15 マイクロソフト
朝8時ごろに起床。テントのなかで昨夜の残りのチーズなどを食べて朝ごはんにする。コーヒー・メーカーが置いてあり、淹れたてのコーヒーが飲めるのがうれしい。10時に出発してシアトルをめざす。途中、デヴィッド・リンチ制作のテレビシリーズ『ツイン・ピークス』のロケ地として有名な滝(Snoqualmie Falls)を見学。オープニングでアンジェロ・バダラメンティの印象的なテーマ曲とともに映る滝だ。FBIのクーパー捜査官(カイル・マクラクラン)が泊まる「Great Northern Hotel」もサリッシュ・ロッジ(Salish Lodge)として実在している。ドラマは寒々とした冬の光景ではじまるが、7月のいまはすっかり夏の装いで観光客も多い。
近くのインド料理店でカレーを食べて、30分ほど走るとシアトルだ。昼過ぎにはレドモンド(Redmond)のマイクロソフト本社に到着する。ちょっと歴史を遡ってみよう。ビル・ゲイツとポール・アレンがニューメキシコ州アルバカーキにマイクロソフトのオフィスを開設したのは1975年のこと。ぼくは高校2年生で、さすがにビル・ゲイツの名前もマイクロソフトという会社も知らない。ところでアルバカーキといえばアマゾンのジェフ・ベゾスが生まれた街だ。そして1975年はニール・ヤングの名盤『今宵その夜』が発売された年である。アルバムに収録された「アルバカーキ」という曲を、ぼくは毎日のように聴いていた。
サンタ・フェへまでは90マイルたらず
一本きめる時間はあるよな
それから車を借りてアルバカーキへ
ずっとすっ飛ばしてきたけれど
孤独に飢えていたんだ
大騒ぎから抜け出して 懐かしいアルバカーキへ
奇妙に因縁めいた町から、現在のコロンビア州にマイクロソフトのオフィスが移ったのは1979年のことだ。そのときに建てられたビルが残っている。1980年代にはIBMが開発したパーソナル・コンピュータ用のオペレーション・システム(OS)として「MS-DOS」を発表し、これが後のWindows3.0へ移行する。1990年にWordや Excelを搭載した 「Office」を発表。このころからマイクロソフトやビル・ゲイツの名前がしばしば日常会話に登場するようになる。ぼくとマイクロソフトとの付き合いもWindows95からで、「ワードは頭が悪い」などと言いながらいまでもお世話になっている。
そのマイクロソフトは最近(2019年1月)、本社を置くシアトルで5億ドル(約540億円)規模の住宅整備支援を進めていくと発表した。アマゾンやエクスペディアなど新興IT企業が本社を置くシアトルでは、近年、住宅価格の高騰が問題になっている。二年前に訪れたサンフランシスコやシリコンバレー周辺でも同じ問題に頭を悩ませていた。今回、マイクロソフトは投資予定の5億ドルのうち、約2億2500万ドルを中所得者向け住宅の保護また建設に、約2億5000万ドルを低所得者向けに充てるという。残りはホームレス支援団体などにたいする助成金として使われるらしい。
まあ一種の社会保障である。それを国ではなくマイクロソフトという企業が自主的に行うところが面白い。今回の旅を計画してくれたHさんは、しばらく前までマイクロソフトの本社に勤めておられた。彼の口利きでビジター・パスを発行してもらい、一般の観光客は入れない社内を見学させてもらった。なんだか大学のキャンパスみたい。最近の大学は学生集めのためにキャンパスを整備し、きれいな庭園を造ったり、おしゃれなカフェやレストランを備えたりしている。緑に囲まれたマイクロソフトも明るく清潔で健康的だ。屋外には芝生や噴水やカフェがあり、広いフードコートやコンビニ、自転車屋まである。きっとサラリーもいいし福利厚生も充実しているのだろう。そして寛容性と多様性。ここではアジア系やアラブ系など、さまざまな人種の人たちが働いている。頭にターバンを巻いた人も何人か見かけた。
