The Road To Singularity Ep.16

The Road To Singurality
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16 ともに味わわれる世界

 マイクロソフト社をあとにしたぼくたちは、ベルヴュー(Bellevue)のトレダー・ジョーで素早く買い物をする。ワイン、塩、はちみつ、コーヒーなど、家族や友人へのおみやげだ。夜はHさん夫妻と中華レストランでご一緒に食事をすることになっている。少し時間があるのでカークランド(Kirkland)のレイク・パークを散策する。フェスティバルをやっているらしく、いろんな店が出ている。午後6時を過ぎても明るい日差しの下で、人々は思い思いに祭りを楽しんでいる。おじさんがギターを弾きながら、CCRの「Bad Moon Rising」をうたっている。たぶんジョン・フォガティと同じくらいの歳だろう。

 天気はいいし咽喉も乾いた。ここはビールといきたいところだけれど、どこにもお酒を売っていない。飲んでいる人も見かけない。屋外や公共の場所で飲んではいけないことになっているらしい。そういえば思い出した。もう十年近く前に、オーストラリアのケアンズへ行ったときのことだ。酒屋でビールを買って栓抜きを貸してくれと言ったら冷たく断られた。缶ビールを置いてないので瓶ビールを購うしかなく、よほど怪力の持ち主ならともかく、エレガントにパソコンのキーを打って暮らしているぼくのような者は栓抜きがないとどうしようもない。「なんだよ、ケチ」と悪態をついたら、喧嘩の強そうな女性店主に血相を変えて怒られた。「あんたたち馬鹿な日本人は公共のマナーを知らないのかい、お酒ってものは間抜け面をさらして外で飲むもんじゃないんだよ、部屋に戻ってからお行儀よく飲みなさい」というわけで、やっぱり道端や公園でアルコール類は御法度らしい。

 こんなこともあろうかと、ぼくたちはキャンプの残りの缶ビールを数本紙袋にしのばせて持ってきている。目立たずに飲めばいいだろう、と公共のマナーとの共存を図りながらハンカチに包んだ缶ビールのプルタブをそっと開けた。健気である。
「乾杯」
 おまけに小声。そうまでして飲みたいのか、と言われれば飲みたいのである。
「富士登山を思い出すなあ」
「何かあったの」
「登りはじめるときに山岳ガイドから、絶対にお酒を飲んじゃあだめだって言われたんです。高山病になるからって」
「よく聞くねえ」
「でも富士山に登ってお酒を飲まないなんて、なんのための登山かわからないじゃないですか」
「人それぞれだろう」
「だからぼくはウィスキーのポケット瓶を持っていったんです」
「飲んだの」
「そりゃあ飲みましたよ。八合目の山小屋で沈んでいく夕日を眺めながら。あれは生涯で最高の飲酒体験だったな」
「どのくらい飲んだの」
「180mlのポケット瓶に安物のバーボンを入れて持っていったのを一日目に半分。翌日、頂上まで行って帰りにもう一泊したときに残りの半分」
「二日で一合? 威勢のいいことを言っていたわりにはいじましいね」
「高山病が怖いですからね」

 それにしてもアメリカ人、屋外でアルコール類を嗜まないのは見上げたものだが、かわりに老若男女がこぞってアイスクリームを食べるというのはいかがなものか。健康にはどっちがいいかわからないぞ。腕に怖そうなタットゥーを入れた無精ひげの兄ちゃんまでうれしそうに舐めている。たしかに平和な食べ物ではある。アイスクリームを食べ過ぎて暴れたり、殺傷沙汰になったりすることはないだろう。ここには暴力の影がない。掟破りのぼくたち以外にビールを飲んでいる人もいないようだ。人間の幸せってなんだろう?

