第2回 語り手

九産大講義
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 これから数回にわたり、小説の構造について少しお話します。一般に小説と言われているものが、どういった要素によって成り立っているかということですね。いろいろな説明の仕方があると思いますが、この授業では語り手、空間、それに時間という三つの要素についてお話します。空間、時間というのは作品の空間、作品の時間ということです。今日は語り手についてお話して、空間と時間については次回の授業で取り上げます。
 まず語り手です。語り手が物語をつくっていく。これが小説のいちばん大きな特徴と言ってもいいと思います。作者がいて、語り手がいて、主人公(登場人物)がいる。この三者の関係が、さまざまなスタイルの作品を可能にします。本当に、個々の作品がみんな違っているというくらい、多様な小説の世界をつくり出すことができるのです。
 具体的に幾つかの作品を見てみましょう。

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見し た。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどく細かった。(フランツ・カフカ『変身』高橋義孝訳)

 この作品では、作者はフランツ・カフカです。主人公はグレーゴル・ザムザ。ここまではいいですね。では作者と語り手は別なのか? 別です。作者が語っていると考えてはいけないのか? いけません。もしそう仮定すると、作者は嘘つきだということになってしまいます。目を覚ましたら大きな虫に変身していた、というような話は、作者と語り手がきちんと分離できているから書けるのです。作者とは別の語り手を設定することで、どんな荒唐無稽な話も、不道徳な話も書ける。また宇宙の果ての話や、数千年後の未来の話も書ける。つまりフィクションが可能になるわけです。 

 長いこと私は早めに寝むことにしていた。ときにはロウソクを消すとすぐに目がふさがり、「眠るんだ」と思う間もないことがあった。ところが三十分もすると、眠らなくてはという想いに、はっと目が覚める。いまだ手にしているつもりの本は下におき、灯りを吹き消そうとする。じつは眠っているあいだも、さきに読んだことをたえず想いめぐらしていたようで、それがいささか特殊な形をとったらしい。(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』吉川一義訳)

 これも有名な冒頭ですね。この場合は作者と語り手が非常に接近しています。ほとんど重なり合っていて、作者が自分のことを語っているんじゃないかと感じられます。つまり自伝的な要素が強い作品であると推測できるわけです。もう一つ、有名な作品の冒頭をご紹介します。

 幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
 オブロンスキー家ではなにもかもが混乱してしまっていた。妻は、夫がかつてわが家にいた家庭教師のフランス婦人と関係していたことを知って、もうとてもひとつ屋根の下で暮らすことはできないと宣言したのだ。こうした状態はもう三日もつづいていて、当の夫婦はもちろん、家族全員から召使いの末にいたるまで、それを痛感していた。
(トルストイ『アンナ・カレーニナ』木村浩訳)

 最初の段落、なるほどって思うでしょう。そうかもしれないなって。いかにも名作の書き出しという感じで、短い文章だけど風格があります。でも、この箇所は作者の考えをそのまま表明したものじゃないか? トルストイの肉声がそのまま作品に出ているんじゃないか、というふうにも読めます。次の段落からは普通の語り手のトーンになります。最初の段落は、作品の前に置かれたエピグラフみたいなものと考えたほうがいいかもしれません。ちょっと勿体ぶった感じですね。
 一般には作者が作品のなかに顔を見せるのは、あまり品が良くないというか、慎むべきことだと考えられています。作品の調和を乱したり、読者を興ざめさせたりしますからね。一つ例をあげます。

 単純な一青年が、夏のさかりに、生まれ故郷のハンブルクからグラウビュンデン州のダヴォス・プラッツにむかって旅だった。ある人を訪ねて三週間の予定の旅であった。(中略)
 ハンス・カストルプは……これが青年の名前であったが……膝かけにくるまり、ねずみ色のクッションを張った小さな車室にただ一人こしかけていた。(中略)
 旅に出て二日もたつと、私たち人間は、とりわけ生活がまだ根をしっかりとおろしていない若いころには、私たちが日ごろ自分の仕事、利害、心配、見こみなどと呼んでいたすべてのもの、つあり、私たちの日常生活から、遠のいてしまうものである。(中略)
 ハンス・カストルプもそのような経験をしたのであった。
(トーマス・マン『魔の山』関泰祐・望月市恵訳)

 ブロック体のところは、作者が作品のなかに顔を出して、解説したり講釈を垂れたりしているところです。なんか目障りな感じがしませんか? もう一つ見てみます。
 
 一八四〇年九月十五日、朝の六時頃、出帆間際のヴィル=ドゥ=モントロー号がサン=ベルナール河岸の前で、もくもく煙のうずを上げていた。
 人々は息せき切って駆けつけた。樽や索や洗濯物の籠などが往来を邪魔している。水夫たちは言葉をかけられても返事をしない。人同士ぶつかりあった。荷物が二つの外輪覆のあいだに積まれてゆく。そうした騒がしい物音が鉄板から吹き出す蒸気の音にかき消され、その湯気はあたりをすっかり白っぽい靄でつつんでいた。一方、船首では号鐘がひっきりなしに鳴っている。
 やがて、船が出た。そして倉庫や材木置場や工場の並んだ両岸が、二条の幅広いリボンをくりひろげるように走りだした。
 髪を長くした十八歳の青年が一人、写生帳をかかえて、身動きもせず、舵のそばにたっていた。……
(フローベール『感情教育』生島遼一訳)

 こちらはすごくすっきりしていますね。作者のフローベールが確立した「三人称客観描写」と呼ばれるものです。語り手は語りに専念して、目に見えない存在になっています。ナレーションをやっているわけですが、声に個性がありませんね。非常にニュートラルな、ドキュメンタリー番組のナレーターみたいな声を想像してしまします。小説的現実に異質なものを持ち込まないという、一つのモラルというか、美意識なんですね。
 もう一つ、フローベールの作品に特徴的なのは、語り手がカメラとして機能しているということです。段落が変わっているところは、映画でいうとカットが変わっています。わりと短いカット割りで一つのシーンを撮っているわけです。最初は遠くから港の情景を撮っています。つぎに少しカメラが寄って、慌ただしい出帆の準備が描かれます。再び船の遠景。最後にカメラがぐっと近づいて主人公を捉える、といううまい演出です。
 『変身』とはずいぶん違うでしょう。カフカの場合は一つのシーンをワンカットで撮っています。しかも室内ですから、カメラの位置はあまり変わらない。ただ「頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える」というところはカメラが対象に寄っていますね。
 語り手ということを意識して小説を読むと、その作品の別の面が見えてきて面白いと思います。資料をお配りしますので、もう少しいろんな作品の語り手を見てみましょう。

(資料:ヘンリー・ミラー『北回帰線』、ドストエフスキー『罪と罰』、ミシェル・ビュトール『心変わり』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』、マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』)

2016.10.19 九州産業大学