こうした文脈のなかに住宅支援がある。経営トップは政府の機能を肩代わりしようなどと考えているわけではない。彼らはビジネスのことだけを考えている。会社がヘッドクォーターを置く街のコミュニティは健康的に維持されなければならない。そのために住宅は必須の条件である。なぜ健康的なコミュニティなのか? もちろん人集めのためである。IT企業の盛衰を左右する優秀な人材を呼び寄せるためである。貧困と犯罪にまみれたダークな街では誰も仕事をしたくない。こうしてビジネスがおのずと公共性を帯びてくる。ビジネスと公共事業の境界が消えつつあると言ったほうがいいかもしれない。お金儲けを最優先に考えると、結果的に企業が国家の肩代わりを果たすことになってしまう。そこが面白いと思うのだ。
国家がやっていたことを、マイクロソフトやアマゾンやグーグルのようなIT企業が肩代わりしてやるようになる。現在でもグーグルの検索サービスやアマゾンの配送サービスなどは、無料で利用できるという点でほとんど公共サービスに近い。他にもIT企業が無償で提供しているサービスはたくさんある。最低限の生活保障がリアル・マネーではなく企業サービスとしてなされるなら、実質的にベーシックインカムと同じである。フィンランドが実験的にやっていたように、ベーシックインカムを政府が国民に施す所得補償の類と考えるとうまくいかないだろう。なぜなら補償の財源が税金だからだ。それは基本的には、これまでの再配分の仕組みと変わらない。新しいシステムとして機能するためには、自律性や持続性を備えていることが必要だ。
たとえばアマゾンのようなネット通販を手掛ける会社にとって、物流や配送は事業を拡大するうえで大きなネックだ。近い将来、彼らはウーバーなどの仕組みを使って問題を解決する可能性が高い。働きたい人は会社と契約を交わし、専用のアプリを使って空いた時間で仕事を請け合う。スマホに転送されてきた情報を見て、指定された時間に店に行き、品物を受け取って注文した人に届ける。こうして労働は「余暇」を使ってなされるものになる。最初は時給20ドルとか15ドルとか貨幣のかたちで報酬が支払われるだろうが、いずれはアマゾンが発行するトークン(仮想通貨)が使われるようになるだろう。この仮想通貨を使って、家や車を含めて衣食住に必要なものはすべてアマゾンで調達する。つまりアマゾンという一企業がネット上に独立した経済圏をつくってしまうわけだ。
もちろんアップルやグーグル、マイクロソフトなどもそれぞれに独自の通貨を発行して自分たちの経済圏をつくっていくだろう。営利目的の企業だけでなく、社会貢献活動や地方創成プロジェクトを運営するNPOなどが仮想通貨を発行し、人々の時間や善意を可視化していく。インターネットやブロックチェーンなどのテクノロジーを使えば、たちまち無数の経済圏が生まれるだろう。その幾つかに所属してぼくたちは生きることになる。自分の個性や嗜好や欲求にふさわしい組み合わせを選んで、自分で生活を組み立てていく。
日本の現状を見ても、知性も品位もない政治家たちに何かを期待するのはもはや無理である。彼らを好き勝手にのさばらせておくのは業腹だが、それをなんとかしようとするよりも、さっさと見切りをつけて別のことを考えたほうがいい。連日のように目にする政治家たちの醜態は、議会制民主主義という代理人型社会の末期症状と見るべきだろう。未来に生きるぼくたちは、新しい社会形態と経済の仕組み、国家や政治の先にあるものを考えたい。
