21世紀の自由・平等・友愛

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 森崎茂さんとつづけている連続討議が4年目に入った。二週間に一度、熊本と福岡を行ったり来たりして、コーヒーを飲みながら2時間ほど集中的に話をする。男二人、色気のないこと甚だしい。そんなことを丸3年もやっている。お互いよくつづくものだと呆れつつ感心している。
 討議の内容は、一年目の2014年分は緊急討議『ことばの始まる場所』(第一回~第六回)として、アカシック・ライブラリーの田代真人さんのご尽力により電子書籍化されている。さらに翌年からは、中身をグレードアップした『歩く浄土』として討議を継続、2015年には第一回『人倫のゆくえ』と第二回『性と精神の古代形象』を、2016年には第三回『喩としての内包的な親族』と第四回『内包自然と総表現者』を、やはり田代さんの無償の協力と、加えて世界的な写真家・小平尚典さんから味わい深い写真の無料提供を受け、格調高い電子書籍版として刊行することができた。
 二人の共著のかたちをとっているが、新しい概念を創出し、アイデアを発案し、正確な現状認識を示し、常に討議を先導しているのは森崎さんである。ぼくは主に聞き役で、話の内容を理解し、咀嚼し、整理し、少し説明を補足したりして、一回分を編集・構成して書籍のかたちにすることを自分の仕事と任じている。
 何人くらいの人が読んでくれているのかわからないけれど、たぶん少ないと思う。それはぼくたちの考えることがわかりにくいからである。けっして荒唐無稽なことを考えているわけではなく、誰もが本当に必要としていることを創出・創案しようとしているはずなのだが、まったく未知で未然のものを出現させようとしているので、なかなか伝わりにくいのだと思う。そこで今回は、忙しい時間をやりくりして、ぼくたちがどういうことを話してきたのか、サワリのところだけをできるだけわかりやすく説明してみようと思う。

 これこそ浄土の光景ではないか、いま・ここが浄土そのものではないか、という時間と場所に居合わせてしまうことがある。誰にでもある。ごく日常の、当たり前の体験としてある。あるはずだ。忘れていたり、ぼんやりして気がつかなかったりするだけではないのか。ほんとうに何気ない、ごく些細なこととして、それはある。浄土が、浄土としか思えないものが、ぼくたちの目の前に忽然と現れる。気がつくと、そのなかに包まれている。
 すでに何度か書いたり話したりしてきたことだけれど、わかりやすい例として紹介させてもらう。もう三十年近く前の話である。ぼくのところは男の子が二人で、兄弟とも小学校に上がるまで近くの保育園に預けていた。年度末の移行期に保育園は二、三日休みになる。看護師をしていた奥さんが勤務の日には、ぼくが一日子どもたちの相手をした。小学校の校庭や公園で遊ばせたり、昼ご飯を食べさせたり、午後はしばらく昼寝をさせたり、そんなことをして一日を過ごす。
 そのころは公団のマンションの一階に住んでいた。小さな庭が付いており、庭に面した六畳間を寝室にしていた。布団を敷いて子どもたちを寝かせ、ぼくも横に寝転がった。天気のいい春の日の午後で、障子を透したやわらかな日差しが部屋のなかに伸びている。子どもたちは気持ちよさそうに昼寝だ。彼らの寝顔を見ているとき、突然、「なんて幸せなんだろう」という思いが湧き起ってきた。これ以上の幸せはないというくらいの圧倒的な多幸感だった。
 いま思い返しても、あれこそが浄土だったと思う。あれ以上の浄土はない。あっても意味がない。いくら蓮の花が綺麗に咲いていて、お釈迦様がニコニコ笑っているからといって、だからどうだというのか。子どもたちの寝顔を見ていたあのひとときが、ぼくにとっての浄土だった。あれ以上のものはいらない。必要ない。あのひとときで充分だ。あのひとときに出会えただけで、生まれてきてよかったと思うし、不治の病に斃れるときも、やっぱりそう思うだろう。思いたい。
