往復書簡『歩く浄土』(11)

往復書簡
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第十一信・森崎茂様(2017年10月26日)

 いまの時代を象徴するものとして、あらためてスマホを取り上げます。前回の書簡で触れた、一心にスマホをする若い人たちについて、森崎さんは「ああ、かれらはかつてのおれだ」という引き寄せ方をしておられます。そのことから書いてみたいと思います。
 いただいた書簡のなかで、自らの体験に引き寄せながら「若者とはなにか」を定義しておられます。「その時代が無償で供与する感性を若者は身に浴びる」、「ただで時代の先端的な感性がもらえる」ということですね。すると時代の先端的な感性が、若い人たちをスマホに没入するという行為に向かわせていることになります。これはどういうことなのか。
 ご自身は「時代性をもろ身に浴びて一瞬で極左の行動者になりました。乱暴狼藉のかぎりを尽くしました」と振り返っておられます。日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件や浅間山荘事件が起こったのは、ぼくが中学二年生のときです。大学に入ったころには、学生運動はかなり下火になっていましたが、それでもデモがあったり学館闘争があったり、左翼系の学生が授業を乗っ取りアジ演説をぶったり、ということは日常的にありました。「日本帝国主義を打倒せよ」みたいな立て看板も構内のあちこちに立っていました。いまは京都大学くらいじゃないでしょうか。あそこはあいかわらずやっているみたいですね。最近も見かけました。
 この時代の推移をどう考えればいいのか。森崎さんは「牧歌性」という言葉を使っておられます。

 いまの若者に覇気がないというのはうそです。いまの時代性を一身に身に浴びていないはずがないのです。じぶんの若い頃を振り返るとそのことがよくわかります。ただ若くして乱暴狼藉をやり、法治国家の自業自得のツケが回ってきた頃よりいまの若者ははるかに追い詰められていると思います。ぼくらの時代のような牧歌性はもうどこにもないからです。内へ内へと内閉するしかないように思います。で、あるとき内閉が一気に社会化されます。(「歩く浄土」204)

 この下りを読んだとき、なんだか背中がゾクゾクッとしました。諌山創の『進撃の巨人』が脳裏をよぎります。スマホに没入する若い人たちが、あるとき巨人化して進撃をはじめる。そんな情景が一瞬、目に浮かんだのです。さらにつづけて、「過激な行動をとりながら、過激な言語と内心の表出の意識のあいだには目の眩むほどの乖離があることは強烈に自覚していました」とも書かれています。
 この乖離は、自覚されているかどうかはともかく、スマホに没入のなかにも間違いなく組み込まれていると思うのです。それが彼らを一瞬にして巨人化させる。きっかけが何かはわかりません。安倍首相の「北朝鮮撃つべし」みたいな幼稚な扇動かもしれない。乖離が大きければ大きいほど、どんな奇怪な共同幻想も入り込みうると思います。「愚劣と倒錯をやりうるということが若者の特権ではないでしょうか」と森崎さんも述べておられるように、何が起こっても不思議ではない。若い人たちが一心にスマホに没入している光景は、そうした不穏な空気も孕んでいる気がします。

