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29『源氏物語』の勉強

 9月に「ぼくの資本論」を書いて、つぎは「ぼくの源氏物語」を書こうと思っているうちに、いつの間にか12月になってしまった。『資本論』を通読したのは十代の終わりだったと書いたけれど、『源氏物語』も全巻を通して読んだのは二十代の終わりごろ。奥さんが持ってきた本のなかに、中央公論社から出ていた新書版の谷崎源氏があり、全10巻で別巻が1冊付いている。これを毎日少しずつ読んだ。

 新書版とはいえ箱入りのきれいな装丁で雰囲気がある。いまでも数ある現代語訳のうち、谷崎さんの訳がいちばん好きかもしれない。言葉に気品があり、雅な宮中の薫りが漂ってくるようだ。新書版は活字が小さくて老眼が進んだ目には辛いので、何年か前に奈良の古本屋さんで「愛蔵版」の中古本を見つけて購入した。こちらは全5巻。装幀も製本もさらに豪華である。安田靫彦、奥村土牛、前田青屯らによる挿画も素晴らしい。いまはこれだけの本は作れないだろう。中央公論社の社史に残る出版物だと思う。昭和36年の刊行で定価は700円。安い!

 とはいえ、いまの学生さんたちに谷崎源氏は少し難しいかもしれない。谷崎さんの現代語訳が、ぼくたちには半分古文みたいに感じられるからだ。漢字は旧字体で歴史的仮名遣いになっているのもネックだ。話は前後するけれど、ときどき大学で学生さんたちに『源氏物語』の話をするときには、専用の机を用意して勉強していく。原文と各種ある現代語訳を比較対照しながら読みたいので、どうしても机が一つ必要になるというわけだ。

 そこで学生さんたちに、誰の現代語訳で読むのがいいかとたずねられたら、ぼくはとりあえず講談社から出ている瀬戸内寂聴さんの訳を勧める。まず現代語として言葉が明快である。解説も充実している。ちょっと作者の主観が出過ぎているかもしれないけれど、物語の流れをとらえるのにはいちばんいいと思う。出過ぎているどころではないのが円地文子の訳である。これはもう現代語訳というより、彼女の創作と言ったほうがいいくらいで、面白さでは随一かもしれない。例として「桐壺」から、帝の寵愛を一身に受ける桐壺更衣が、他の女御更衣たちの神経を逆なでしてしまうという場面を見てみよう。まずは原文をあげてみる。

 御局は桐壺なり。あまたの御方々を過ぎさせたまひて、隙なき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。(小学館『日本文学全集』)

 この簡潔なくだりが、円地訳では女たちのどろどろした情念を「これでもか!」とばかりに書き込んだものになる。

 御所でのこの方の賜っているお住居は桐壺であった。帝のお常御殿である清涼殿からは遠く離れた東北の隅に当る。多くの女御更衣の住まっていられる部屋々々の前を素通りなさって、帝が桐壺にばかり通っていらっしゃることが終始のようであってみれば、その道筋の御簾の陰に凝っと身をひそめ、息を殺している女人たちの眠っているような細い眼の芯に眸がどんなに妖しく玉虫色に燃え立っていたか。ふくらんだ御簾竹の黄色い小暗さを押して葡萄染や蘇芳、萌黄などの色濃い織物が、長い黒髪にまつわられ、涙に滲んでどんなに気味悪くうごめいていたか。思えば無理もないことと言わねばならぬ。(新潮社)

 す、す、すっごい! はじめて読んだときにゾワッとしましたね。「眠っているような細い眼の芯に眸がどんなに妖しく玉虫色に燃え立っていたか」とか「涙に滲んでどんなに気味悪くうごめいていたか」とか、こういうイメージで読み込んでいたのか、と淡白な草食系男子であるぼくなどは思わず腰が引けてしまう。といった具合で、現代語訳の読み比べは面白いのです。

 では最後に、光源氏の台詞を一つ、いろんな訳で読んでみよう。「雨夜の品定め」で有名な「帚木」から。翌晩、源氏は方違えに紀伊の守の邸へ行き、紀伊の守の父の若い後妻である空蝉と出会う。彼女を抱きかかえて奥の部屋に入ると、障子を閉め切って侍女に言い放つ。

「暁に御迎へにものせよ」(原文)
「夜明けにお迎えに来るがいい」(与謝野晶子訳)
「明け方お迎えに参るがよい」(谷崎潤一郎訳)
「朝になってから、お迎えに参れ」(円地文子訳)
「明け方お迎えに来なさい」(瀬戸内寂聴訳)
「夜が明ける頃、迎えにきなさい」(角田光代訳)

 どうです? こういう緊迫した場面は、やっぱり切れのいい原文で読みたいですね。ではまた。

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