ぼく自身のための広告(27)

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27  ぼくのボブ・ディラン

 ときどき遊びに行っているウクレレ教室で発表会をやることになった。お酒を飲みながら一人一曲ずつ演奏して歌う。ぼくはギターの弾き語りでしっとりと「イエスタデー」などやって、ご婦人方の涙腺をくすぐるつもりだ😁。教室のメンバーに内科のお医者さんがいて「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」をやるので手伝ってくれという。お安い御用だ。ぼくは聴いたことがないけれどポール・マッカートニーのヴァージョンだそうである。彼はウクレレとヴォーカルを担当、途中でカズーも吹いてなかなか堂に入っている。ぼくはギターとハーモニカの短い間奏を担当。ギターはサムピックを使ってかっこよく弾こうと思っているのだが、あの独特の跳ねるようなリズムがなかなか難しい。サムピックなんてほとんど使ったことがないしね。
 最初にハーモニカ(ブルースハープ)とホルダーを買ったのは中学3年生の秋でボブ・ディランの影響だ。そのころぼくはディランのアルバムを毎月一枚ずつ買っている、おそらく宇和島市でただ一人の中学生だった。中学2年生のときからビートルズとローリング・ストーンズを聴きはじめ、めぼしいアルバムはだいたい聴いてしまったので、つぎはディランを聴いてやろうと思い立った。ちょうどガロの「学生街の喫茶店」がヒットしていたころである。片隅で聴いていたボブ・ディラン~♪ ディランって何者? いや、何者かはわかっている。岡林信康をはじめとするアンダーグラウンドの人たちから神様のように崇められている人だ。当時、「結婚しようよ」や「旅の宿」をヒットさせて飛ぶ鳥を落とす勢いだった吉田拓郎も影響を受けたと言っていた。さらにサイモン&ガーファンクルもトム&ジェリー時代にアイドルにしていたというではないか。そんなすごい人なら、ぜひ聴かねばなるまい。
 で、買いました、『フリー・ホイーリン』。「風に吹かれて」は知っていたし、「くよくよするなよ」とか「北国の少女」とか「はげしい雨が降る」とか、気に入った曲も幾つか入っている。でも「戦争の親玉」や「ボブ・ディランの夢」や「第三次大戦を語るブルース」などは、あまり面白いと思わなかった。「コリーナ、コリーナ」とかヘンな曲も入っているし。その「コリーナ、コリーナ」を除いて、全曲ディランの歌とギターとハーモニカだけというのも、なんだか物足りなかった。当時のLPレコードは一枚2000円(CBSソニーの場合)。同じ値段で、これはないだろう!?
 いくら宇和島市内でいちばん渋い中学生とはいえ、このあいだまで『サージェント・ペパーズ』や『アビーロード』のゴージャスな音を聴いていた15歳である。それなのになんだ、このいきなりなワビサビの世界は? 夏目漱石の『門』で宗助が鎌倉の禅寺に参禅に行って、老師から公案をいただいたようなものである。唯一の救いはジャケットだった。雪のグリニッジ・ヴィレッジを、当時恋人だったスージー・ロトロと腕を組んで歩く初々しいディランの姿。「よし、いつかぼくもこのような素敵な女性とめぐり合って、雪の堀端町あたりを腕を組んで歩くのだ」と心に誓った中学生は、もうしばらくこの人に付き合ってみようと思い、乏しいおこづかいで『時代は変わる』や『アナザー・サイド』といった地味~なアルバムを買いつづけるのである。

