往復書簡『歩く浄土』(9)

往復書簡
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第九信・森崎茂様(2017年10月12日)

 やはり最初に、2017年10月22日に投票がおこなわれる衆議院選挙について触れないわけにはいきませんね。森崎さんも10月8日付けのブログ(「歩く浄土」201)で、「いずれの政党も支持しない」と態度を表明しておられます。「人間の個的な生存が社会的な存在であるまえに人は内包存在として存在している」(同ブログ)という内包論の立場からすると、当然そうなるわけで、この前提はぼくのなかでも揺るぎません。
 戦後72年の擬制の総敗北として現在があること、敗北の本質が転換期の世界にたいするビジョンの欠如であることについても、深く了解します。そのビジョンを「内包」というまなざしのもとに、自分なりにつくろうとしていると思っています。では、なぜ「内包」なのか。ぼくが森崎さんの「内包」という考え方に出会い、その理念に共鳴して自分なりに扱い方を習得しようとしている。そこに至るプロセスを、今回の選挙にからめて申し述べてみたいと思います。
 この討議をとおして、ぼくたちは国家が内面化を経てメルトダウンしつつあるという認識を語ってきました。グローバリゼーションの猛威にたいして国家を閉じるという流れが、イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ現象などに象徴的に現れてくるようになった。それが去年くらいのことですね。今年に入ると、日本では森友・加計問題があいついで表面化し、国家の私物化ということが前面に出てきました。さらに4月にはトランプ政権が国連決議も一切なしに、いきなりシリアにトマホークを59発撃ち込むという事件が起こります。それまでシリアを「ならず者国家」と糾弾していたアメリカが、他ならぬ「ならず者国家」になってしまったわけで、まさに国家の融解、メルトダウンを象徴する出来事でした。なんだか状況が一気に加速しているという切迫感があって、胸がざわざわして落ち着かなかったことを思い出します。
 こうした流れのなかに、今回の解散と衆議院選挙もあると思います。共産党を含めて、どの政党にも政治的な理念らしきものは見当たりません。自分が当選するかどうか、私性だけで動いている。誰もがこぞって自己保身と既得利益の保持に奔走している。そのことがいまの政治を流動化し、非常に不安定にしていると思います。
 ユヴァルが言うように、政治システムそのものが壊れてしまっているというのが、いちばん正確な診断でしょう。もはや政治家は一般の人たちのことなど気にかけていない。トランプも安倍も小池も、みんな私利私欲だけで動いている。彼らに「身内」と認めてもらった者だけがおこぼれにあずかれる。すでに政治はそういうものになっている。もともとそういうものだったのかもしれません。「擬制」という言葉を使えば、擬制として以外に政治というもののたたずまいはありえない。そうしたことを踏まえて、森崎さんは「もっと深く敗北せよ。一人で立て」(前掲ブログ)と言われているのだと思います。
 さらに言えば、「自分」という同一性の意識そのものが擬制です。自己が自己であることは空疎だから、貨幣や国家といった共同主観的なものを現実として、その現実から転写される自己という虚構を生きるしかない。「戦後72年の擬制の総敗北としての現在」と森崎さんが言われるとき、総敗北をもたらした擬制を統覚しているのは、同一者としての自己という意識のあり方です。この意識をひらくことが総敗北を乗り越えることである、というのが今回のブログの趣旨だろうと思います。