 晩年のハイデガーが、動物学者ヤコプ・フォン・ユクスキュルの研究を手引きに、動物にたいする現存在(世界内存在)としての人間を位置づけようとしています。(ジョルジョ・アガンベン『開かれ~動物と人間』を参照。)ハイデガーは動物の「世界の窮乏(Weltarmut)」にたいし、「世界を形成する(weltbildend)」人間という対比のさせ方をしています。「世界の窮乏」とは、動物たちが自己にとらわれていること、自己のもとでの存在という動物に特有の生存様式をあらわしたもので、その本質は「放心(Benommenheit)」だと彼は言います。つまり「放心」とは世界に開かれていないということです。こうした「放心」(「麻痺」と訳してもいいでしょう)を示す例として、ユクスキュルが記述しているという、いささか気味の悪い実験に言及しています。蜜を吸っているミツバチの腹部を切断すると、口を開いた自分の腹部から蜜が漏れるのを目にしても、ミツバチはそのまま密を吸いつづけるそうです。
 このミツバチの振る舞いに、スマホに没入する若い人たちの姿を比喩してみます。彼らのなかで何が起こっているのでしょう? 一つは、ハイデガーが「世界の窮乏」と呼んでいる、外界への徹底したデタッチメントだと思います。もう一つは、自己という環界においてのみ生きるという動物的なあり方への退避や退行、動物化だと思います。時代の先端的な感性が、若い人たちをデタッチメントと動物化へ向かわせている。このことの意味を、ぼくたちは重く受け取る必要があると思います。
 動物化とはどういうことなのでしょう。なぜ若い人たちに動物化が起こっているのでしょうか。端的に言って、人間が絶えがたいからだと思います。人間のやっていることへの嫌悪感、その人間に自分もまた帰属していることへの否認の意識。鋭敏な時代の感性は、「唾棄すべき人間」を強く激しく感受せずにはいられないのだと思います。人間への強い嫌悪感と激しい拒絶や否認の意識が、彼らを動物化させているのではないでしょうか。スマホに没入という表面的な静けさの下には、マグマのようにうごめくネガティブな情動が伏流している気がします。
 デタッチメントについても同じことが言えると思います。人間への嫌悪と否認を自らの動物化というかたちで表現している彼らは、世界にたいするネガティブな情動をデタッチメントというかたちで表現している。嫌悪や否認を介してしか接することのできない世界。世界との唯一の接点が嫌悪感や否認の意識になっているのではないでしょうか。ハイデガーの言い方を借りれば、彼らは「世界を形成する」という人間の本来のあり方を不活性化させているわけですが、それは自分たちの前に開かれている世界が深い絶望しかもたらさないものになっているからだと思います。だからスマホに没入というかたちで、世界にたいして不活性のまま滞留しているのでしょう。
 ある年代以上の人たちは、スマホに没入する若い人たちを見て「ああ、嘆かわしい」と思うかもしれませんが、年寄りだって偉そうなことは言えないわけで、要するに健康診断の話しかしていないわけです。社会的な話題といえば、せいぜい年金の心配か政治家の悪口くらいで、人間がこの先どうなっていけばいいのかなんてことを話している年配者を目にすることはほとんどありません。長寿と健康も話も結構だけれど、ピンピンコロリとか、あまりそういう話ばかり聞かされると、ぼくらでもいい加減うんざりしてくるところはあります……という体たらくの先行世代にも、やはり彼らは嫌悪感を抱きつつ絶望しているのだろうと思います。

 フーコーが『言葉と物』のなかで「人間の終焉」を謳ったのは1966年です。当時、きわめて知的かつ先鋭的な予見だったことが、いまの日本の若い人たちにはベーシックな感覚になっている。レヴィ=ストロースのように人間を記号として扱うことが、ごく当たり前になっている。時代が無償で供与する感性は、彼らをそういう場所にたたずませている気がします。頭を使って考えなくても、あえて言語化するまでもなく、フーコーやレヴィ=ストロースが提示したようなことが、全部わかっているということなのかもしれません。
 ぼくは彼らよりも歳を喰っているから少し言語化してみます。デタッチメントの反対はアタッチメントですかねえ。でもアタッチメントって、「付属物」とか「付属品」という意味だから、ちょっと違うかなあ……と言いつつ、案外そういう感じなのかもしれないと思ったりもします。世界にコミットすることは、世界の付属物や付属品になることである。森崎さんの言われる「システムの属躰」ですね。いまや世界との関係はそういうものになっているのではないか。

 セカイシステムは人びとに否応なくアスリートであることを強い、そのことを人びとは受容するしかない。これが世界の標準モードなのだ。即ち、人びとは強制的にシステムの下で総アスリート化される。人びとは意識することもなくこのシステムを受け入れている。もう社会にはすきまがないので、ここから墜落すると市民社会の外にある不可視の例外社会を生きるしかない。そこまで生は追い込まれている。(「歩く浄土」171)