 学生のころ、冬の寒い日に好きな人と炬燵に入って一日中レコードを聴いていた。あれ以上の幸せってないよな、といまでも思う。この「幸せ」はともに味わわれるものだ。自力で、単独に生み出せるものではない。偶然なのか必然なのか誰かと出会い、ともに過ごす時間のなかで思いがけずもたらされる。「自然(じねん)」という言葉が浮かぶ。

 自然の自はおのずからということであります。人の側からのはからいではありません。然とはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側からのはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。(中略)如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。かたちがおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。(親鸞『末灯鈔』石田瑞麿訳)

 仏教の言葉が使ってあるけれど、言われていることはよくわかる。わかり過ぎるほどわかる。ここをうまく自分の言葉に直すことができれば、ぼくの言いたいことはほぼ尽くされるくらいだ。「如来の誓願」とは「人はどこまでも人である」という約束のことだろう。その人がどんな境遇にあり、どんな生涯を送ろうとも、「どこまでも人である」という「如来の誓願」のなかに摂取されている。「摂取不捨」と言われるように、この約束を逸脱して生きうる者はただ一人としていない。

 こうした人のあり方を仏教の言葉で言い表すと「無上仏」や「無上涅槃」になる。それはかたちなきものである。可視化も実体化もできない。「人の側からのはからい」をもって到達できる場所ではない。親鸞が「はからい」と言っているのは、現代の言葉では知や認識に近いと思う。認知という同一性を細かく刻んでいくやり方では、「この上ない」というあり方には届かない。いかに優秀なAIといえどもアルゴリズム化できない場所に、冬の寒い日に炬燵でレコードを聴いているときなど、たわいもなく届いてしまったりする。

 君はなんであるか知っているか。君は驚異なのだ。そうだ、君は奇蹟なのだ。(パブロ・カザルス『喜びと悲しみ』)

 万人をただ一人の取りこぼしもなく摂取する場所、それは形なきものである。可視化も実体化もできない。かろうじて〈ことば〉によって触ることができる。おそらく親鸞もそう考えたはずだ。だが言葉は目に見えないものや形なきものを可視化もすれば実体化もする。「自由・平等・友愛」はそのようにして可視化され、近代の市民社会において実体化された。すると途端に自己増殖をはじめ、いまでは手に負えないものになっている。その実例をぼくたちは毎日のように目にしている。自由を求め、平等を求めて人と人が殺し合う。殺戮の後始末として友愛が唱えられる。言葉とともにある知や認識の危うさがある。だから親鸞は人の側からのはからいを強く戒めたのだろう。

 いつも同じ話で芸がないけれど、他の事例を知らないので引かせてもらう。2001年1月26日、山手線新大久保駅で泥酔した男性がプラットホームから線路に転落した。男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人のカメラマンと韓国人留学生が、折から進入してきた電車にはねられて三人とも死亡した。この事故で、線路に落ちた人を助けようとして亡くなった二人の行為を「自己犠牲」と呼ぶのは当たらないだろう。彼らの振舞いは自己の手前で起こっているように思えるからだ。もし自己の行為なら、咄嗟に身体は動かなかったのではないだろうか。恐怖や躊躇や分別や、自分の身を護る本能のようなものに拘束されてしまったかもしれない。

 どうやらぼくたちのなかには「自己の手前」と呼ぶべき場所があり、そこでは自己保存や自己防衛といったこの世の習わしは無化される。つまり「自己」は二義的なものになってしまうのだ。ぼくたちが「人間的」と感じることの多くは、こうした自己の希薄化から生まれてきているのではないだろうか。「人はどこまでも人である」という約束の場所では、自己は希薄化されて二義的になる。一人ひとりの自己が自己以前の場所に立ち戻ってしまう。各々のはからいを超えたところで「自然(じねん)」に、約束の場所に摂取される。

 こうした人としての根源的なあり方を、親鸞は「この上ない仏」とか「無上仏」と呼んでいるように思う。それは形なきものである。なんら特別なところのないありきたりな人が、何かの機縁によって形なきものを閃光させる。するとこの上ないものが一瞬の奇蹟のように可視化される。圧倒的に善なる場所が、ただ一人の例外もなく万人のなかにある。摂取不捨。だから「いはんや悪人をや」なのだろう。