ぼくの『世界の中心で、愛をさけぶ』という本は300万部ほど売れたらしい。初版は8000部で、宣伝らしい宣伝もせずに口コミで広がったと聞いている。そのとき思ったことは、最初に手に取って小説を読み、まわりの人に熱心に勧めてくれた読者に感謝の気持ちを伝えられないだろうか、ということだ。いまはこんなことを考えている。「セカチュウ」という仮想通貨を発行する。1セカチュウ=1円で現実のお金に替えることができる。これを100セカチュウずつ、ぼくのブログにコメントを寄せてくれたり、電子書籍を買ってくれたりするコアな読者100人に贈与する。経費の1万円はぼくが負担する。100セカチュウをもらった人は、100円に換金して使ってもいいけれど、親とか恋人とか会社の同僚とか、自分の好きな人や感謝の気持ちを伝えたい人に贈与することもできる。その際にあと100円出して、200セカチュウとして贈与してもいい。まあ、バレンタインの義理チョコみたいなものだけれど、「セカチュウ」という仮想通貨に付加価値が付けば、これはこれで面白い贈与経済のモデルになるかもしれない。
最初のぼくの出費は1万円である。もちろん10万円でも100万円でも、各自の懐具合でやってもらえばいいのだけれど、大切なことは自分の発行する仮想通貨が、いかなる価値を可視化しようとしているか、ということだ。たんなる善意や好意、信頼、信用では弱い。できれば世界でただ一つの価値を発掘したい。それこそクリエイティブな仕事になるだろう。遠からずAIに凌駕されてしまうらしいぼくたちは、そういうことに精を出せばいいのではないか。政治や経済など、人間社会をうまくまわしていくための仕事はAIにやってもらう。人間の生存に必要なプロダクトもAIに生産してもらおう。ぼくたちはベーシックインカムのような仕組みをうまく利用して、必要最低限の生活費を得ながら「未知の価値」を発掘していく。見つけた価値を可視化し、流通させていく。そのためのトークンを自分たちで設計する。トークンを贈り合うことによって、70数億の「遠いともだち」とつながっていく。
現在は国家が消えていく過渡にあると思う。やがて貨幣経済や資本主義は人が生る世界の一部分になるだろう。国家はいまの感覚でいえば行政区画のようなものになる。アメリカや中国という市があり、イギリスやフランスやドイツという町があり、日本やインドやサウジアラビアといった村があるという感じだ。すでに国家も国民もリアリティを失いつつある。現にぼくたちはアマゾンで買い物をしたり、グーグルで調べ物をしたり、フェイスブックやツイッターで交流したり、ユーチューブで動画を観たりすることに多くの時間を費やすようになっている。暮らしそのものがリアルな国家や国土よりも、ネットのようなヴァーチャルな空間に重きを置くものになっている。国家や貨幣や資本主義は否が応でも相対化されていくはずだ。
こうした流れに仮想通貨が拍車をかけるだろう。少し歴史を巻き戻してみよう。いまから半世紀ほど前、1971年のニクソン・ショックによって金本位制が終了する。それまでは1945年に発効したブレトン・ウッズ協定が世界経済を統制していた。これは1オンス=35USドルによる金兌換が、各国の中央銀行が発行する紙幣の価値を支える仕組みだった。ブレトン・ウッズ体制が終結したあとは、法定通貨の価値を保証するのは主要国の信用のみとなった。その国家が信用を失いつつある。国家そのものがメルトダウンするかもしれないのだ。紙幣はいつ紙屑になってもおかしくはない。ギリシャやキプロスの例もある。自分の大切な財産を、そんな信用ならぬ状態で所有しておくのは心配だ、と考えた人たちが仮想通貨を発明した。
ポイントは「国家は信用できない」とか「資本主義の耐用年数が尽きようとしている」と多くの人たちが考えはじめていることだ。彼らは沈没する船から逃げ出すネズミのように国を捨て、新しい経済の仕組みをつくろうとしている。わかりやすいのは難民だが、自己資産を貨幣以外の形態に移しつつある人たちも、やはり経済圏における難民ととらえることができる。彼らは国家を超える信用を求めている。ジョージ・ソロスのような大富豪はセイフ・ヘイブン(安全資産)とされる金を買い漁っている。経済音痴のぼくでさえ紙幣は当てにならぬと思い500円玉貯金をはじめたくらいだ。もう少し経済に明るく、なおかつ先見の明がある人たちは、仮想通貨による資産の保全や運用を考えているのかもしれない。
