講義をはじめるにあたり、ぼくなりの講義のモチーフといいますが、今年は皆さんと一緒にこういうことを考えてみたい、ということをお話ししたいと思います。
いまはどういう時代か、というところから入っていきます。言うまでもなく大変な時代ですね。この大変さのなかには、戦争や紛争やテロといった政情不安があります。日本もいつ当事国になってもおかしくない。それくらい状況は緊迫していると思います。生活が苦しくなる、仕事がなくなる、社会の大多数で貧困化が進むといった現実的な問題もあります。その過程で、これまで以上に熾烈な生存競争みたいなことが起こってくると思われます。
もっと大きなところでいうと、人間という概念が危うくなっている。自分の意志で自由に生きるということを人間の本質と考えますと、この人間らしさが失われつつある、奪われようとしている。政治的にはファシズムみたいなものが色濃く立ち現れようとしています。社会的には監視社会ですね。それらにテクノロジーが絡んでくる。癌の早期発見・早期治療とか遺伝子診断とか。生まれる前から医療の管理下に置かれる。権力によって監視される。自由気ままに生きることが難しくなってくる。いろんな意味で人間という概念自体が危機に曝されていると思います。
そういう時代のなかで、いかに善く生きるか、できれば明るく前を向いて、さらに言えば楽しく。こういうことを考えるのが、本来は文学だと思うのです。売れるのが文学ではありません。有名になってお金を儲けるために文学をやっているわけではないのです。そういう目的や動機をお持ちの方は、何か別のことをやったほうがいいと思います。困難な時代にあっても、「大丈夫だ」という生き方や考え方を創出するのが文学です。少なくとも、ぼくはそう考えています。
あまり漠然とした話をしてもしょうがないので、もう少し具体的にお話してみます。いまという時代をとらえるときに、いろんな視点や切り口があると思いますが、ここでは二つのキーワードを手がかりに考えてみます。一つはグローバリゼーション、グローバル経済です。もう一つはAI(人工知能)です。二つはつながっているし、根本的には一つの問題だと言うこともできますが、とりあえず二つの局面で見ていきます。
まずグローバリゼーションです。グローバリゼーションとはどういうことかというと、これもいろんな人がいろんなことを言っていて、実際にいろんな言い方ができるわけですが、ここでは国家や文化や伝統といった保護膜を破壊し、一人ひとりの人間を一個の生存として剥き出しにすること、というふうにとらえておきます。
このようにグローバリゼーションをとらえると、非常に見通しがよくなります。グーグルやアマゾンがやろうとしていること、それに対抗してトランプ米大統領や安倍晋三首相たちがやろうとしていることがよくわかります。ローカルな国家や文化や伝統を破壊するのがグローバリゼーション、グローバル経済だとすると、トランプ大統領や安倍首相たちは、一応は国家をあずかっている立場ですから、これに抵抗しようとします。そのせめぎ合いが、いま起こっていることのポイントだと思います。
講義のなかで細かい話はしていくつもりですので、とりあえず結論だけを述べます。グローバリゼーションによって国家や文化や伝統といった保護膜が破壊され、一人ひとりの人間が一個の生存として剥き出しにされる、するとどういうことが起こるか。一人ひとりの個体差が個体差として、いかなる配慮も酌量もされることなく、それ自体として客観的に評価されることになります。個体差のなかには身体的なものや知能的なもの、あらゆる差異が含まれます。こうした差異が試験の点数とか売り上げとか勝率といった数字に置き換えられて評価されることになります。
イチロー選手や錦織選手を見てください。彼らが超一流の野球選手やテニスプレーヤーになれたのは、身体的な個体差が傑出していたからで、それ以外の理由はありません。ボルトだってそうです。力がすべて、能力がすべてで、性格や人格は関係ありません。また、どんなハンディもアドバンテージもありません。パフォーマンスだけで評定され、成績だけで世界何位というふうに序列化されます。
いわゆるアスリートの世界ですね。グローバリゼーションというのは全人類をアスリートにしてしまいます。たしかに公平だし、ある意味では「平等」ですが、勝ち組になれるのはほんのわずかです。イチロー選手や錦織選手、あるいはボルトやロナウドみたいな選手は多額の年俸や賞金を手にすることができますが、それは70億の人類からするとごく一部で、大部分は貧困化します。最新の報告では、世界でもっとも豊かな8人が、世界の貧しいほう半分の36億人に匹敵する資産を所有しているそうです。すさまじい格差と言うしかありません。このようにグローバリゼーションの下では、適者生存の原則が冷酷に貫徹していくので、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなることが避けられません。