 敬愛する友人である森崎茂さんが、しばしば「私よりも私に近いあなた」という言い方をされる。言い得て妙、実感としてとてもわかりやすいので使わせてもらおう。「私よりも大切なあなた」ではたんなる経済学である。私もあなたも価値になっている。それは認知や認識として現になされていることであり、自力のはからいによる世界である。自力の恃みとするかぎり、世界は現にあるものでしかない。なぜなら自力のなかには未知も可能性もないからだ。必然性だけがある。つまり善人や悪人がいて、立派な人や卑小な人がいる。この馴染み深い世界が丸ごとアルゴリズムに置き換えられようとしている。善悪も含めてあらゆる価値はデータとして処理できるので、立派な人もそうでない人も、頭のいいAIがこなす計算の一部になってしまう。

 だから「私よりも私に近いあなた」と言わなければなれない。私よりも私の近くに〔あなた〕がいる。それは不特定の誰かではなくて固有の〔あなた〕である。三人称ではなく二人称、すなわち「根源の二人称」である。しかし誰が「その人」なのか、どこに私にとっての固有の〔あなた〕がいるのかわからない。二人称で呼ばれる〔あなた〕は可視化も実体化もできない。親鸞の言い方を借りれば「形もおありにならない」。そのような〔あなた〕が何かの機縁によって、はからいを超えた「自然(じねん)」として目の前に立ち現れる。すると咄嗟に身体が動いて、世間の慣わしでは美談にされてしまうようなことが起こる。だが本当は美談では済まない、もっと根源的でおそろしいことが起こっているのかもしれない。

 映画『タイタニック』は、おそらく制作者たちの意図を超えたところで山手線の事故と同じ場面を描いている。あの映画でぼくたちが目にするのは、「私よりも私に近いあなた」の出現をめぐるドラマである。山手線のホームでは一瞬の閃光のように可視化されたものが、ここでは二時間余りの物語として紡がれていく。

 1912年、イギリスのサウサンプトンからニューヨークへ向かう処女航海で、当時史上最高と謳われた豪華客船が氷山と衝突して沈没する。その船に乗り合わせていたのが、上流階級の令嬢ローズと、貧しい画家志望の青年ジャック・ドーソンだった。彼らは運命的な出会いを果たし、身分や境遇を越えて愛し合う。そこへ事故が起こる。海に投げ出された二人は、沈没した船の残骸につかまりながら救助を待つ。しかしローズを助けようとして、自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックは力尽き、「きみは生きろ」と言い残して海中へと沈んでいく。

 ジャックはなぜ最期にそのような言葉を口にすることができたのだろう? 彼がいい奴だったからだろうか。飛び抜けた善人だったからか。そういう規模の問題ではないだろう。「摂取不捨」という親鸞の言葉を思い起こそう。「人はどこまでも人である」という約束の場所は、ただ一人の取りこぼしもなく万人のなかになる。誰もが小さな機縁によってその場所を生きてしまう。生きるのは「私」ではない。「私よりも私に近いあなた」を「私」や「自己」が生きることはできない。約束の場所は各自のあなたや私のはるか手前にある。森崎さんの言葉では「根源の性」ということになる。

 同一性のはるか手前に同一性の基になる、あなたがわたしのなかにいて、わたしがあなたのなか にいるというシンプルな世界の情動が存在する。(中略)〔なかにいる〕のはわたしがかんがえるあなたがわたしのなかにいるのではなく、あなたのかんがえるわたしがわたしのなかにあるということが〔なかにいる〕ということなのだ。つまり〔なかにいる〕のはあなたのなかにいるわたしのことだといってよい。わたしとあなたが交換されて入れ替わった存在が互いのなかにあるということになる。(森崎茂「歩く浄土」248)

 冷たい氷の海に浸かったジャックは、同じく凍えるローズの心に映ったジャックを自分として生きる。「きみは生きろ」という言葉は、そのようなジャックの自己が言わせているものだ。「根源の性」と呼ばれる圧倒的な善が、ジャックという実詞化された一人の青年の口を借りて言わせているのだ。だから彼の死は、彼自身によって生きられるものになっている。ローズもまた、冷たい氷の海に沈んでいくジャックの心に映った彼女を生きつづけるだろう。それは死んだ恋人の面影や思い出とともに生きるということではまったくない。ジャックという一人の青年を、自己の現実として生きるということだ。