 ハイデガーの言い方を借りれば、アスリートであること以外に世界内存在としての現存在のあり方はない。この生存様式を受け入れなければ世界そのものから排除される。アスリートの世界に貫徹している原理は適者生存です。この原理は人々を1%と99%に分類します。ごくわずかの柳井正や孫正義や三木谷浩史が生まれる一方で、圧倒的に多数の者を非正規雇用や生活困窮者にしてしまう。そうした世界にコミットしたくないというのは、とてもよくわかります。アスリートとして競わされ、序列化され、分別されることへの拒否感。ごく普通に、平凡に生きたいと思っている人たちに、適者生存や弱肉強食を強いる世界へのデタッチメント。このような世界へ強制的に参入させられることへの嫌悪感。でも、そのことを拒めないという絶望感。
 万人がアスリートとして登録され、パフォーマンスに応じて貨幣に換算される。イチローや錦織圭や羽生結弦になれるのは、ほとんど例外と言っていいくらいわずかです。しかも多くのスポーツが英才教育化していて、お金持ちでなければ有能なアスリートにはなれなくなりつつある。クラシック音楽の世界などはとっくにそうなっていて、一流のピアニストになるためには十歳くらいまでが勝負だと言われています。もちろん高学歴も世襲になりつつある。これからは遺伝子やゲノムのレベルで人体の改変がなされるだろうし、そうなるとますますお金ということになる。アスリートの世界で競い合うことに、経済的・社会的格差が露骨に反映してくる。
 そんなことは感覚的に全部わかってしまっている若い人たちは、「いまだけ、ここだけ、私だけ」ということで一心にスマホに没入している。動物にとって世界は非関係性のうちに開かれている、とハイデガーは述べています。世界は開かれているけれど、近づくことができない。かかわり合うことの不可能性として世界は開かれている。辛うじてデタッチメント(非関係性)というかたちで世界とかかわっている。そういうことだろうと思います。

