけでは知りえなかった幸せを。悲しみや不安、言葉にできない感覚や感情を、ときには性の衝動さえも。

 漁にはいつも一人で出た。朝早くに港を出て夕方には帰ってくる。翌日に水揚げして、仲買に魚を卸したあとは漁具の手入れをしたり、氷を積んだりして準備をする。つぎの日、また漁に出る。その繰り返しだった。一年のうちに半分くらいは海の上にいる勘定になる。

 漁は父親に付いていくうちに自然とおぼえた。長い糸にたくさんの針を付けて獲物を狙う漁法は、父の代から定着したものらしい。二百本の針に漁場へ向かう途中で餌を付ける。船を走らせながら糸を降ろしていく。千メートルの糸を五分ほどで降ろし終える。半時間から四十分くらいして引き揚げる。こちらは小一時間かかる。同じことを一日に六回、七回と繰り返す。

 父と一緒に漁に出ていたころは、針を降ろして一時間ほど待つのが普通だった。多くの針に獲物がかかっていたので、待つ甲斐もあった。いまは一匹もかからないことがある。魚の種類も小粒になった。だから短い時間で揚げて、糸を張る回数を増やさなければならない。近くで魚が獲れなくなったので、遠くまで船を走らせる必要がある。そのための装備も調えねばならない。燃料も高くなっている。経費に追われて、いくら水揚げしても間に合わない。

 海に事故は付き物だ。浜に打ち上げられた死体など、子どものころから幾度も目にしてきた。父親と一緒に海に浮かんでいる死体を引き揚げたこともある。海で死んだ者は、皮膚が濡れた障子紙のように剥がれかけていたり、身体が二倍くらいに膨張していたり、その両方だったりした。顔をほとんど蟹に喰われた死体を見たこともある。蟹は肉の柔らかいところから食べるので、とくに目や口のまわりの破損がひどかった。ある死体は下半身をほとんど魚に食べられていた。海で死んだ男たちは、無残な姿で家族と対面することが多い。

 高校生のときに父親が亡くなった。海で行方不明になったまま見つからなかった。辛い対面は免れたものの、これはこれで面倒なことだった。まず法律上、一年は死亡とみなされない。家族のほうでも、死んだことを認めたくない気持ちがあって、なかなか葬式を出せない。そのあいだも誰かが漁に出なければならない。彼は卒業を目前にして島へ戻った。漁師に学歴は関係ないだろう。高校くらいは出ておけと言った父親もいなくなった。

 島では変わり者と思われていた。誰も船を出そうとしない時化のときでも、彼だけは漁に出た。しかも獲物を求めて遠くまで行く。他の船の水揚げが少なければ値もいい。家には病気がちの母親と中学生の妹がいた。五つ下の弟は、彼が中退した街の高校に通っている。あと一年ほどは面倒を見なければならない。彼自身はそろそろ嫁をもらう齢になっていた。世話をしようという人もいたけれど、当人にその気がなかった。

 波と魚を相手にする毎日。長い時間を海の上で過ごしているうちに、彼は無口になった。一人でいることを苦痛に感じなくなった。いつのまにか人間も物も、あまり好きではなくなっていた。