2012年9月にこの本を上梓したとき、書店とメディア向けに本の紹介をしました。そのときに話したことの原稿が出てきましたので、ちょっと長いですがご紹介します。
『愛について、なお語るべきこと』について語るべきこと
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このたび『愛について、なお語るべきこと』という小説を上梓しました。いい歳をして、なぜ「愛」なのか。もっと他に語ることはないのか。たしかに。ぼくも53なわけだし、そろそろ断捨離の境地であるとか、前立腺肥大の問題とか、仏像を見てまわる話とか……について語るのがふさわしいお年頃。しかし今回、なぜかまたもや「愛」なのです。
ぼくたちの社会において、愛は微妙な立場にあります。まず知的な人は愛について語らない。知識に興味のある者ほど、愛にまつわる諸々のことを敬遠する傾向にある。いまや愛は未熟さや幼児性の象徴である、とさえ言えるでしょう。読書人口が減っているのかどうかわかりませんが、文芸、とりわけ現代小説の読者は確実に減りつづけている。その一因は、これらの小説の多くで恋愛が描かれているせいかもしれません。「恋愛」と聞いただけで、心ある人たちは眉をひそめてしまう。良識ある人たちは小説以外のものを、たとえばエッセーや歴史書などを手に取る。あるいは純粋な娯楽として、ミステリーや時代小説などを読む。だが間違っても、恋愛を扱った現代小説だけは読まない。
この社会で、愛は白い目で見られている。いや、白い目でさえ見られていない、と言うべきでしょう。できれば見なくない。なかったことにしたい。要するに目障りなのです。人類誕生以来、人間は愛などなしでやってきたし、いまもやっている。善良な市民の皆さんは、そう考えたがっているふしがある。一人が愛について語りはじめた途端、まわりの誰彼が気まずい思いをする。愛はその場の空気を、一瞬にして居心地の悪いものに変えてしまう。人々は苛立ち、ときに冷笑を浮かべながら、目を背けたり、耳を塞いだりする。これがぼくたちの生きている世界です。まさに愛なき世界。
かくも困難な状況において、愛について語ろうとすることは、ほとんどミッションに等しい。どんなミッションにも困難は付きまといます。とりわけ愛を語ることには、多大の犠牲や代償が伴う。愛について語りつづけたイエス・キリストは磔になりました。マハトマ・ガンジーも、マルティン・ルーサー・キングも、ジョン・レノンも、みんな暗殺されました。彼らの身に起こったことにくらべれば、五十男が被る誤解や偏見、謗りや蔑みなど、蚊に刺されるようなものだと開き直って、愛について語りつづけるしかない。
人々は愛について語る者を憎む。これは二千年前も現代も変わらぬ事実です。なぜ、彼らは憎まれるのか。それは愛について語ることが、人間の真実に触れるからです。いつの世にあっても真実とは危険なものです。あらゆる支配と権力は、真実を隠蔽するところに成立します。誰もが真実を真実として生きることができるなら、支配も権力も必要ないわけで。人々が真実を生きることを妨げるために、力(暴力)が行使されるのです。この力は誰よりもまず、真実を語ろうとする者に向けられます。だから真実を語るときには、痴れ者のふりをしなければならない。
ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ(吉本隆明「廃人の歌」)
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とはいうものの、ひところは意識的にこの言葉を使わないようにしていました。『世界の中心で、愛をさけぶ』というタイトルの小説がベスト・セラーになって、その小説についてたずねられることが多かったり、ぼく自身が「愛」という言葉とともに語られることが多かったりしたせいです。当初は身に覚えのない感じが強く、なんとなく居心地が悪かったのです。でも最近は開き直って、「愛」というものについて、きちんと考えてみようと思うようになりました。
あの小説を書いたときに考えていたことは、愛のことよりは、むしろ死のことでした。ぼくは「死を開く」と言っていますが、死を虚無以外のものと考えたい、死をもって、そこですべてが終わってしまうのではなく、何か持続する想いといいますか、死を超えたつながりのようなものを描きたいと思いました。それはぼくたちが普通に願っていることだと思います。とくに愛する者の死、愛する人との別れに際しては、誰でも考えることではないでしょうか。こうして若い二人の主人公たちの恋愛が、小説の具体的なテーマとして取り上げられることになったわけです。