 昨日はたまたま衆議院選挙の投票日で、ぼくは共謀罪の上に緊急事態条項まで通ってしまうのは嫌だと思って投票に行きましたが、予想通り自民党の圧勝でした。スマホに没入の若い人たちに、選挙や投票行為はどんなふうに感じられているのでしょう。政治とはどういった意味をもっているのでしょうか。市民社会という言い方をすれば、すでに彼らは市民社会の外部に身を置いているように思います。森崎さんの言われる「例外社会」ですね。市民社会の外にある不可視の例外社会を、スマホに没入というかたちで、彼らは生きはじめている。政治も選挙も市民社会の流儀です。例外社会を生きる彼らにとっては、「関係ねえよ」ってことだろうと思います。
 良識ある大人は「棄権なんてとんでもない、投票に行きなさい」と諭すのでしょうが、そうした市民社会の言葉が彼らに届くとは思えません。立憲主義に立ち返れとか民主主義を守れとか、何を言ってるんだってことじゃないでしょうか。市民社会の外部に身を置く者にしてみれば、安倍も反安倍も所詮は市民社会の内部抗争や内輪もめに過ぎず、自分たちが生きている現場はもっと激しく壊れているということなのでしょう。その点では、リベラルで良識ある発言をする人たちのほうが時代から振り切られているのかもしれません。現にそういう人たちが、いまは天皇を賛美しているわけですしね。
 社会を構成するすべてが「唾棄すべきもの」でしかない。強い呪詛と絶望にとらわれている人たちに言葉を届けたい。市民社会の外部に身を置く彼らには、自らを社会化する契機さえないのだと思います。だからスマホに没入なのだけれど、そのことは同時に可能性でもある。市民社会の内部で言葉を紡いでいる人たちよりも、浄土は近いと言えるかもしれない。彼らに届ける言葉がある。できれば福音として届けたい。同じような呪詛と絶望はぼくのなかにもあるわけだから、彼らに言葉を届けることは自分自身に言葉を届けることでもある。一心にスマホをやっている若い人にも、いい歳をして悪あがきがおさまらないおじさんにも、同じ深度と広がりで届く言葉がある。それが「総表現者」だと思うのです。
 起きろ、目を覚ませ! スマホをやっている場合じゃないぞ。きみもぼくも、誰もが総表現者なんだ。一人ひとりが総表現者としての生を生きている。総表現者であることに自覚的になれば、世界の見え方が変わってくる。同じ世界が違って見える。嫌悪感や絶望にも色が付いてくる。なぜなら総表現者の場所では、絶望はそのまま希望であり、嫌悪感はすでにして可能性であるからだ。
 総表現者の上に個々の表現がのっかっているんだ。きみやぼくが個別にやっていることは、「自己表現」などと呼ばれていて、それはそれで結構だけれど、誰がどうやろうと、自己なるものの表現は70億の人類総アスリート化の過程に投げ込まれ、経済的範疇にカテゴライズされ、最終的に貨幣に換算される。こうして少数のビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグが生まれる一方で(お好みならクリスティアーノ・ロナウドやレブロン・ジェームズやロジャー・フェデラーが生まれる一方で)、呪詛と絶望にとらわれたきみやぼくが生まれる。なぜだ、なぜ自分は彼らではないのか。なぜビル・ゲイツの資産が9兆円で、おれの年収は200万円なんだ。なぜ、なぜ……。
 でもね、おそらくビル・ゲイツにしても同じだろうと思うよ。9兆円の純資産は幾ばくかの達成感を彼にもたらすかもしれないけれど、一方で、それだけ莫大な資産をもってしても死の恐怖や孤独を消すことはできない、という巨大な「なぜ」は残りつづける。ところがどうだ、「今生も悪くなかったよ、リトル・トリー。次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」と孫に言い残して亡くなる『リトル・トリー』のおじいちゃんの死には恐怖も孤独もない。このときおじいちゃんは総表現者を生きている。奇妙な言い方に聞こえるかもしれないけれど、そのうち慣れると思うよ。
 もう少し『リトル・トリー』のおじいちゃんの話をつづけよう。白人によって強制移住させられたチェロキー族の末裔でもある彼の人生は、現実的には厳しく辛いものだったはずだ。それこそ「なぜ」の連続、「なぜ」の塊だっただろう。でも社会の現実が強いる「なぜ」を、おじいちゃんは見事に消すことができている。そして珠玉のような言葉を孫に残して去っていく。風のように、アラン・ラッドのシェーンのように。なんてカッコいいんだ! そうとも、総表現者はカッコいい。これがぼくたちが、まずきみに言いたいことだ。「ぼくたち」というのは、ぼくと森崎茂さんのことだけどね。総表現者はカッコいい。おぼえておいてね。
 ところできみは『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説を読んでくれただろうか。一応、ぼくが書いたことになっているけれど、そんなことはどうでもいい。あの小説のなかでは、アキと朔太郎という高校生のカップルが、迫り来る死を前にして「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」という親密な言葉を交わす。どう思う? やっぱり死は超えられていると思わないか? 彼女は17歳。17歳で不治の病で死ななきゃならないなんて、これ以上の「なぜ」は考えられない。なぜわたしが、なぜきみが、なぜ、なぜ……。でも二人が交わす秘密の約束のなかで、一切の「なぜ」は消えているじゃないか。一人で引き受けるしかない死を、「ふたり」としてひらいているじゃないか。このときのアキと朔太郎は、やっぱり総表現者を生きている。この言い方、少しは慣れてくれたかな?
 もっともっとつづけることができるけれど、とりあえずこのへんで。ぼくもきみもビルもマークも、「自己」だけでは辛いんだ。辛くて孤独なんだ。でも辛くて孤独な自己は、「ふたり」の上にのっかっている。いざというときには、この「ふたり」を生きることができる。誰のどんな人生のなかにも、一人で引き受けるしかない「なぜ」を、「ふたり」としてひらくことのできる場所がある。この場所を生きることを、ぼくたちは総表現者の生と呼んでいるんだ。なぜ総表現者なのか。誰もが例外なく、そこを生きることができるからだ。そういうものとして、人間は出来上がっている。
 ここでグッド・ニュースを一つ。総表現者としての表現には優劣がない。もちろん経済的にカテゴライズすることはできないし、貨幣に換算することもできない。だって「今生も悪くなかったよ、リトル・トリー。次に生まれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな」とか、「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」といった言葉に値段がつくと思うかい? 「きみならいくら出す」というふうに、お金に換算できると思うかい? たとえ頭のいいAIが、これらの言葉をアルゴリズム化しても意味はない。だってAIに言ってもらってもしょうがないじゃないか。おじいちゃんと孫、アキと朔太郎という特別な「ふたり」でなければならないんだ。そういうものなんだよ、総表現者っていうのは。そこが総表現者のフシギなところさ。
 もう一つおぼえることができたね。総表現者はカッコいい。そして総表現者はフシギ。この二つのことを伝えることができれば、今日のところはOKだ。森崎茂さんへの手紙として書きはじめたつもりなのに、おかしな成り行きになってしまったなあ。

 先日、耶馬溪のあたりをドライブしていると、日当たりのいい田んぼの畦に年老いた農家の夫婦が並んで腰を下ろし、作業をしている姿が目にとまりました。車は50キロぐらいのスピードで通り過ぎてしまったので、彼らの姿を視界にとらえていたのはほんの一瞬でしたが、「あっ、ここにも浄土がある」と思いました。いかにものどかな山里、まわりには黄金色に稲が実った田んぼ、暖かな秋の日差し……そんな情景に演出された部分もあったでしょう。でも何より彼らのたたずまいが「浄土」という言葉にふさわしいと感じたのです。言葉にする必要のないものが満ちている。円かなものが静かに立ち現れている。