 そんな話をお酒を飲みながら奥さんにしたら、彼女にもやっぱり似たような体験があるという。彼女はそれを「浄土」とは呼ばないけれど、たぶん同じことを言っているのだと思う。自分の体験を特権化するつもりはない。そもそも誰にとっても、本当に大切な体験は固有のものだから特権化できるようなものではないだろう。ぼくにはぼくの浄土があり、うちの奥さんには奥さんの「浄土」があり、誰のなかにもそれぞれに固有の「浄土」がある。固有のものだから、本当は名づけてはならないし、名づけられないものだけれど、それでは話が進まないので、ぼくと森崎さんは親鸞から言葉を借りて「浄土」と呼んでいる。

 一人ひとりのなかにかならず「浄土」はあるから、誰もが例外なしに「歩く浄土」を生きている。否応なしに生きることになってしまう。このあたりが親鸞の「他力」や「自然法爾」という考え方に通じるところだと思う。
 わかりやすい例を一つ。これも前にも書いたり喋ったりしたことだけれど、映画『タイタニック』を題材にさせてもらう。1912年に起こった有名な海難事故をモデルにしたこの映画で、レオナルド・ディカプリオ扮するジャックは、船で知り合ったローズとともに海に投げ出されてしまう。二人は沈没した船の残骸につかまりながら救助を待つ。しかし愛しい人を助けようとして自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックは力尽き、「きみは生きろ」と言い残して海中へと沈んでいく。
 冷静になって考えてみよう。この二人、出会ってから数日である。なにしろ当時史上最高と謳われた豪華客船は、出航して三日目くらいに、氷山との接触が原因であっけなく沈んでしまうのだ。その間に、二人は運命的な出会いを果たし、身分や境遇をも越えて愛し合う。ジャックは素早くローズの心をとらえ、自殺しようとしていた彼女を思いとどまらせ、婚約者から彼女を奪い、自動車のなかでちゃっかり愛を交わして、最後は自らが犠牲となって冷たい海に沈んでいく。数日前までは見ず知らずだった、赤の他人の女性のために。
 ジャックとローズが投げ出された氷山の浮かぶ冷たい海に出現したものこそ、浄土ではないだろうか。ぼくたちが映画を観て感動したり涙を流したりするのは、浄土の光景を目の当たりにしているからだ。それを「浄土」と呼ぶか呼ばないかはともかく、そのようなものの出現を目撃していることは間違いない。
 まさに人生の神秘である。これ以上の不思議があるだろうか。見ず知らずの赤の他人同士が、まったくの偶然に出会う。そして一瞬にして「きみは生きろ」という場所にたどり着いてしまう。とりあえずの言葉として、「浄土」と言うほかないような場所に。だってそうでしょう? これ以上の「浄土」が想像できますか? たまたま船の上で仲良くなった男女が、船が沈没して冷たい北の海に投げ出される。不運と言えば、これほどの不運はない。だが、その不運極まりない状況のただなかにおいても、「きみは生きろ」と言うことができる。しかも言っているのは、何か特別な修行をして徳を積んだ人間ではない。たかが(と言ってはなんですが)貧乏な画家志願の青年である。
 彼は完全に自発的な、自由な情動によって「きみは生きろ」と言っている。たった一つの出会いが、ごく普通の者に、そのような場所を生きさせる。ここにはまだ未出現の、新しい「自由」のかたちがあるように思う。
 なぜ、人はこんなに自由なのか。それは誰のなかにも「自分よりも大切なあなた」が、無限小のものとしてそっと内挿されているからだ。「自分よりも大切なあなた」が知らぬうちに埋め込まれているから、誰もが自己の表現として、自己よりも自由に振舞ってしまうのだ。ぼくは逝く、きみが生きろ、となってしまうのだ。人間は恐ろしいほど自由である。この恐ろしいほどの自由を、本日をもってここに「21世紀の自由」と名づける。21世紀の資本などと、つまらぬことを言うんじゃないよ、ピケティ。

