22 オーディオの話……③
ツーバイフォーが売り物のモダンな住宅メーカーでも、家を建てるときには神主を呼んで地鎮祭をやるようだ。やっぱり八百万の神々の国なんだなあ。ぼくたちは呪術に弱い、ということで庭に2メートル四方の鉄板を埋めることになった。
「何かのおまじないですか」
「そのようなものです」
「埋める場所はどこでもいいんですね」
「いいそうです」
「わかりました。なんとかしましょう」
……今年の一月にここまで書いたところで、ぼくの興味はどこか他のところへ行ってしまい、書きかけの文章がそのままになった。家の新築を機にオーディオルームをつくる話である。サラウンドを導入するためにLinnのお店を訪れ、オーナーのDさんと運命的な出会いを果たす、というのが前回までの内容だ。その「Dさん」こと大黒昌治さんが8月30日の未明に亡くなった。奥様から電話をいただいたとき、ぼくは家内の実家がある人吉に墓参りに行っており、つぎの日も鹿児島へ行く予定が入っていたため通夜にも葬儀にも出席できなかった。あまりにも急な訃報に放心状態のまま南九州をさまよった。
地中に2メートル四方の鉄板を埋めるというのは大黒さんの提案である。アースをとってオーディオに送り込む電流からノイズを取り除こうという作戦だ。ぼくは魔除けのために生贄として人や犬を埋めた中国の古代王朝を思い起こした。それで実際に音が良くなったのかどうか確かめる術はない。大黒さんの人柄と音にたいする信念に惹かれたぼくは、言われるままに鉄板を埋めた。いまも庭のどこかに埋まっているはずだ。ひょっとしてノイズだけでなく、ぼくの家族に降りかかる魔を取り除いてくれているのかもしれない。
オーディオにかんして大黒さんから学んだことは多い。そのころぼくはインシュレーターなどのオーディオ・アクセサリーに凝っていた。お金をかけずに音の表情が変わるのが面白かった。Linnを導入するとさっそくアンプとプレイヤーの下にも敷いた。それを見た大黒さんが、「一度外してそのままの音と聴き比べてみてください。どうしても不満があると感じられたら、もとに戻してください」と言われた。ぼくは自分の不明を恥じた。音源に入っているもとの音を聴かずに、最初から音に色付けしようとするのは邪道である。大黒さんの音のポリシーは、演奏者と録音技師が入れた音をできるだけ脚色せずに聴くということだった。彼が追及したのは自然で聴き疲れしない音だった。ぼくがいま聴いている装置はそういう音になっていると思う。
音楽の話、映画の話、写真の話、絵画の話、書の話など、大黒さんがうちに来られるたびに芸術談義であっという間に一時間くらい経ってしまう。どんなジャンルにも独自の世界をしっかりもっておられたので、話をするのが楽しかったし、勉強にもなった。とにかく自分の目と耳と感性を大切にされる方だった。批評家の受け売りなどは一切なかった。そのため演奏家などについては、ぼくと好みの合わないところもあった。でも、そうやって自分の好みを確認できる機会は大切なものだった。
こんな感じで年に一回か二回ほど往診してオーディオの面倒を見てもらう関係が、15年ほどつづいたことになる。修理済みの機器を持って来宅されたときは、かならずオーディオの微調整をしていかれた。いつだったかノラ・ジョーンズのCDをリファレンスしながら、一時間ほどかけてスピーカーの位置を調整されたことがあった。巻き尺で壁からの長さを測りながら、ほとんどミリ単位で微妙に動かしている。「もうそのへんでいいですよ」と声をかけたいところだが、大黒さんは創作に打ち込む画家のように作業をつづけられた。ぼくがものを書くのと同じように、オーディオのセッティングひとつが表現なのだということがよくわかった。「これでよし」ということで、ぼくたちはソファに並んでノラ・ジョーンズを聴いた。ベースとヴォーカルが前面に出て、調整前の音からすると明らかに臨場感が増している。以来、ぼくは奥さんに「掃除のときなんかにスピーカーの位置を動かしちゃだめだよ」と言ってある。
最後に作業をお願いした去年の10月、プロジェクターの調子が悪くなったときだった。その際に、手ごわい病を得ているという話をお聞きした。抗がん剤を使って治療中とのことで髪が薄くなり、首のリンパ節が少し腫れていたが、お元気そうだった。作業はかなり面倒なものになった。Linnがプレイヤーの製造だけでなく修理もやめてしまったので、いま使っているユニディスクSCが壊れたらどうしようもない。そこで代替機としてoppoのプレイヤーを導入してもらうことになった。ところがppoはオーディオ部門から撤退していて、すでにプレイヤーは製造していないことがわかった。大黒さんは早々にヤフオクで中古を入手して設置してくれた。
かなり複雑なシステムを組むことになったので、その後も何度か調整に来てもらう必要があった。幸い、治療がうまくいっているようで、連絡をするたびに快く往診を引き受けてくださった。日記を見ると最後の来宅は今年の1月21日である。このときはプロジェクターとNASの調整をしてもらった。その後はメールでご挨拶をするくらいだった。7月に新潮新書から本が出たのでお送りしてみた。すぐにメールでお礼が来た。なんとブログに連載していたものを読んでいただいていたらしい。「これ知ってる! 既視夢みたいな思いで嬉しくなってしまいました」とあった。「2週間前から病状が悪くなってきたのでまた病室に戻っています。病気との戦いというより、薬との戦いの様相が濃くなってきた入院生活ですがスタッフの皆さんに支えられて比較的快適に過ごせております。」
日付は7月26日になっている。それから約一ヵ月後に届いた訃報だった。最後においでいただいたとき、大黒さんはご自身のハードディスクのデータをぼくのNASに移してくれた。いまでは形見みたいになってしまった。そこに収められた音楽を聴きながら、大黒さんのことを思い出している。クラシック、ジャズ、ロック、ボサノヴァ、歌謡曲……あらゆるジャンルの音楽が入っている。まったく興味のなかった森山良子なんかも入っている。
「コンディションのいいオーディオで『さとうきび畑』を聴いていると、本当に涙が出てくるんですよ」
今夜も大黒さんの魂が宿るオーディオで森山良子の「さとうきび畑」を聴く。涙と一緒に大黒さんが出てきてくれるといいんだけどな。(2019・9・1)