 何ひとつ書く事はない
 私の肉体は陽にさらされている
 私の妻は美しい
 私の子供たちは健康だ

 本当の事を言おうか
 詩人のふりはしてるが
 私は詩人ではない
         (谷川俊太郎「鳥羽」1 部分)

 この詩のように、ぼくが目にした老夫婦も、農夫や農婦のふりはしているけれど、諸々の社会的な属性の手前で、それ自体として表現されてしまっている。思わず「浄土」という言葉をあててしまうほど、善きものとして表現されている。たしかに実体として彼らは「二人」だけれど、それだけではない。たんに夫婦仲がいいとか、睦まじいといったことだけではないように思うのです。入口には夫婦という関係があったけれど、長い年月を経て、もっと別のところに来てしまっている。少なくともぼくには、日当たりのいい田んぼの畦に腰を下ろした二人に、「夫婦」や「男女」という言葉をあてる必要も必然性も感じられませんでした。

 南インドの小さい都市の鉄道の駅で、乗客が窓から投げ捨てるバナナの皮に、飢えた少年や少女が群がって奪い合っている。一歳くらいの妹を片脇にかかえた少年も負けることなく奪い合っている。乗客のひとりがこの少年にバナナを与えると、わたしたちがふつう食用にするまん中のやわらかい部分はすべて、たぶんまだ歯のそろっていない妹に食べさせている。その長い間、少年は法悦のような目つきで、女の子を見つづけている。陽射しの強さもあるかもしれないが、わたしはこんなに幸福な人間の顔を、これまでに何回かしか見たことがない。おしまいの根元の部分を女の子の口におしこむと、少年は皮だけを食べて、またあの容赦のない争奪戦に、仲間をおしのけ蹴たぐりながら走りこんで行く。餓鬼は餓鬼として即菩薩であり菩薩は菩薩として即餓鬼である。もっと「文明的」な世界では幾重ものシステムと観念装置に覆われている関係の真理のようなものが、仮借ない直接性の陽射しにさらされて裸出している。(真木悠介『自我の起源』所収「補論 性現象と宗教現象」)

 森崎さんがとても好きな情景と言われているところですね。この情景に、ぼくが目にした農家の老夫婦が重なります。真木悠介さんが書きとめた文章のなかに出てくる兄と妹も、あえて「兄妹」や「家族」という言葉をあてる必要も必然性もない、それ自体が善きものとして表現されています。「お兄ちゃんはうっとりと自己を表現しているのではない。おいしそうに食べている妹によって、お兄ちゃんが表現されている。表現とはそういうものではないか」(「歩く浄土」202)。こうした表現をなすものとして、ぼくたちは「総表現者」という理念を提起しようとしています。
 おいしそうにバナナを食べている妹によって、お兄ちゃんが表現されている。自己を表現するのではなく、他なるものによって自己が表現される。こうした表現に優劣などあろうはずがない。バナナを食べる妹によって表現されるお兄ちゃんに、どうやって優劣をつけるのか。お兄ちゃんの自己を「主体」と呼んでいいのかどうかわかりません。最期のフーコーが残した「主体は実体ではなく、他性によってもたらされる」という言葉は、そのことを言っているのでしょう。

 つまり、だれかの創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにするのではなくて、その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです。(ミシェル・フーコー「ひとつのモラルとしての性」浜名優美訳『現代思想』一九八四年十月号)

