小説のために(第八話)

小説のために
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円空仏も木喰仏も、多くの人の手に触られ、つるつるになったり、すり減ったりしているものが多いという。距離を置いて眺めるのではなく、手で触って感触を楽しむ仏像。親しみがあって身近。村人が具合の悪いときに借り出し、枕元に置いてお祈りをしたとか、少しずつ削って薬代わりに飲んだといった話も伝わっている。ヒーラーでもあり医薬でもある仏像。削った仏師も、削られた仏像も本望だろう。
木喰の笑う仏像を評して「微笑仏」と呼んだのは柳宗悦である。谷川俊太郎の詩にも微笑仏を思わせるものがたくさんある。見ている(読んでいる)こちらが、思わず微笑みを誘われる。「みな人の こころをまるく まん丸に どこもかしこも まるくまん丸」という木喰の歌が残っているが、谷川さんの詩にもありそうじゃないですか。彼の詩は芸術というよりは民芸に近いのかもしれない。木喰の仏像のように触れられることを望んでいる。心を豊かにしてくれる玩具として、子どもとも老人とも戯れて、つるつる、ぼろぼろになっていく。そんな詩があるといいな。

あいしてるって どういうかんじ?
ならんですわって うっとりみつめ
あくびもくしゃみも すきにみえて
ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
みせびらかして やりたいけれど
だれにもさわって ほしくなくって
どこかへしまって おきたいかんじ

あいしてるって どういうかんじ?
いちばんだいじな ぷらもをあげて
つぎにだいじな きってもあげて
おまけにまんがも つけたいかんじ
(「あいしてる」)

思わずにやにやしてしまう。木喰の微笑仏にたたずまいが似ている気がしませんか? 観念や知識で書かれた詩という感じがしない。無垢であり、イノセントである。人を好きになることの手触りや肌触りが伝わってくる。それが詩のリアリティになっている。
子どもの感覚で書かれているけれど、大人の体験も入っている。「あくびもくしゃみも すきにみえて」とか、「みせびらかして やりたいけれど/だれにもさわって ほしくなくって」といったあたりは、甘いも辛いもわきまえた大人だけが知っている「機微」ですな。その大人は、もちろん詩人とか芸術家とかインテリといった特権的な者ではない。どこにでもいる普通の人だ。普通の人の感覚だから、普通の人に普通に伝わる。誰もが「そう、そう」と思う。きみもぼくも、心地よく頷かされてしまう。平易な言葉で書かれた詩の力である。
この頷きの意味を、もう少し考えてみたい。まず「愛する」ということが特定の年齢、現在という一点ではなく、小学生くらいの子どもから八十や九十の爺さん婆さんまで、人の生涯の幅のなかでとらえられている。だから頷きに重みと奥行きが伴う。「そう、そう」のなかには遠い日の恋の思い出が、切なさや苦味が含まれている。もう一つ、「ぺろっとなめたく なっちゃうかんじ」も「どこかへしまって おきたいかんじ」も、どれも「そう、そう」なんだけれど、これらをいくら連ねても「あいしてる」って「かんじ」そのものには届かない。この届かない感じ、言葉で言い尽くせない感じが出ていて、そこでも「そう、そう」と激しく頷いてしまうのである。
そうなんだよ、どんなふうに言ってもうまく言えないんだよな、という諦観にも似た首肯。ぼくの表出する言葉は、「あいしてる」ってことを、まるごと包み込んでしまうことはできない。それは「あいしてる」という体験が、ぼくという一人称をはみ出しているからだろう。むしろ「あいしてる」という体験のなかに、ぼくたちが包まれていると考えたほうがいいのかもしれない。
届かないからこそ届きたいという狂おしい情動。物心ついてから八十や九十の爺さんや婆さんになるまで生きるなかで、「あいしてる」という体験こそが最上にして最善のものと信じられる。誰に教えられたわけでもないのに、人生のいちばん美味しいところを、人は誰もが生まれながらに知っている。だからぼくたちは思慮分別もなく「あいしてる」という体験に突進していくわけだし、また「あいしてるって どういうかんじ?」をめぐる詩を読んで、説明や理屈抜きで瞬時に深くわかってしまうのである。
あいしてるって、どういうかんじ? そうだね、うまく言えないけれど、とってもいい感じ。この「いい感じ」は、どうやら私利私欲を離れたところから来ているらしい。だって「いちばんだいじな ぷらもをあげて/つぎにだいじな きってもあげて/おまけにまんがも つけたいかんじ」なのだからね。平易な子どもの言葉で書かれているけれど、「やられた!」と思う。さりげない言葉が、ぼくたちの生の核心をついている。利己的なあり方からは遠い場所を生きてしまうこと。倫理でも強制でも規範でもなく、自ずとそうなってしまうこと。それが人を好きになること、「あいしてる」という体験の本質にあるものだ。
私利私欲を離れ、自分を離れ、自己や自我から遠いところで、思わずぺろっとなめたくなっちゃう。この「いい感じのもの」を誰もが生まれながらに知っている。だから伝わるのだろう。「いい感じのもの」が損なわれることなく、「いい感じ」のままに伝わって共有される。「いい感じ」を通して人と人がつながる。芸術とは、表現行為とは、そういうことではないだろうか。
ある詩を読んで、ある絵を見て、ある音楽を聴いて、「いいなあ」とか「美しい」とか「心地よい」とか感じるのは、それらの芸術表現が、いわば自己や自我が漂白されたところへぼくたちを連れ出してくれるからだろう。自分から遠く離れた場所で、自分という同一者が精一杯の応答をしようとして、「いいなあ」とか「美しい」とか「心地よい」といった感情を喚起させるのかもしれない。すぐれた芸術表現に触れたときに生まれる感情には、利己的なものは含まれていない気がする。(2017.7.16)