 誰のなかにも不発弾のように埋め込まれている「自分よりも大切なあなた」が、ある契機によってふくらむとき、どんな状況にあっても、そこにただちに浄土が出現する。契機をもたらすものは幼い子やローズである。すなわち自分以外の者、他者である。広い意味での「他者」、というのは「他者」のなかには音楽や芸術を含めてもいいと思えるから。
 誰のなかにも浄土は、存在しないことの不可能性として内挿されている。別の言い方をすれば、誰のなかにも「自分よりも大切なあなた」が無限小のかたちで埋め込まれている。いわば「浄土の素」が自分のなかにあるにもかかわらず、ぼくたちは自力の計らいによって浄土を出現させることはできない。親鸞のいう「他力本願」とは、あなたまかせということではない。そうではなくて、ぼくたちは誰もが「自分よりも大切なあなた」の表現者として、この世に生を受けている。表現するのは自己だが、その自己は、かならず何か他なるものの表現なのだ。
 誰もがそのように生を受けているということにおいて、万人は平等である。なぜなら「自分よりも大切なあなた」は一人ひとりに固有の者として存在しており、場合によっては、その者はまだ未生であったり未出現であったりするからだ。子どもの場合は、文字通りの未生にして未出現。それがある日、ぽっこり姿を現す。「なんて可愛いんだ!」と思っているのは親だけで、他人から見ればどこにでも転がっているただの赤ん坊に過ぎない。だから昼寝する子どもたちを見て「なんて幸せなんだ!」と感じた体験も、けっして特権化したり一般化したりすることはできない。固有であるとはそういうことで、一つひとつの体験は優劣なく平等である。平等に「かけがえのないもの」としてある。
 誰かを好きになる。たとえばタイタニックの船上でジャックがローズに恋をする。このときローズは、ジャックの眼差しによってはじめて可視化されたと言っていい。少なくともジャックのようにローズを見た者は、それ以前にはただの一人もいなかった。すると人を好きになることは、一つの創作であり創造である。ジャックがいまその場に、「自分よりも大切なあなた」としてのローズを誕生させ、出現させたのだ。同時にジャックは、ローズその人を「自分よりも大切なあなた」として生きる者として、この世界にはじめて誕生し、出現したことになる。この相互性が「表現」である。
 森崎さんは「根源の性」と、その分有者という言い方をしている。根源の性と、その分有者としての生が可能だから、生は常に「歩く浄土」の可能性とともにある。ぼくたちの生は、根源において二人称である。誰もが根源の二人称の表現者である。この「表現者」という場所で、万人は自由であり平等である。そして根源の二人称の表現者として、一人ひとりが自らの自由と平等を行使するとき、人と人は自ずとつながらざるをえない。これが「21世紀の友愛」である。というか、これまで友愛というものは、一度として人間の歴史上に存在したことはなかった。いまはじめて、ぼくたちが「友愛」を定義するのである。規範や強制力によらない友愛を。
 こんなことを森崎さんは、30年近く前からずっと考えている。一人で考えているうちは妄想や錯覚かもしれないが、30年遅れて遠い星の光が届くように、ようやく森崎さんの思考はぼくのもとに届きつつある。まだ不十分だけれど、自分の実感と言葉で、上のようなことを少し言えるようになった。同じことを考えている人間が二人になろうとしている。二人で考えることは、もはや妄想や錯覚ではない。すでに実在であり現実である。やがて二人は三人になり、四人、五人……あとは指数関数的に増えて数億、数十億になる。おお、シンギュラリティ! 地球上が根源の二人称の表現者で溢れかえるぞ。このとき世界は革まる。暴力や強制によらず、世界は自ずと革まる。
 おのずからなる革命の可能性を確信しつつ、その手応えを感じつつ、今年もぼくたちは討議をつづけていく。どうぞ共謀罪に引っかからないように、ひそかな声援を送りつづけてください。(2017年2月1日)