アップルやアマゾンやグーグルといった企業にたいする信頼や好感は、多くの人たちにとっては国家を超えている。ある価値を共有する人たちのあいだでは、個人の信用が国家の信用を超える場合がしばしばある。端的に宗教がそうだろう。仏教者にとってブッダという個人、キリスト者にとってイエスという個人は、間違いなく国家(の信用)を超えている。だから新興宗教は例外なく弾圧されるのである。いま世界各国がビットコインをはじめとする仮想通貨への規制を強めているのは、多分に宗教弾圧的な側面があるのかもしれない。しかし過去の例を見ても、信仰は国家の介入を超えて広がっていく。たとえばスティーブ・ジョブズを教祖とするアップルが国家を飛び越えて一つの共同体をつくってしまう。イーロン・マスクを教祖とするテスラ教もカルトな共同体になりそうだ。もちろん既存の教団が独自の仮想通貨を発行し、信者たちのあいだで独立した経済圏をつくることはさらに容易いだろう。さすがにキリスト教はいろいろな分派があって大変かもしれないが、天理教とか創価学会くらいのサイズで均質な信者を抱えている教団ならうまくいくのではないだろうか。
もともと貨幣は人間がつくり出した虚構であり、共同幻想である。ユヴァル・ノア・ハラリの言葉では「共同主観的現実」ということになる。国家も共同幻想である。ぼくたちが知っている貨幣(法貨)は国家とリンクしている。つまり虚構と虚構が相互に支え合う構造になっている。このうち国家のほうは、近代に生まれた比較的新しいフィクションである。このフィクションが「現実」として受け入れがたいもののなっている。別のフィクションを多くの人たちが模索するようになっている。
ビットコインをはじめとする仮想通貨は、国家とのリンクから離脱する試みと見ることができる。それは結果的に資本主義や貨幣経済を相対化することになるだろう。こうした離脱や相対化は、ぼくたちが生きている「現実」の拡張を意味している。
「リアル1」: 国民国家、資本主義、貨幣経済
「リアル2」: ネットワーク社会、シェアリング、トークン経済
ぼくたちが生きる現実は遠からず「リアル1」から「リアル2」へ拡張されるだろう。そして「リアル2」がグローバルになり、そのなかで「リアル1」はローカルなものとして残っていく。資本主義的な経済活動は現在の農業みたいなものになる。貨幣は資本主義経済に携わる数パーセントの人たちが使う特殊な媒介手段に過ぎなくなる。大半の人たちはレイヤー化した数多くの仮想通貨かからなるトークン経済のなかで、幾つかの経済圏を選択して生きることになる。それぞれの経済圏はシェアエリングを原理としており、全体としてグローバルなネットワーク社会を形成する。このように考えると、未来はけっして悪いものではない。ただ孤独で寂しいものにはなるかもしれない。なぜなら「リアル2」のなかで、ぼくたちは「国民」や「市民」よりももっとバラバラな、モナド状の「一人」を生きることになるからだ。
代表的な仮想通貨であるビットコインは、デジタル署名のような暗号技術と、ブロックチェーン、プルーフ・オブ・ワークといった仕組みによって安全な取引を実現しようとするものだ。さらに参加者に「マイニング」という経済的インセンティブを与え、一人ひとりの利己的行動によってビットコインの安全性を確保する仕組みを構築している。まるでアダム・スミスだ。スミスは個々の経済主体が利己的動機に基づいて利益最大化を追求することが、結果的に諸国民の富を増大させると考えた。同じようにビットコインも、参加者の利己的動機と利益最大化の行動によって「安全な取引」という望ましい結果がもたらされるように設計されている。
技術的なことはわからないが、概容を見ただけでも、究極の個人主義、「一人」の世界を推し進めたものと感じる。前提にあるのは「相互に信用できない」ということである。なにしろ顔を見たこともなく、名前も知らないと相手と大事な「お金」をやり取りするのだ。人は徹底的に「一人」であること。各自が孤立無援の「一人」として生きることを可能にするシステム。そのようなものとしてビットコインのような仮想通貨は、今後も試行錯誤を重ねながら広がっていくと思われる。
もはや国家は「国民」を維持できない。生命も含めて人々の暮らしを保障しない。人はとことん「一人」でしかない、というひんやりとしたニヒリズムが根底にあるように思う。もともと「お金」という観念は個人主義的な志向性をもつ。それは他人とかかわったり、他人に依存したり、他人の要求を受け入れたりせずに済む生き方を可能にする。おかげで暴力や服従や隷属が回避され、お金(貨幣経済)は近代の市民社会の礎となった。この方向性を、ビットコインは究極まで推し進めたものと言える。それは人々に国民でも市民でもなく、相互に独立した「一人」としての生き方を保証するシステムである。
モナド化した個人を有機的につなぎ合わせる仕組みとして、共有経済(シェアリング・エコノミー)のようなものが構築される。ウーバー(UBER)やエアビーアンドビー(Airbnb)なども、「一人」としての個人を前提としている。つまり「共有」といっても、「一人」という形状が初期設定されているのだ。その上で、有限性を乗り越える一つの方法として、余ったリソースを直接的に共有し合う仕組みをつくろうということだろう。
こうした方向性が悪いものとは思わない。国家を超えることを含めて、仮想通貨に大きな可能性があることは理解する。しかしシェアリング・エコノミーのなかにも排除や格差は生まれるだろう。またトークン経済によって運営されるネットワーク型社会が、代理人型社会や民主主義国家よりも善いものになるという保証もない。下手をすると、現行の国家よりもさらに非人間的なものになるかもしれない。一つの例として考えてみよう。たまにだけれど講演を依頼されることがある。講演料はもらったりもらわなかったりで、まあ平均して数万円としておこう。ヒラリー・クリントンの一回の講演料は数千万円である。こんなふうに個人の時間に値段がつく。個人の時間をトークンとして可視化し、売買する仕組みがつくられるだろう。ヒラリーが一秒一万円とすると、ぼくは二円くらいかなあ……という具合に、70数億人の各自の時間に値段がついていく。
人が「一人」として振舞うことは、生きている時間がすべてデータ化されるということだ。言い換えれば、誰もが70数億人分のビッグデータの端末として生きることになる。これら膨大なデータを処理するのはコンピュータ・アルゴリズムである。コンピュータ同士はインターネットによって結ばれ、クラウド化したAIが「人類」という単一のデータを扱うようになる。果たしてシンギュラリティは来るのか? 来るとも言えるし、来ないとも言える。人類そのものが人類には扱えないデータとなり、その処理をコンピュータ・アルゴリズムに委ねるようになる、という意味ではAIは確実に人間を超える。
一方で「人類」というデータの端末やチップであるぼくたちには、どこまでが自分でどこからがそうでないのかわからなくなる。ネットワーク化したAIに常時アクセスした状態で生きているために、自分の思考や感情や欲望や記憶と、無数のコンピュータ素子からなる超生命体の思考や感情や欲望や記憶を分けることができなくなる。人間とAIとの完全な融合。これが「シンギュラリティ」と呼ばれているものの実相だろう。そのとき「自己」や「私」は時代遅れのもの、特権的な贅沢品になっているかもしれない。自動車社会の到来によって馬が道楽になったように。未来の人間はカタログの上で非常に高価な値段の付いた「自己」や「私」を購うようになるかもしれない。