 でもまあ、明けない夜はないもので、『ブリング・イット・オール・バック・ホーム』の1曲目、「サブタレイニアン・ホームシック・ブルース」を聴いたときには長いトンネルを抜けたような気がした。いまでもディランのアルバムでは、これがいちばん好きかもしれない。とはいえレコードを買ったのは高校1年生の夏休みだった。それまでの半年ほどは何をしていたかというと、ディラン以外のアーティストを聴いていたのである。さすがに育ち盛りの15歳に『フリー・ホイーリン』『時代は変わる』『アナザー・サイド』の三連発は辛かった。肉も魚も喰っちゃいかんと言われているようなものだ。それでジェイムズ・テイラーの『ワンマン・ドッグ』などを聴いていたのである。セクション、かっこよかったなあ。
 とりわけ中学3年生の三学期、渋谷陽一さんのラジオ番組でクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの特集を聴いたのが大きかった。ゲストは平田良子さんでねえ……この話、もう10回くらいしている気がする。とにかく、その番組でかかったニール・ヤングの「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」を聴いて、「これはぼくのための曲だ!」と思ったのだ。翌日、学校が終わるとレコード屋へ走った。当時の宇和島市にはヤマモトとサカモトという二軒のレコード屋さんがあったけれど、あいにくどちらにも『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は置いてなかった。かわりに『ハーヴェスト』が入っていたので、まあ、これでもいいかと思って買って帰った。1曲目の「週末に」を聴いた瞬間、「この人に生涯ついていこう!」と思った。思い込みの激しい15歳だったのだ。
 間違いだったのかもしれない。生涯の「この人」がニール・ヤングであったことだ。もっと別の人にしておけばよかった。でも誰についていったところで、ろくなことにはならなかった気もする。その人がロック・ミュージシャンであるかぎり。ミュージシャンはだめだ。文学者はもっとだめだ。ベンジャミン・フランクリンやシュリーマンならよかったのか? とにかく15歳のぼくにとって、「この人」はニール・ヤングだった。そして「この人」に倣って最初にやったことは、買ってもらったばかりのジーンズを破ることだった。「もうあんたには服を買ってやらん!」と母から叱られた。それでもぼくはめげなかった。家中の端切れをかき集めて、ジーンズにパッチワークあてはじめた。ミシンの針を何本も折った。再び母から「もうミシンは使わせん!」と宣告を受けた。そんなことをしていたので、ディランのレコードを買う余裕がなかったのである。
 ディランとご無沙汰しているあいだに、めでたく『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』も手に入れた。いまでも大事にとっている。裏ジャケットが問題のパッチワークで、ジーンズの尻のところがアップで写っている。小さな文字のクレジットに赤のボールペンで線が引いてあってねえ、「PATCHES: Susan Young」って。う~ん、胸がキュンとなってしまうなあ。いつのまにか高校1年生になっていたぼくは、いつかクールなパッチワークを作ってくれる女性と結婚しようと思い決めた。顧みると『フリー・ホイーリン』のスージー・ロトロと『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』のスーザン・パッチワーク・ヤング、この二人によってぼくの理想の女性像は形作られた気がする。こんなことを書いていたら、いつまでも経っても『ブリング・イット・オール・バック・ホーム』にたどり着かない。

 スティーブ・ジョブズのドキュメンタリー映画を観ていたら、彼の若いころの恋人が、高校生のころにジョブズからボブ・ディランの詩を送ってもらったという話をしていた。本人が書き写した「ローランドの悲しい目の乙女」の歌詞だったらしい。ぼくは「やってるな」と思い、微笑ましかった。ディランの詩って、なんか好きな女の人に贈りたくなるんだよね。ああ見えてディラン、けっこう女心がわかっているのかもしれない。彼の詩には乙女の気持ちをくすぐるものが意外と多い。というか、男を自己満足させる詩が多いと言うべきかもしれない。
 ぼくがよく使わせてもらったのは『ナッシュビル・スカイライン』の歌詞である。「きみと二人だけ、きみとぼくだけ。それがあるべき姿だと、きみは思わないか? ぴったり抱き合って、一晩中。すべてはうまくいく、きみと二人だけでいれば」(「To Be Alone With You」)、「噂ではきみは誰かほかの男といたそうだ。彼は背が高くて色黒で、ハンサムで、きみは彼と手をつないでいたって。誰かほかの男がきみを抱きしめているなんで、想像しただけで体中が痛む。よくないことだよ。だからねえ、がんばって、嘘だと言ってくれないか」(「Tell Me That It Isn’t True」)、「切符もトランクも悩みも、みんな窓から捨ててしまおう。そんなものはもういらない。今夜はきみと一緒に過ごすんだから。汽笛の音が聞こえる、駅長さんがホームに立っている。街をうろつく貧しい少年がいたら、ぼくの切符をあげよう。だって今夜、ぼくはきみと過ごすんだから」(「Tonight I’ll Be Staying Here With You」)、そんな詩を送られて迷惑した女の子がいたはずだ。
 いちばんよく聴いたのは『ブリング・オール・バック・ホーム』『ハイウェイ61』『ブロンド・オン・ブロンド』、しばらく空いて『ブラッド・オン・ザ・トラックス』。これに『アナザー・サイド』を加えた5枚が、ぼくにはいちばん愛着がある。それぞれのアルバムについての思い出もあるけれど、また別の機会に。いまでもディランを聴いている。最近は「ブートレグ・シリーズ」が大変なことになっている。ディランの詩を盗用して女の人に贈る、なんてことはさすがにやっていない。いつのまにかぼくも「ハイウェイ61」の歳になった。