 最初の論題に話を戻します。国家が内面化を経て私物化というかたちでメルトダウンを起こしている。これはどういうことかというと、日本がシリアみたいになるということだと思います。つまりISやボコ・ハラムによって支配されている地域と同じようになる。森崎さんのブログには、『犬の力』や『ザ・カルテル』といったドン・ウィンズロウの小説、最近ではボストン・テランの『神は銃弾』や『音もなく少女は』などが登場しますが、ああいう世界ですね。麻薬カルテルが支配していて、どちらについてもどちらかに殺される。暴力と恐怖が支配する世界。だから人々は命からがら抜け出して難民が生まれているわけですが、じゃあ日本の場合はどこへ逃げ出せばいいのか?
 いちばん手軽で手っ取り早いのはスマホに没入だと思います。前回いただいた書簡(「歩く浄土」199)の最後に、森崎さんは「皆が一心不乱にスマホを見入ることと北朝鮮危機に便乗することはおなじことではないか」と書かれています。「いまの時代の空気感にたいして言いようのない嫌悪感があります。もうそのことについて書くのが嫌になるほどに」(同前)とも。全面的に同感ですが、この嫌悪感はスマホに没入する人たちにも共有されていると思います。もうそのことについて考えるのが嫌になるほどに、彼らは現在の状況を嫌悪している。それあらわれがスマホに没入ではないかと思います。
 日本独特の隠然とした暴力があります。土下座を強要したり、生活保護受給者や透析患者などの社会的弱者をバッシングしたり、そういう日本的な暴力に、ぼくは言いようのない嫌悪感をおぼえますが、ここに来て少し様相が変わってきているように思います。日本の社会(いわゆる「世間」)に昔からある差別意識や賤視観念が、相模原障害者施設殺傷事件のようなかたちで凶暴化している。より直接的な暴力として噴き出してきている気がするのです。北朝鮮にたいする過剰な敵視も、そうした兆候の一つだと思います。森崎さんがブログで引いておられる埴谷雄高の言葉、「奴は敵だ、敵を殺せ」という情動が前景化している。日本の自殺率が先進国のなかで異常に高いことも、こうした流れと関係があるのかもしれません。ドン・ウィンズロウやボストン・テランが描く世界に近づいている、日本がシリア化していると感じる所以です。
 もうずいぶん前に、この討議で「ヨブ記」を取り上げたことがありましたね。「ヨブ記」に出てくる神は、理不尽なまでに横暴です。あるいはモーセの十戒は、「私を措いて、他に神はいない」からはじまります。その唯一神が下す絶対的な命令として、「汝、殺すなかれ」「奪うなかれ」「犯すなかれ」がある。これはどういうことか、という話をしたと思うのですが、ユダヤ教やキリスト教といった強力な一神教が生まれた時代と地域は、現在の内戦や抗争や民族紛争が耐えない国や地域と同じように、暴力と恐怖によって支配されていたと思うのです。力のない人たちは、おのずと神のような強力な存在が現れて、無法者たちを平定してくれることを願うようになる。その神は、「ヨブ記」の神のような人智を超えた恐ろしい存在であることが求められた。モーセに十戒を授ける神のように、強大で絶対的な存在でなければ、人間の剥き出しの暴力と野蛮を押さえ込むことはできなかった。
 この神が、近代以降のヨーロッパでは法と国家にかたちを変えていきます。ちょっと脱線しますが、藤木久志さんの『雑兵たちの戦場-中世の傭兵と奴隷狩り』という本によると、戦国時代の戦場では、主役は雑兵であり、騎馬の武士たちは百人のうちのせいぜい十人足らずだったそうです。雑兵たちが戦場に赴く主な動機は、要するに喰うための荒稼ぎです。侵攻地で家財や食糧を略奪し、女子どもを拉致して売り飛ばす。現在の「聖戦」も、現場は似たようなものだと思います。江戸幕府という「国民国家」の成立は、端的に人々を戦争や戦乱から解放しました。一神教の神が法と国家に組み換えられていく過程も同じだったと思います。
 話はどんどん横に逸れますが、しばらく前にメキシコに行ってきたこともあって、久しく遠ざかっていたラテンアメリカ文学を少しずつ読み返しています。かつてラテンアメリカは「独裁者の牧場」と呼ばれたほど、数多くの独裁者を生み出してきました。ボルヘス、カルペンティエル、コルタサル、バルガス=リョサなど、ひところのラテンアメリカ文学ブームを担った中心的作家たちの多くが、独裁制のもとで弾圧され、亡命を余儀なくされていいます。
 ご承知のように、ラテンアメリカ諸国は約三百年間、スペインなどに植民地支配されてきました。そのため近代的国家へ脱皮するための準備が整わず、一応の独立を果たしたあとも地方の大土地所有者や軍人などが群雄割拠して勢力争いをつづけ、長く政治的、社会的な混乱が収まらなかった。こうした状況のもとで、民衆は強力な指導者が現れて暮らしに秩序をもたらしてくれることを願うようになる。これが独裁者の生まれやすい土壌をつくったといわれています。
 話が散らかってしまいましたが、国家がメルトダウンを起こすということは、そういうことだと思うのです。つまり国民国家という枠のなかで法によって保護され、一応平穏に暮らすことができた近代という時代が、どんどん巻き戻され、ラテンアメリカ段階や日本の戦国時代を通り越して、モーセやヨブの時代にまで遡っている。その混乱のなかに現在の世界があります。時代を巻き戻したのは、言うまでもなくインターネットなどコンピュータ・サイエンスの上に乗っかったグローバル経済です。グローバル経済が国家という保護膜を破壊し、70億の人類をアスリートとして漂泊させてしまった。その過程で、近代の西欧由来の人権思想が剥がれ落ちて、森崎さんの言われる世界の無言の条理が前面に迫り出してきた。適者生存や弱肉強食といった、人間がもともともっている自然に一人ひとりが曝されている。それが現在だと思います。
 モーセやヨブの時代に強力な一神教の神が要請されたように、いま世界中がシリア化しつつあるなかで、一神教の神にかわる強力な存在、世界を平定してくれる何かが求められていると思うのです。それは神のように一個の人格を体現したものではなく、70億の人類すべてを統治するシステムとして立ち現れようとしています。コンピュータ・サイエンスとライフ・サイエンスの融合によって、それが可能になりつつある。以下に、森崎さんが簡潔に述べられている事態が立ち現れてきている。