日本はまだ国家という保護膜が少しは機能していますが、アフリカや中東の多くの国では国家が国家の体をなしていません。良くて軍事独裁、悪くするとISになります。そこでは一人ひとりが本当に剥き出しの暴力と貧困に曝されています。おそらくアメリカやヨーロッパの多くの国も、実態はそうなっているのではないでしょうか。日本もこれからそうなろうとしています。安倍首相は日本をIS化するくらいなら、自分が軍事独裁を敷いて日本を統治してやると考えています。特定機密保護法も共謀罪法案もそのためのものです。彼の政権が一定の支持率を保っているのは、それを是とする人が多いからだと思います。
ぼくたちはどっちも嫌なわけで、IS化はもちろん嫌ですが、かといって軍事独裁も受け入れるわけにはいかない。そのことははっきり言ったほうがいいと思います。じゃあどうするのかということは、これから考えればいいわけです。
つぎにAIの問題を見てみましょう。当面はやはり雇用破壊の問題が深刻だと思います。これまで人間のやっていた仕事がAIに取って代わられ、多くの人が失業する。これは間違いなく近い将来に起こってくることですし、すでに起こりつつあることです。
皆さんも「シンギュラリティ」という言葉を聞いたことがあるでしょう。「技術的特異点」と訳されるようですが、要するにAIの能力が人間を超えてしまうことですね。現在のペースでコンピュータが進歩しつづけると、2045年くらいに特異点を超えてしまうと言われています。そこで何が起こるかわからない。AIが人間よりも賢くなって爆発的に進化し、人間にとって脅威になると言う人もいます。スティーヴン・ホーキングは人間が終焉するかもしれないと言っていますし、ビル・ゲイツなどもAIの脅威を訴えています。
ここで注意しておきたいのは、こういう問題は、なにもいまになって出てきたわけではないということです。チェコの作家にカレル・チャペックという人がいますが、彼が1920年に発表した戯曲『ロボット』は、まさに機械が人間にたいして反乱を起こし、人間を抹殺してしまうというお話です。「ロボット」という言葉はチャペックの造語で、それが一般化したのです。チェコ語で賦役や労役をあらわす「ロボタ」という言葉がもとになっているようです。英語のレイバーですね。まさに押井守の『パトレイバー』みたいな話を、チャペックさんは百年近くも前に書いているわけです。
人間はずっとロボットみたいなものを作ることを夢見てきたということだと思います。作品のなかでロボットを製造した会社の社長が、自分は人間を労働という悪夢から解放するためにロボットを作った、みたいなことを言う場面があります。人間にとって苦痛でしかないことを機械にやらせる。それは動物を家畜化して農耕などに使いはじめたころから、長く人類の夢でした。一人のマッドサイエンティストが悪意をもって発明したわけではないのです。意図的に悪をなそうとした者はいません。むしろ善良な研究者たちが、人類のために良かれと思って研究開発したのです。AIもそうです。さらに言えば原発や核兵器も。そういうものが人間の生存を脅かしているのです。
AIや核兵器の問題を、科学技術によって解決することはできないということだと思います。あるいは人間の意志によってどうかなる問題ではない。核兵器を廃絶しようと、たとえ全人類が願っても核兵器はなくならない。それは人間の意志を超えたことなのです。人間というデフォルトのなかに、核兵器やAIを生み出すようなプログラムが書き込まれていると言ってもいいかもしれません。
つまりAIや核兵器の問題を解決するために、核軍縮のように法律やルールをつくって規制するといったやり方は無効だということです。AIの問題も核の問題も、人間のあり方そのものに根ざしているわけですから、人間を変えるしかない。変えるといっても、遺伝子に手を加えて器質を変化させるといったことではありません。そうではなくて、人間というデフォルトを組み替えるのです。ぼくの言葉でいうと、新しい眼差しをもたらすということです。人間という存在の見方を変えるような、新しい眼差しを創出する。こうなると、まさに文学の仕事です。