 人が生きるとはこういうことではないだろうか。誰もが本当はそのようにして「私よりも私に近いあなた」を生きている。「私よりも私に近いあなた」を私として生きることによって、「この私」という各自の固有性が生まれてくる。しかしひとたび「私」という同一性の場所が確立されると、「私よりも私に近いあなた」はもう見えなくなってしまう。見えるというのは空間的に対象化するということだから、見ている本人よりも近くにあるものは見えない。かわりに見出されるのは、「私」と相似形をなした、自己の外延としての他者でしかない。このような他者は、イワシやサバやマグロが「魚」の外延であるように、本質的に私と異なるものではない。

 でも、どうだろう。海を回遊するイワシとサバのなかから、一匹ずつがはぐれてジャックとローズになったりするのだろうか。清流に棲むアユとウナギのあいだでも山手線の事故みたいなことは起こりうるだろうか。人と人が出会うときには、何かもっと圧倒的に別のことが起こっているのではないだろうか。同質のものが同時性において、たんに物理的に遭遇するのとは異質なことが。

 アルベルチーヌの姿についてプルーストは次の様に言っている。アルベルチーヌは砂浜を、そして砕け散る波を内包しあるいは表現している、と。――《もし彼女がわたしを見たら、わたしは彼女にはどんな風に見えるのだろう? どんな世界の中にわたしを見つけるのだろう?》。ここにおいて主人公の愛、嫉妬は、アルベルチーヌと名付けられた可能的世界を展開しおし広げることにあるのである。(ジル・ドゥルーズ「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」丹生谷貴志訳)。

 ぼくたちが誰かと出会うことは、その人のなかに内包されている可能的世界を生きてみようと決意することだ。そうして長年連れ添った相手から、「あなた、わたしを生き損ねましたね」と言われれば「すまない」と答えるしかないにしても、初期衝動としてはそうだったのである。ぼくはきみのなかに包まれているものを生きてみたかった。砂浜を、砕け散る波を、ともに味わいたかった。子どもを得るとは、親になるとは、そういうことではないだろうか。その子のなかに包まれているブランコやシーソーを、ともに遊び戯れる一コマの情景として日々のなかに実現していくことではないだろうか。重い障害をもって生まれた子が、人間として何もできないとか価値がないとか、どうして言えるのか。無上仏には形もおありにならないと、親鸞も言っているではないか。その子に内包された無上のものを、親であるぼくたちがこの世にもたらし、きれいに透きとおった風や桃色の美しい朝の光としてともに味わう。それ以上の何を望むのか。

 彼はあらためて赤ん坊を見た。もう思い出せないくらい遠い過去に遡って、赤ん坊はずっとそこにいたような気がした。赤ん坊との関係で、彼は自分が、けっして関与することのなかった過去へ向かって投げ出されているのを感じた。記憶の外にある過去の暗闇から、赤ん坊は周作を見つめていた。その遥かな場所から、赤ん坊は現在と未来の彼を問いつづけていた。周作には、この小さな生命の何ものであるかを名づけることはできない。逆に、一個の小さな生命が、彼の何ものであるかを絶えず問いつづけているのだった。
 赤ん坊は瞬きもせずに、じっと見つめている。不意に周作は、見られることによって、自分が選ばれた者になった気がした。誰からともなく選ばれて、ここにいるような気がした。赤ん坊との関係で、彼は自分という存在にたいして、いまはじめてピントが合うのを感じた。目の前にいる赤ん坊にたいして、周作は自分以外の何ものでもありえなかった。他の誰も、彼のいる場所を占めることはできない。この場所は、広大な宇宙のなかでただ一か所、彼だけのために用意された場所だった。暗がりのなかから見つめる二つの目が、そのことを果てしなく肯定していた。(拙著「九月の海で泳ぐには」より) 

 親として子どもを育てることは、その子に内包されている可能的世界を自己の現実として生きることだ。ともに味わわれる世界として展開し、表現していくことだ。こうしてぼくたちは世界でただ一人の自己になっていく。固有性とはそのようにして生まれてくるものだろう。誰も自分で自分を固有のものとして生きることはできない。ドゥルーズが言っているように、「私」とは他者が内包している可能的世界を進行させ、説明する「他者性のプロセス」なのである。私が私を生きることなどありえない。私は私に先立つ先験的な「他者」を生きるのである。