 新自由主義によって可視化されたわたしたちの生は電脳社会でビットに刻まれデータに還元される。いま出来上がりつつある世界システムの完全な属躰であることと生はまったく同義とされる。このシステムのなかではわたしたちのちいさな自然はちいさなビットの情報へと還元される。生は人格でさえなくビットの集合体となる。グーグルは膨大なビックデータをそのようなものとして所有している。そしてビックデータは商品として売買される。すでに内面そのものがビットマシンの情報にすぎない。もっといえばわたしたちのちいさな自然は科学知のささいな端末ということになる。(「歩く浄土」197)

 70億の人類が、アスリートという単一の粗視化領域において解読されていくということですね。新自由主義は人間を経済的な領域にカテゴライズし、一人ひとりを経済的な範疇だけで実体化・可視化してきました。これがもう一段階先へ進むということだと思います。具体的に言うと、経済的なパフォーマンスだけでなく、疾患リスクや生殖細胞のような生物資源的価値までが評価の対象となってくる。生そのものが市場になり、心と身体の隅々まで商品化されていく。健康と長寿、それを支える貨幣によってだけ世界がアレンジされていく。
 さらにユヴァルが言うように、社会的・経済的格差が生物学的格差に結び付くようになる。少し前のブログのなかで、森崎さんが「ポストヒューマンが前景に競り上がって来た」(「歩く浄土」197)と書かれているのは、そういうことだと思います。「人類」という概念が成り立たなくなるかもしれない。紀元前1776年ごろに制定されたハンムラビ法典で定められた上層自由人、一般自由人、奴隷といったカーストが、生物学的な差異として固定されるかもしれない。人工授精によって誕生する人間と、旧来の生殖行為によって生まれた人間は、まったく別の種になるかもしれない。もちろん人工授精で生まれた者たちも、どんな精子と卵子かによって細かくランク付けされるでしょう。グレッグ・イーガンのSFのように、「あなたはDNA人間ですか?」とたずねることが日常的な会話になるかもしれない。
 こうした強力な粗視化の過程において、ISのテロリストも麻薬カルテルも雑兵も世界システムの属躰となります。人間の長い歴史において、暴力や恐怖は適者生存や弱肉強食といった世界の条理を貫徹させるために用いられてきました。これからは暴力や恐怖を介在させなくても、適者生存の条理を直接的に人々の生に挿入できるようになる。そういうかたちで人間は平定されていくと思います。

 高橋源一郎さんが『毎日新聞』で人生相談をやっていて、しばらく前に「就職決まらず、孤独で絶望」という30歳男性からの相談が寄せられていました。履歴書を600枚以上出したけれど仕事が見つからない。不採用の連続で絶望し、金も職もなく孤独に生きている。何が楽しくて生きているのかまったくわからない、といった内容でした。
 これにたいして20代のほぼすべてを日雇いの肉体労働者として過ごしたという高橋さんは、天気がよくて現場に出る気にならなかったとき、文庫本を持って喫茶店に入ったときの自らの体験を紹介していました。ページを開くと、窓の外の木の葉が風に揺らいでいるのが見えた。その瞬間、生きることは素晴らしいという思いでいっぱいになった。

 あなたがほんとうに必要としているのは、職業ではなく、どんなときにも、あなたに向かって「生きることは素晴らしい」と語りかけてくれるもうひとりの「あなた」だと思います。
 そんな「あなた」を見つけ出せるのは、残念ながら、あなた自身以外にはないのです。
                           (2017年9月25日付『毎日新聞』)

