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27 ぼくの資本論

 最近はプルーストのことなどを書いているけれど、『失われた時を求めて』を通読したのは一度だけで、二十代のときだ。その後は必要なところを読み返す程度である。これまでに読んだ長い作品は、他には『源氏物語』や『資本論』などがある。いずれも通読は一度だけだと思う。『源氏物語』は二十代で、『資本論』は大学の教養課程のときだから十代の終わり。その後は部分的な拾い読みである。やはり若いころのがむしゃらな読書って大事ですね。

 今回は『資本論』の話をしよう。学生のころから本を買うと、後ろのページに購入年月日を記す習慣があり、手元の岩波文庫は「1977年10月21日」となっている。ぼくが入学した九州大学の農学部は、一年半の教養課程を終えてから各学科へ進むことになっていた。1977年は教養課程の一年目にあたる。そのころにマルクスを読んでいたということは、経済学をやろうと思っていたのだろうか。一年後には農政経済学科というところへ進み、卒論でマルクスの疎外論やって教授たちの不興を買うことになる。

 いま岩波文庫の『資本論』を開いてみると、ほぼ全ページに汚らしい線引きと書き込みがある。この情熱は不気味だ。いったい何を考えていたのだろう。必死になって読んでいたとおぼしき『資本論』、しかも本棚には、第一巻だけ厳めしいドイツ語の『DAS KAPITAL』と、ややカジュアルな英訳の『CAPITAL』が並んでいて、両方とも参照していた形跡がある。完全に研究者気どりである。いったい何がやりたかったのだ? 18歳のオレ……。

 おそらく何かをやっている、という実感が欲しかったのだろう。過剰な自分を持て余していた、ということかもしれない。オネーチャン方面へ走る道もなかったわけではない。でも品行方正な地方公務員の息子であるぼくは、地道にアカデミズムの道を進もうとしていた。汚れっちまった『資本論』だけれど、そこにどんなことが書いてあったか、いまはほとんどおぼえていない。当時も、どのくらい頭に入っていたか怪しいものだ。しかしマルクスの熱狂、やむにやまれぬ思いは、18歳の若造なりに感知していたように思う。

 生涯にわたってマルクスを突き動かしていた情熱は、労働者が不当に収奪されている現状への強烈な異議申し立てだった。こんな世界であっていいはずはない、と思った彼は大英博物館の図書室にこもって経済学の本を読み漁り、ノートをとりまくった。当時のマルクス家は、「おまえねえ、労働者の心配をしている場合じゃないだろう」というほどに困窮していた。なにしろ亡命者生活である。故国プロイセンでやっていた『ライン新聞』は検閲に引っかかって発行できなくなり、新婚のイェニーとともにパリに移り住むけれど、ここにも居づらくなって1849年、32歳のときに妻と四人の子どもを連れてロンドンに移住する。

 ロンドンの住まいは下層街といわれたソーホーである。二部屋に一家七人が暮らしていたという。政治的孤立に加えて経済的困窮がマルクスを襲う。不衛生と伝染病の流行によって三人の子どもたちを失う。家賃は滞り、差し押さえにあいながらも、朝9時から夕方7時まで、大英博物館で『資本論』のためのノートをとる生活をやめなかった。妻のイェニーが「主人は資本について研究するよりも資本をつくってくれたら」と知人に嘆いたという逸話が残っている。そんな狂気じみたマルクスの灼熱が、国を超え、時代を超えて18歳の若造の心を燃焼させたらしい。伝わり、残っていくのは、イデオロギーや理論ばかりではないのだろう。(2019.9.28)