AIがいくら賢くなっても、絶対に手をつけることのできない問題があります。アスリートの頂点に登り詰めても、また貧困化のどん底にあっても、そうした境遇とは関係なく残りつづける問題があります。誰のなかにも例外なくあります。それはぼくたち一人ひとりが、自分であることにおいて空虚だということです。自分というものは空っぽなのです。
死の問題を考えてみれば明瞭です。これまでのところ死とは、あらゆる関係が切断されて自分が一人ぼっちになってしまうことです。家族や恋人や友人、すべての人間関係が断絶してしまう。宇宙空間にたった一人で放り出されるようなものです。多くの人はそれに耐えることができません。だって自分は空っぽなのですから。この空虚を埋めるために、神や仏が創出されたのでしょう。天国や浄土といったものが考え出されたのだと思います。
自分というものは、それだけを取り出すとまったくの空虚である。この問題は、AIがいくら賢くなっても解くことはできません。将棋やチェスの名人を百万回打ち負かすこととは、まるで次元が異なる問題なのです。もちろんアスリートの世界で大金持ちになっても解決しません。お金やモノでなんとかなる問題ではない。だってお金やモノで解決しないのが死ですからね。自分の力で手に入れることのできるもの、地位も名声も権力もお金もモノも、すべてが死の前では無力です。そして死は誰にでも例外なく訪れるのですから、死によって剥き出しにされる空虚もまた、誰のなかにも例外なしに埋め込まれていると言えます。
こうした空虚や空っぽが、ぼくたちが生きることのど真ん中に広がっているのです。しかも自分の力では埋めることのできないものとして広がっている。普段は仕事のこととか生活のこととか、恋愛とか趣味とか、車検とかクレジットの残高とか、いろんなことに取り紛れて自分が空っぽだということに気づきません。気づいても、すぐに別のことに気を取られて忘れてしまいます。ぼくたちの多くはそうやって日々を過ごしています。
でも自分が空っぽであるということに深く気づいてしまうと、かなり厄介なことになります。際限なくお酒を飲んだり、お菓子を食べたり、ギャンブルや女の人に溺れたり。いわゆる依存症ですね。なぜ依存するのかというと、自分という空っぽを満たすことのできるのは自分ではないからです。自分を自分でいっぱいにすることはできない。それにもかかわらず、自分が空虚であることに耐えられずに、自分でなんとかしようとするのが依存症です。さらに進むと自傷行為や自殺念慮になると思います。
ぼくが「総表現者」ということで言いたいのは、この空っぽのことです。誰のなかにも埋め込まれている空虚。広大な領域が手付かずのまま広がっています。そして表現されることを待っています。何かによって埋めるのではなく、それ自体として表現されることを待っている。だから70億の人類、すべてが一人の例外もなく潜在的に表現者なのです。
こうした空っぽや空虚は、いくらグローバル化が進んでも、たとえAIが生きることから死ぬことまでを代わりにやってくれるようになっても、まっさらなままに残りつづけます。それは大きな可能性であり希望だと思います。たしかにグローバリゼーションによって貧富の差は拡大し、大多数の人は貧困化するでしょう。AIによって多くの仕事が奪われる。それは間違いありません。しかしぼくたちは誰もが表現者として、大きな可能性とともに生きています。
この可能性に優劣はありません。完全に平等です。また個体差や能力差は関係ありません。自力ではどうにもならないわけですからね。じゃあ、どうすればいいのか? 空虚が空虚として、空っぽが空っぽとして表現をなす。そのことにおいて誰もが表現者になればいいのです。
あいかわらず話が漠然としていますね。ここでも死がヒントになります。死が自分というものの空虚さを剥き出しにする。だったら死によって切断されないもの、無にならないものを、一人ひとりが自分なりのやり方で生きればいいのです。このとき空虚も空っぽも消えているはずです。空虚が空虚として、空っぽが空っぽとして表現をなすとは、そういうことだと思います。
死によって損なわれないもの、死がけっして手を触れることのできないものに、人は誰でも生涯のどこかで、遭遇する契機をもっていると思うのです。これを言葉で取り出すのが文学だと思います。ストーリーとして描くのが小説です。
70億の人類に、70億の出会いがあります。それらすべてが小説の題材になりうるのですから、ぼくたちがめざす文学の領域は無限です。そういう文学をめざしましょう。(2017.4.12 九州産業大学)