 まさに森崎さんが言われる「小さな自然としての内面」ですね。大きな自然としての外界があなたに冷たいとき、あなたを慰撫してくれる小さな自然を見つけなさいと言っているわけですが、このやり方では生が固有なものになることはけっしてない、ということを繰り返し内包論は主張してきました。つまり自分を自分に届けることはできない。なぜなら「内面」とはどのようなものであれ、すでに社会化されているからです。
 20代を日雇いの肉体労働者として過ごしたという高橋源一郎の内面も、履歴書を600枚以上出したけれど不採用で仕事が見つからないという男性の内面も、それぞれが置かれている社会的な環境に応じたものでしかありません。あらかじめ社会的な存在として規定されている自己が、「生きることは素晴らしい」という小さな自然を生きることができたり、「孤独と絶望」という自然しかつくることができずにいる。それだけのことだと思います。ぼくたちは自己の個的な生存を社会的な存在としてではなく、別様に見ることのできるまなざしをつくろうとしているのですが、それは内面という光景を立ち現せさせる、もう一人の自分ということではまったくありません。
 ここで高橋源一郎は典型的な知識人として振舞っています。適者生存や弱肉強食という外界にたいして、内面という小さな自然に生きなさい、そこで自らを慰撫しなさいと慫慂するのが知識人ですが、それは適者生存の条理をなぞり、下支えすることにしかならない。このことも森崎さんは繰り返し指摘されてきましたね。高橋源一郎がやっているのはそういうことです。もともとそういう人ですから仕方がないのですが、新聞の紙面でたまたま目にした二人のやり取りそのものが、ぼくにはとても牧歌的に思えるのです。
 外界に対置される内面など、もはやどこを探してもありません。自分のことは自分よりも、アマゾンやグーグルのほうがよく知っているという現実が、すでにぼくたちの日常になりつつある。好みも性格も、感情や欲望や願望も、みんなビッグデータとしてコンピュータのなかに蓄積されており、「あなた」を見つけ出すのはあなたではなくて、複雑で膨大なデータを分析することに長けたAIになろうとしている。これまで「内面」と呼ばれてきたものは、森崎さんが言われるようにビット情報に還元されようとしている。伊藤計劃が『ハーモニー』で描いたように、いずれ人々の体内には生体認識センサーが埋め込まれ、私の健康状態については私以外のもののほうがよく知っている、たとえばコンピュータのほうがはるかに正確に精密に認識しているということになるでしょう。
 内面と外界という区分け自体が成り立たなくなり、内面も外界も含めて、世界がまるごとアルゴリズム化されようとしている。そのなかで人間は世界システムの属躰として融解しようとしている。こうした現在進行中の事態に立ち向かうためのビジョンをもてずにいること、あるべき世界への構想を誰も打ち出せずにいることが、いまの目を覆いたくなるような政治的退行や、「皆が一心不乱にスマホを見入ること」に象徴される、知識人・文化人を含めた思考停止の状態を生んでいるのだと思います。
 そもそも先の相談者の相談内容、「就職決まらず、孤独で絶望」というのはなにも特別なことではなくて、いまの日本では普通のことになっています。近い将来にAIによる雇用破壊が起これば、履歴書を600枚以上出したけれど不採用の連続で仕事が見つからないという事態も、ごく当たり前のことになると思います。ユヴァルも言っているように、「無用の階級(useless class)」が大量に生み出される。ぼくも含めて多くの人たちが、政治的にも経済的にも無用で無力な存在になってしまう。
 ぼくが高橋源一郎の立場なら、相談者の男性にたいして、あなたの置かれている状況は時代を先取りしているんだと答えます。これからはますます多くの人が、あなたと同じような孤独と絶望にとらわれることになる。だからぼくたちと一緒に、そうではない生き方を見つけよう。孤独ではなく、また絶望せずに生きていくことのできる、まったく新しい生をつくり出そう。

