第5回 能楽~夢幻能を中心に

九産大講義
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1 基本的な知識
 約650年前の室町時代、観阿弥(1334~84)、世阿弥(1363~1443)の親子によって大成された。奈良時代に日本に入ってきた唐の大衆芸能である「散楽」が日本風に「さるごう」と呼ばれ、それが「猿楽」になったとされる。
 日本古来の神事芸能では、演者がさまざまな神に変身し、神と人々に祝福を与えたり、託宣をしたりする。いわゆる神懸かりの芸能。神様が神官や氏子に憑依して、収穫の多寡を託宣したり、来るべき豊穣を事前にお祝い(予祝)したりする。
 能という言葉は、もともとは「する」とか「できる」という意味。それがやがて歌舞劇を意味するようになり、江戸時代までは「能」といえば歌舞劇一般をさす言葉として使われていた。

 能の脚本は短く(3000字前後)、舞台は小さい(約6メートル四方)。音楽は一管の笛と大小の鼓からなる。旋律に乏しく、和音の建築的構造を欠く。複雑なリズムがドラマを進行させていく。
 登場人物は少ない。典型的な場合は、主人公(シテ)は一人で、主人公の内部の劇の展開にきっかけを与える人物(ワキ)が登場するに過ぎない。その主人公は人間として現われ、亡霊に変身する。
 現在でもよく演じられるものは二百数十番、主な作者は観阿弥・世阿弥のほかに観世元雅(世阿弥の息子)、金春禅竹(世阿弥の娘婿)、観世信光(世阿弥の弟の孫)など。

2 音楽
 囃子方(笛、小鼓、大鼓、太鼓)。いわゆる「四拍子」。太鼓の入らないものもある。これに地謡を担当する者が6~10名。大鼓と小鼓でドラマのテンポをつくり出していく。大鼓は奇数拍に打つのが基本(頭打ち→進行はゆっくり)。小鼓は偶数拍に打つ(裏打ち→スピード速くなる。ジャズやロックのビート)。

3 表現としての能
 演ずる者と観る者が共同で一つの能をつくり上げていく。消費よりも創造に近い。いわゆる「芸術」とはそういうものではないだろうか。音楽にしても文学にしても、音や言葉からイメージを広げたり情景を思い浮かべたりする。読者や鑑賞者が関与し、ともにつくり上げていくものを「芸術」と呼んでいいように思う。テレビやグローバル仕様のハリウッド映画のように、すべてが可視化され、開示されると、鑑賞者(視聴者)は与えられた情報を処理(消費)するだけの存在になる。それは芸術とは言わない。

4 夢幻能
 能は現在能と夢幻能に二分できる。現在能は生きている人のみが登場する。夢幻能は世阿弥によって完成された。その特徴は、劇的緊張を複数の人間相互の対立にではなく、一人の主人公の「変身」に集中し、内面化したことにある。

 夢幻能の構成は「前場」と「後場」の二場からなるもの(複式夢幻能)が多い。
前場……旅の僧などの「ワキ」が名所やいわれのある場所を訪れると、主人公であるシテが謎の人物として現われ、その土地に関連する話をはじめる。シテ(前シテ)は老人や女性の姿をしており、自分が何者かをほのめかす。
中入り……シテが橋掛かりから揚幕に消えていく。
後場……ワキがそのまま待つと、今度は消えた謎の人物が、幽霊、神、精霊など、非現実的な本来の霊的な姿で再び現れ(後シテ)、舞いを舞って消えていく。

 主人公が武将の場合には、諸国行脚の僧(ワキ)が古戦場で老人(前シテ)に会い土地の話を聞く。中入りを挟んで、その老人が昔の武将の姿で現れ(後シテ)、討死のさまを語りながら舞い、僧が読経して亡霊を鎮める。前シテは老人や老女で、後シテは狂い舞う亡霊である。前場の舞台はこの世であり、後場の舞台は死後の世界、亡霊のさまようところである。
 この構造は、武将の話だけでなく、身分の低い老人の高貴な女にたいする恋を扱った「恋重荷」でも変わらない。前シテの老人は恋する女になぶられて自殺する。後シテは、その老人の亡霊で、狂い舞いながら女を責める。

5 夢幻能として村上春樹を読むと?
 能のワキは脇役の「ワキ」ではなく、「分ける」のワキ。あの世とこの世の分け目、境界にいる人物。諸国をさまよい、幽霊に出会い、成仏させる。こうしたワキの役割は、村上春樹の小説に出てくる「僕」に似ている。

『羊をめぐる冒険』の場合
前場……妻と離婚した「僕」は耳のモデルをしているコールガール(能の「ツレ」にあたる)と出会い、背中に星のマークのついた羊を探しに北海道へ出かける。二人は札幌へ飛び、いるかホテルにチェックインする。そこで羊のことを調べているうちに羊博士に出会う。かつて羊は博士に取り憑いていたが、いまは別の人物に取り憑いているらしい。僕と彼女は、羊がいると思われる北海道の農場へ向かう。山の上にある羊の放牧場、そこは僕の友人「鼠」の父親の所有物だった。放牧場には二階建ての山荘が建っている。
中入り……僕を案内してきた耳のモデルの彼女が姿を消す。
後場……山荘に滞在している僕の前に羊男が登場。彼は一種の狂言回しの役割を担っている。しばらくは何も起こらない。僕は自炊をしながら山荘に滞在しつづける。何度か羊男が現れる。彼は徴兵を拒否してここに身を隠し、そのまま住みついているらしい。暗闇のなか、時計が午後9時を打つ。そして「鼠」が現れる。二人はビールを飲みながら話をする。

「君はもう死んでいるんだろう?」
 鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった。ほんの何秒であったのかもしれないが、それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった。口の中がからからに乾いた。
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」
(鼠の口から真相が告げられる。彼は僕が来る一週間前に首を吊った。)
「簡単に言うと、俺は羊を呑み込んだまま死んだんだ」と鼠は言った。「羊がぐっすりと寝込むのを待ってから台所のはりにロープを結んで首を吊ったんだ。奴には逃げだす暇もなかった」
「本当にそうしなきゃならなかったのか?」
「本当にそうしなきゃならなかったんだよ。もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していただろうからね。最後のチャンスだったんだ」

6 夢幻能を創作してみよう
 前場は現実の世界。生きている人間が登場する。主人公は何かの理由で旅に出る。そこで異界に迷い込む。中入りを挟んで、後場は死後の世界、死者となったものが亡霊や幽霊の姿で登場し(姿を見せなくてもいい)、自分が死んだ理由や思い残したことなどを語る。(2018年12月5日)

参考文献

安田登『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)

加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫)