ゴダールの映画って、日本ではどのくらい公開されているんだろう。半分くらいかなと思って調べてみると、主要な作品はほとんど公開されている。さすがに配給会社はATGとかフランス映画社とかマイナーなところが多いけれど、『中国女』も『東風』もちゃんと公開されている。めぼしいところで落ちているのは、『万事快調』と『勝手に逃げろ・人生』くらいではないだろうか。
ぼくは大学進学の年(1977年)から福岡に住んでいる。人口百万を超える大都市だけれど、ゴダールの映画を通常のスクリーンで観た記憶がない。たいていは映画サークルなどがミニシアターで上映しているものを観ていた。いわゆるシネコンで観たのは、2010年に公開された『ソシアリズム』だけである。首都圏の事情はわからないが、やはりミニシアターでの単館上映がほとんどだったのではないかと推測される。
ありがたいことに、いまはゴダールのほとんどの映画をDVDで観ることができる。作品によってはお手軽な値段で購入できる。『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』といったメジャーな作品だけでなく、ジガ・ヴェルトフ集団期の『ウィークエンド』『東風』『万事快調』なども簡単に観ることができる(しかもHDリマスタリング! 特典映像もついています、ってあたしゃIVCのまわし者じゃないよ)。あとは『映画史』がお安くなるといいな。
というわけで、ぼくのゴダール鑑賞はもっぱらDVD。すなわち自宅のテレビで観るわけだが、テレビは家族が食事をする部屋に置いてある。ところがゴダールの映画、家の者にはきわめて不評である。面白くない、退屈だ、苦痛である、ご飯を食べながら、どうしてこんなものを観なきゃならないのか、といったブーイングの嵐に見舞われる。
なるほど一理も二理もある。ぼくだって面白いと思って観ているわけではないのだ。いや、面白いことは面白い。だから観ているわけだけれど、どういうふうに面白いのかを説明するとなると骨が折れる。とても家人を説得する自信はない。そこで一人寂しく観ることになる。ぼくは週に三回くらい、夜は剣道の稽古に通っている。帰宅は9時ごろで、家の者は食事を終えている。一人で食事をするわけだが、この時間をゴダール鑑賞にあてることが多い。彼の映画は90分くらいだから、たいてい二回に分けて45分くらいずつ観る。すると食事時間にぴったり収まる。みんなどうやって観ているんだろう?
ゴダールの映画は面白くないのか。たしかにそういう印象を与える。これはどういうことかというと、通常の映画鑑賞モードで観ようとすると、わけがわからないということではなかと思う。普通に受け入れることのできる映画では、おそらくないのだ。ぼくたちが「映画」にたいして抱くイメージを軽々と、しかも大幅にはみ出している。
別の言い方をすると、観客が「映画」に期待するものをゴダールの映画は与えてくれない。感動するかわりに寝てしまう人も多い。ゴダール映画の鑑賞方法とも関係するが、何回かに分けて観ても支障がない。少なくともぼくの場合は、十分か十五分くらいずつ細切れに観ても全然困らない。もともとゴダールの映画においては、ストーリーは破綻している。一応、ハリウッドの安っぽい犯罪映画みたいなプロットはあるとしても、それが途中で逸脱し、どこへ向かっているのかわからなくなる。断片をつなぎ合わせて90分にしているようなところもある。
こんなのは映画ではない、と怒り出す人もいるはずだ。ところがゴダールに言わせると、「これぞ映画」ということになる。もう少し謙虚に、自分にはこういう映画しか撮れない、という言い方をすることもある。とにかく作品と、それを観る観客のあいだに、とても大きな齟齬を生じるきらいがある。だから多くの作品で、経費を回収するに足る観客を得ることができず、製作者としては「それで困る」ということで、お金を出したがらなくなる。自ずと低予算で撮られた映画が増えてくる、とゴダールの映画製作事情に思いを致してどうするつもりだ。
映画製作のためにかかったコスト:観客動員数(収益)というバランスシートで見ると、ゴダールの映画は失敗作だらけだ。うまくいったのは『勝手にしやがれ』くらいではないだろうか。にもかかわらず、彼の映画はすべて好きという人が多い。というかゴダールのファンとは、そういう人たちがほとんどではないかと思う。もちろん、それぞれにいちばん好きな一本があるだろう。ベスト3やベスト5を選ぶことも、わりとすんなりできそうだ。
しかしゴダールの作品にかんして、つまらない作品とか、観るに値しない作品というのは、ないような気がする。本人が失敗作と言っているものでも面白い。(ほとんどの作品について、彼は失敗作だと言っているらしい。)これはいったいどういうころだろう?
ぼくがいちばん好きな『気狂いピエロ』について言いうと、映画のなかに氾濫する明るく健康的な色彩のうつろいを眺めているだけでも幸せな気分になる。フェルディナン(ピエロ)とマリアンヌの台詞は字幕で読んでも面白いけれど、何かそんなことを超えた多幸感がこの映画には溢れている。全編に死がばらまかれた、絶望と破滅の映画であるにもかかわらず、観ているほうは元気になる。
服を変え、メイクを変え、つぎつぎに現れるアンナ・カリーナの美しさに呆然とする。息を呑むほど美しいショットが幾つもある。しかも奔放であったかと思うと、つぎのショットでは、映画にも登場するルノワールの少女のように可憐に立ち現れる。これじゃあゴダールでなくても、カリーナに恋しちゃうよ。(実生活のゴダールとカリーナは、すでに離婚寸前だったらしいが……。)ゴダールという人は、こんなふうに女の人を見ているんだ。一人の女性を、衣装やメイクの選択を含めて、これほどいろんな眼差しで見ることができるんだ。そのことに感動する。まるでピカソじゃないか!
ゴダールの映画がどれも観るに値するのは、彼が常に新しい眼差しを提示し、新しいものの見方を発明しつづけているからではないだろうか。しかもご本人は、それを苦もなくやっているように見える。どの映画でものびのびとカメラをまわしている。迷いがない。バシっとアングルを決めて、スパッと撮る。この擬音的な作風が気持ちいい。
こうやってゴダールについて書いていると、ますます彼が好きになっていく。彼の映画が好きになっていく。よし、今夜も観るぞ。