 けっして他人事ではないのです。ぼく自身が孤独と絶望の瀬戸際を生きていると感じています。森崎さんとのこの場がなければ、「一心不乱にスマホを見入る」人になっていたかもしれない。ぼくはスマホを持ってないので、別の方法で同じことをしていた気がします。こうした生き難さの正体、多くの人に孤独と絶望が不可避であるような生をもたらしているものはなんでしょう。
 核心にあるのは、コンピュータ・サイエンスとライフ・サイエンスの融合によって増強されたグローバル経済である、という認識を語ってきました。別の言い方をすると、「ここではないどこか」を誰も思い描けなくなっている、ということだと思います。一時代前までは、「社会主義」という「ここではないどこか」がありました。そのあとは「新自由主義」が「社会主義」に代わる「ここではないどこか」になったように思います。つまり自由貿易を推し進め、経済をグローバル化することで、多くの人が「ここではないどこか」に行けると思っていた。時代の状況に応じて、文学も「ここではないどこか」を内面のドラマとして描いてきました。それが近代から現代に至る文学作品の主流をなしてきました。
 しかし内面はすでにシステムによって外界化されています。もともと内面とは、外界という大きな自然にたいする小さな自然でしかありませんでした。そして外界を構成しているものは、国家にしても貨幣にしても、ユヴァルが言うように共同幻想(共同主観的現実)ですから、内面は大きな共同幻想にたいする小さな共同幻想ということになります。現在、外界のほうは国家が行き詰っていて、それを超える共同幻想といえばサイエンスくらいしかなくなっている。そのサイエンスが貨幣を媒介として、ぼくたちの心身を乗っ取ろうとしているわけです。もはや内面という乗り物に乗って、どこかへ行くことはできません。コンピュータ・サイエンスとライフ・サイエンスによって統べられた、世界という鏡面にとらわれつづけるだけです。
 内面とは別のまなざしが必要です。それは人間の個的な生存を社会的存在ではなく、内包的存在として見るまなざしと言ってもいいでしょう。自己を社会的存在と規定したとき、ぼくたちは外界と内面を往還しながら生きるしかなくなります。どんな内面を虚構しようと、この規定のなかでは孤独と絶望から逃れることはできません。自己を社会的存在とは別様に見ることのできるまなざしが必要です。それが「内包」だと思います。

 これからは言葉で丘をつくり、傍らに塹壕を掘り、風雨を凌ぎ、天気のいいとき言葉の丘から世界をみはるかす、そのちいさな内包自然をつくることで、意識の外延革命を呑み込んでいく、そこが生の主戦場になると思っている。(「歩く浄土」201)

 社会的存在としての自己をもたらしているのは同一性です。同一的な意識において自己を統覚するかぎり、個は社会的な存在でしかありえません。それ以外に生きる術がないからです。即座に交換と貨幣が必要になります。前回の書簡で、森崎さんは「貨幣の起源は飢餓だ」と断言しておられます。正確に引用すると、「飢餓を緩衝するもののひとつとして貨幣の起源がある」(「歩く浄土」199)というところですね。とてもうまい言い方だと思います。貨幣というのは飢餓を回避するための、いわば仮想の食糧として生まれたのだということですね。これを持っていれば、いつでも現物の食糧と交換できる。つまり飢餓が回避できる。
 腹が減るのも、その飢えを充たそうとするのも自己という同一者です。飢餓の回避という場面で、交換という共同主観的な現実とともに貨幣という虚構が生まれ、同時に自己という虚構も現象してきた。その後の長い人類の歴史があり、この歴史を森崎さんは「外延史」と呼ばれ、モダンと規定しておられる。モダンは一瞬にして現在のビットマシン社会に至り、そこで人類が改変されてポストヒューマンが顔を見せはじめている。
 外延史が行き着いた現在にたいして、別のビジョンや構想を打ち出すためには、同一性の意識の根源にある飢えをひらく必要があります。そして現にひらかれるのです。妹にバナナを食べさせるインドの少年によって。「きみが食べろ」という場面が、誰のなかにもあることによって。「私以外私じゃない」という意識の根源には、飢える存在としての自己があります。その飢えでさえ分かちもたれる。人を同一性という強固な自然に封じ込める飢餓が、「ふたり」という場所でひらかれる。「もしこの不思議がなかったらヒトが人になることはなかった」(「歩く浄土」199)。そのとおりだと思います。
 自分が自分でしかなければ、飢餓は飢餓でしかありません。その飢餓が、「きみが食べろ」という場面でひらかれている。ビスケットを「はんぶんあげるね」という場面でもひらかれている。死はどうでしょう。自分が自分でしかなければ、死は虚無と絶望でしかありません。その死が、「きみが生きろ」という場面で、やはり「ふたり」としてひらかれている。アキと朔太郎が「また見つけてね」「すぐに見つけるさ」と秘密の約束を交わす場面でも、62歳の父親が仏壇の前で「もうすぐいくよ」と死んだ娘に語りかける場面でも、『リトル・トリー』のおじいちゃんが「また会おうな」と孫に言い残す場面でも、一人で引き受けるしかない死が「ふたり」としてひらかれている。
 悠久の昔、内包自然の丘でヒトは人になりました。その丘は、ぼくたちのなかにありつづけています。誰でも丘の上で、背伸びをしたり、広々とした気分になったりすることができます。あなたのなかにある丘を見つけて登ってごらん、というのが内包論の呼びかけだと思います。