あの小説のなかで、主人公たちは「サクちゃん」とか「アキ」という愛称で呼び合っています。主人公の朔太郎がアキという名前の漢字表記(亜紀)を知らないのは、現実的には不自然かもしれませんが、文学的には正しいのです。彼にとって「アキ」という呼称は、「亜紀」とは別のものであらねばならない。ぼくたちは社会のなかで、一義的な人格として様々な機能や役割を果たしています。しかし一方で、そうした関係を解除したい、道具的にお互いを規定し合う関係の外に出たいという思いがあります。だから家族や恋人のあいだでは、愛称で呼び合うのだと思います。つまり愛称で呼び合うことには、社会的な関係とは別の関係を生み出したいという、欲望や指向性が反映しているのです。
愛の関係は、たとえば契約や取引の下では成立しません。権利や義務などの法的関係のなかに愛はありえない。夫婦などにおいて、愛としてはじまった関係が、長い歳月のあいだに愛以外のものに変質するのは、そこに権利や義務の要素が入ってくるからかもしれません。また経済的関係のなかにも愛はありません。所有ほど、愛から遠いものはない。愛の反対は所有であると言ってもいいくらいです。愛する者を所有することはけっしてできない。善いものは所有できない。所有した途端に、善いものの善さは消滅してしまう。それが愛の本質構造だと思います。
愛の原理を駆動させるために、ぼくたちは法的関係や契約関係、あるいは経済的関係のなかで一人一人の人間を指し示す、客観的記号としての名前とは別の呼び方で、その人のことを呼ばなければなりません。消費者として有権者として納税者として高齢者として生徒や患者として……個人を同定するために使われる一義的な名前にたいして、愛の関係のなかで呼ばれる名前を、今度の小説のなかでは「本当の名前」という、やや象徴的な言い方をしています。
「本当の名前」を呼ぶために、ぼくたちは愛の関係に入らなければならない。このとき自他の差異は不可侵のものではなく、むしろ積極的に侵害し合おうとするものになる。そして人は一人の個人、一つの人格から逸脱して、誰某と同定されえないものになる。「本当の名前」で相手を呼ぶことは、その人を「彼は誰であるか」や「彼女は何者であるか」ではなく、「誰でありうるか」や「何者でありうるか」といった可能性としてとらえようとすることです。そのとき彼や彼女の死は、「何であるか」から「何でありうるか」という問いに変換され、彼や彼女は、一個の有機体であることを脱して、ある種の不死性を帯びた存在に変容しはじめるのです。
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作品の内容について語るべきでしょう。原稿用紙で1200枚、ページ数にして570ページほどの長いものですので、読みはじめる前に二の足を踏まれる方も多いかと思います。どういう話なのか。ひとことで言うと、人類絶滅と家庭崩壊の話です。つまり人類が絶滅しかけている近未来の話と、絶滅の予兆へ向かう現在の話が、奇数章と偶数章で交互に物語られるという構成をとっており、全体としてなんとなく二つの物語がゆるやかに結び付きます。そうした構成をとることが、現在、ぼくたちが生きている世界を描こうとするとき、いちばん感覚的にしっくりくると思いました。
『世界の中心で、愛をさけぶ』から『愛について、なお語るべきこと』まで、およそ12年間が経っているわけですが、この間に生じた大きな変化は、9.11や新型インフルエンザのパンデミックや福島の原発事故などを経て、人間の物理的消滅を含めた世界の破局がリアリティを帯びてきたということだと思います。餓や戦争に加え、テロやウイルスや放射能といったものによって、これまでに人類が経験したこともない大量死の時代を、ぼくたちは迎えつつあるのではないか、という予感が拭いがたく目の前に立ち現れてきているのです。
いまのところ資本主義にかわる世界のヴィジョンは見えません。日本やヨーロッパなどの先進国は、アメリカやイギリスのあとを追って資本主義の金融化を進めようとしているし、新興国は先を争って資本主義化をめざしている。中国やインドが資本主義化するだけでも、資源、環境、エネルギー……あらゆる面で世界が早晩立ち行かなくなることは目に見えています。立ち行かなくなったとき何が起こるのか。大量の餓死者が出るのか、戦争による大量死が引き起こされるのかわかりませんが、いずれにしても明るい未来像は描けない。とりあえず悲観的な未来しか考えられない気がします。
悲観的な未来のなかに、いかに希望や可能性を見出していくか。そのとき、どうしても「愛」のようなものが必要になってくる気がします。これまで愛は、プライベートな文脈やロマンチックな文脈で考えられてきました。しかしいまや人類的な死、あるいは世界的な破局といったヴィジョンのなかで、愛を語ることの必然性が生まれてきているように思います。つまり自分や愛する者の個人的な死と、人間の死、人類的な死とのあいだに、あまり違いがなくなった。二つがオーバーラップするというか、同じ一つの視野に入ってきてしまう状況が生じている、ということだと思います。