 生まれて長く生きられない子どもがいる。子どもを失くした親の心情は計り知れない。ぼくはこんなふうに考えたい。両親はその子が内包していた可能的世界を生きつづけるのではないだろうか。一緒に過ごした時間は短かったかもしれない。しかしこの世で一瞬相まみえた、その子が目にし感じたものを、彼らは自分たちの「私」として生きつづけるのではないだろうか。「死でさえも一つの流れとなりうる」とドゥルーズは言っている(『情動の思考』)。そのとおりではないか。人と人が出会うことには、はじまりがあって終わりがない。誰もがそのようにして目に見えない信を生きている。

 信は目に見えず一人ひとりのものだ。よって信と信仰は違う。180度異なると言ってもいい。信仰はどんなものでも共同幻想である。共同幻想どうしが対立すれば戦争が起こる。中世の戦争も近代の戦争も、宗教や国家という共同幻想の対立から起こった。人類がテクノロジーやデータを信仰するようになれば、なるほど戦争は表面上なくなるかもしれない。しかし愚劣や迷妄はなくならないだろう。科学的な知が人々の蒙を啓くことはけっしてない。それは最先端の医学や生命科学の中枢に深い迷妄が巣喰っていることを見ても明らかだ。本質的にはつぎのように言うべきだろう。もしユヴァルが予言するように、21世紀の人類がテクノ宗教やデータ教に帰依することになれば、人間はついに不信を信仰するところまで追い詰められたことになるのだと。

 ぼくたちが生きている最大の不信は死の虚無である。人類がテクノ宗教やデータ教に帰依していくことは、この不信にさらに強くとらわれていくことを意味している。医学も生命科学もAIも、死の虚無という不信を消すことはできない。これらのもののなかに、「死でさえも一つの流れとなりうる」という要素は何一つとしてない。なぜなら自己と他者を同一のものと考えているからだ。自己も他者も同一のものの再生産であり、異なるものではない。そう考えないと科学的思考は成り立たない。つまり同一的な自己や同一的な他者が同時性として存在している。同一的な自己にとっても同一的な他者にとっても、意識によって外延的にカバーできるものが「世界」である。死はこうした外延的な意識によっては表現できないものであるから、虚無とみなされるほかない。

 あらゆる不信は自己と他者の同時性から生じてくる。不信に覆われた世界は、自己に先行する「他者」の不在によってもたらされる冷たくて固い世界である。この世界には各々の自己から相互に演繹された他者(客体)しかいない。自己も他者も同一性に閉ざされていて交わることがない。イワシやサバやマグロが「魚」として泳ぎまわっている世界、「人類」という外延的世界もこれと変わるところはない。だが同時に、誰になかにも「私よりも私に近いあなた」の場所がある。そこは「人は人でしかありえない」という約束の場所である。ぼくたちは誰もがこの約束を生きている。だから人と人は出会うのである。可視化も実体化もできない「私よりも私に近いあなた」の場所が、何かのはずみにジャックやローズとして実詞化されるのである。

 そこで起こっていることは、本質的には山手線のホームで閃光のごとく出来した事態と同じだ。すなわち見ず知らずの者どうしが、一瞬にして「私よりも近いあなた」の場所を生きてしまう。この場所が誰のなかにもある。そこから引き剥がされてこぼれ落ちたものが、つながろうとしてつながれない「私」であり「あなた」である。でも本当はつながっているのではないだろうか。誰のなかにも「私よりも近いあなた」の場所が内挿されているのだとすれば、それこそ摂取不捨、ただ一人の取りこぼしもなくつながっている。この可視化も実体化もできないつながりを、森崎茂さんは「内包的な親族」と呼んでいる。山手線の事故で亡くなった一人は韓国人留学生だった。人は国籍、宗教、民族、性別を超えて誰もが「内包的な親族」としてつながっている。そのいちばん奥まったところに、「私よりも近いあなた」という善の場所がある。そこからの余熱を受けて、一人ひとりが固有な自己であり私である。各自が固有な自己として「内包的な親族」をなしており、そのことにおいて人間とは相互に無償の善を贈与しあう存在である。

 この道理をこゝころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。(親鸞『末灯鈔』)