 ここも森崎さんが何度も取り上げられているところです。「創造的活動をその人が自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにする」というのは、いわゆる自己表現のことですね。創造的活動を「自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにする」と、かならず不遇感や不全感が生まれます。たとえば小説を書くという創造的活動を「自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにする」と、なんでおれの書く小説は売れないんだとか、どうして出版社は本にしてくれないんだ、といった不遇感になる。
 前回の書簡で取り上げた、「就職決まらず、孤独で絶望」という人生相談を寄せていた男性もそうですね。履歴書を600通以上出したけれど仕事が見つからない。600通も履歴書を書くというのは立派な創造的活動です。でも採用にいたらない。これを「自分自身に対して持つ関係のあり方のせいにする」と、どうして好奇心旺盛でチャレンジの好きなおれが不採用の連続なんだ、ということになる。この「なぜ」は「孤独で絶望」というかたちで内面化され、「職安にも熱心に通うが無気力な職員ばかり」とか「面接官は変なやつばかり」というかたちで外部に向けて表出される。
 このやり方では、誰がどうやっても「なぜ」という不遇感や不全感が生まれる。そして内面と外界、自己と社会という意識の型にとらわれる。表現を「自己の表現」と考えるかぎり、この枠組みの外に出ることはできません。自己の内面につきまとう不遇感や不全感を、社会に向けて表出されたものが文学と考えられてきたし、いまも考えられているふしがあります。たとえば村上春樹やカズオ・イシグロの小説のなかには、ちゃんと社会がコーディングされている。広い意味での「社会」小説ですね。
 あるいは『タクシー・ドライバー』のトラヴィスが大統領候補を狙撃する、というかたちで自分のなかの不遇感や不全感を社会に向かって放出する。彼だってベトナム戦争の後遺症からうまく社会に適応できないとか、選挙事務所の女の子に冷たくされたとか、売春している少女を更正させようとしたけれどうまくいかないとか、そういった不遇感や不全感が募って、不眠症もひどくなるし睡眠薬の量も増えるし、孤独と絶望のなかで心がすさんでいって「浄化作戦」を決行しちゃうわけです。同じだと思うんです。村上春樹やカズオ・イシグロの小説と、トラヴィスの「浄化作戦」は。自己を表現するという意識の型のなかでは、どうしてもそうなってしまう。
 これとはまったく別のことが言えるのではないか。たとえば「その人が自分自身に対して持つ関係のあり方を、その人の倫理的活動の核にあるような創造的活動に結びつけてみるべきかもしれないんです」というように。フーコーが「倫理的活動の核」と言っているものを、森崎さんは「根源の二人称」というご自身の言葉に置き換えられています。

 なぜが消える地平で、ほんとうはわたしたち一人ひとりはもともとつながっている。ばらばらで生きているように見えても、生の根底でわたしたちは、いやおうなくおのずからつながっている。存在することのはるか手前に、奇妙なことに人はもともと根源のふたりとして内包的な存在として存在している。(「歩く浄土」205)

 人はもともとつながっているから、自分よりも近いあなたを生きる場面が、無限小の可能性として誰のなかにもある。だから真木悠介さんがインドで目にした情景のように飢餓は分有されるし、ぼくが山里で出会った情景のように、善きものがそれ自体として立ち現れて、「浄土」としか言いようのないたたずまいを見せることもある。「生の根底でわたしたちは、いやおうなくおのずからつながっている」から、「人はもともと根源のふたりとして内包的な存在として存在している」から、何かの機縁によって自己はおのずから表現される。
 そうです。いやおうなくおのずから、ときには自己を破砕させるほど激しく表現されるのです。何度も取り上げてきた山手線の事故のように。あのときホームに落ちた酔っ払いを助けようとして命を落とした日本人のカメラマンと韓国人留学生は、おのずからなる表現として男を助けようとしたのだと思います。しかし助けることはできず、進入してきた列車にはねられて三人とも死亡した。ここでも無数の「なぜ」を発することはできます。でもエンデの流儀に倣って、言葉を差し挟むことは控えたいと思います。人間とはそうした生き物でもあるということを、深く心にとどめるだけで充分です。
 自己は表現される。何かによぎられていやおうなしに表現される。これを人間の本来のあり方と考えよう。インドの少年や、山手線の事故みたいなことが無数にあったから、人間は人間になった。そうした場面で、意識や情動や言葉が生まれた。ヒトは「人間」と呼ばれるものになった。人間に本来的なものとして、おのずからなる表現の場所があって、この土台の上に個々の表現がある。自己の表現がある。逆ではないのだ。
 ぼくたちが知っている天然自然と人工自然の下には、それらを包摂するより根源的な自然が広がっています。この自然を「内包自然」と呼ぶならば、誰もが内包自然の上で、それぞれの自己を営んでいる。内包自然の上に、個々人が「おれの日向」を作り上げている。面々の日向には、純資産9兆円とか年収200万円とかいった値段が付いている。純資産9兆円の日向は広大なものに思えるかもしれないけれど、ぼくたちの誰もが総表現者として生きている自然に比べれば、ごく狭隘なものでしかない。
 新しい自然をつくらないか。本当は、すでにしてそれはあるのだ。誰もが顔を上げて背伸びをしたくなる自然が足元に広がっている。このことに気がつけば、孤独と絶望にとらわれて生きることはない。たしかに総アスリートという自然はある。でも、それだけでないない。総表現者としての自然がある。誰もが二つの自然を生きている。二つの自然を自由に行き来することができる。豊穣にして無辺なる自然を探索してみないか。ぼくたちが未知の読者に向けて発してみたいメッセージです。