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ぼくたちはなぜ、一人よりも二人と考えるのでしょう。一人で幸せになるよりも、二人で幸せになろうとするのでしょう。二人で幸せになれないなら、せめて二人で不幸になろうとする。こうした倒錯に、人が誘われるのはなぜなのか。挙句の果てに、二人で共有する不幸は、二人であることにおいて幸せである、とまで積極的に錯覚したがる。ドストエフスキーの『罪と罰』から渡辺淳一の『失楽園』まで、描いているものは同じです。いや、同じではないけれど、愛の原理としては同じである、ということにして話を進めます。
人間は根本的に不合理な存在かもしれない。あえて不合理さとともに生きようとするところがある。『聖書』がイエスという主人公を通して描き出しているのは、不合理さを生の精髄として立ち現れる人間の姿ではないでしょうか。言うまでもなく、ヨーロッパの近代合理主義はキリスト教の理念から生まれたのですが、キリスト教の聖典である『聖書』には、そうした近代合理主義を真っ向から否定するところがあります。そこが『聖書』という書物の面白さ、すぐれている点だと思います。『聖書』のなかでイエスが闘うのは律法学者です。彼らのことをイエスは徹底的に批判している。律法学者とは、人々に法や権利といった合理を押しつける者たちです。まさにイエスは合理主義にたいして闘っているのです。
イエスが合理主義を否定するのは、それが人間から、本来の人間的な生き方を奪ってしまうからです。たとえば正義という合理は、たちまち人を裁き/裁かれるという関係のなかに陥れてしまう。権利という合理のもとでは、どんな徳も必然的に排他性を帯びてしまう。これらをイエスは、人間性を損なう不自然な生き方として否定します。そして律法学者たちの掲げる合理に、愛を対置します。合理を実定法のようなものとして客体化してしまうことは、結局、様々な力を介した関係のなかで人と人を分断してしまうことにつながる。この分断を、イエスは愛によって修復しようとするのです。
『聖書』のなかで、イエスはほとんど一つのことしか言っていません。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13.34)ということです。それだけをバカの一つおぼえみたいにイエスに言わせた『聖書』が、二千年にわたってベストセラーをつづけている。なぜか? それは「愛し合いなさい」という『聖書』の言葉のなかに、最良の人間性、この世界のいちばんいいものがあるからです。所有の観念を超えて、人間が生きることの可能性が示されているからです。イエスが所有を戒めるのは、それが善きものを殺してしまうからです。所有は人間の健全な欲求を、失うことの恐れへと転化してしまう。だから人は所有を超えた生き方をめざさなければならない。その答えが愛だ、とイエスは言うのです。
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かくも見事にイエスの使った「愛」という言葉が、ぼくたちには手の負えないものになっている。おそらく「愛」にかわる、新しい言葉の出現が待たれているのだと思います。フランス人権宣言の第一条は、「人は生まれながらにして自由にしてかつ平等な権利を有する」というものです。近代以降、ヨーロッパならびに、それに追従する世界は、「自由」と「平等」という二つの原理でやってきました。この二つの原理こそ、資本主義を駆動させているものでもあります。
しかし、それだけでは足りない。足りないことは、いまやはっきりしています。自由と平等だけでやろうとすると、人間は悪しきものになってしまう。なぜなら自由と平等のもとでは、一人一人が、拘束性の強い「自己」にとらわれてしまうからです。この自己を超えることも、自己の外へ出ることも、自己と自己とが相互に浸透し合うこともできない。他者とつながる唯一の手段は、貨幣を介在させた関係(交換)だけということになります。さらには個人や個人の生活が、まるごと証券化されて金融派生商品(デリバティブ)に組み込まれ、交換の対象にされる、というようなシステムが、ますます強固に構築されています。こうしてぼくたちは各自が孤絶した個人として、過酷な競争状態を生きることになっているわけです。それがまさに、この世界のあり様であり、悲惨と不幸の根源にあるものだと思います。
新しい言葉が必要なのです。自由と平等を否定する必要はないとしても、それだけでは世界は行き詰ってしまうし、現に行き詰っている。あと一つ、新しいファクターを付け加えてやる必要がある。第三のファクター「X」と言うべきものを。自由と平等、それに第三のファクターX、これらをiPS細胞の「山中ファクター」のように導入することによって、人間が多様な可能性へ向けて初期化される。そのような言葉が待たれているのだと思います。「本当の名前」とは、いまだこの世界に出現していない、しかし出現することが強く望まれている、新しい言葉を暗示しています。
以上のような思いを、作品に込めたつもりです。この思いが、一人でも多くの人に伝わることを願っています。