The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.6)

The Road To Singurality
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6 善なるものの宿るところ

 今夜は飲みに行こう、とやさしい言葉をかけてくれた師匠であったが、夕食を済ませると早々に写真を撮りに行ってしまった。まあ、ぼくだってそんなにいつまでもめそめそしていない。立ち直りの早い二人である。
 夕食はロッジのレストランでとった。宿泊の施設はいかにも山小屋風だが、レストランはホテル並みに充実している。ボブはポーク・ステーキ、ぼくはミートローフで、いつものようにシェアして味見する。どちらも美味しい。ここはワインといきたいところだけれど、夜間の撮影に備えて二人ともビール一杯ずつにする。「Rainier」という銘柄のビールは、バドワイザー系のライトでさっぱりした味だ。てっきり地元のビールと思ったら、元の会社は売却されて現在はLAのブルワリーが生産しているとか。

ロッジ

 食事のあとで近くを散策してみる。緯度が高いせいか午後8時を過ぎても外は明るい。これなら安物のデジカメでも充分に撮影できる。どこにカメラを向けてもいい写真が撮れそうな気がして、どんどんシャッターを押してしまう。心配した雪はそれほど残っていない。ウィーキングシューズでもかなり上まで行けそうだ。
 夕暮れが近いせいか、あたりはとても静かである。本当はいろんな音が聞こえているのだ。獣の鳴き声や小鳥の囀り、虫の音……音が溢れていると言ってもいい。鹿だろうか、ときおり甲高い動物の声が谷間に木霊する。鋭い啼き声を上げる鳥もいる。ただし人工的な音は交じっていない。それが「静か」と感じる原因かもしれない。
 この静けさは、遮音性の高い室内にいるときの「無音」とは明らかに異なる。大橋力さんの『音と文明』によると、熱帯雨林の環境音は通常の騒音レベル(音の物理的尺度としてのdB)ではかなり大きいらしい。しかし生命の営みや生態系のゆらぎによってもたらさせる音を、ぼくたちは「うるさい」と感じない。小川のせせらぎや草原を渡る風の音や蝉しぐれなど、物理的には大きな音であるにもかかわらず、人間の感覚や感性は心地よいと感じ、その快適感は静寂感につながっている。考えてみれば当然だろう。これら自然の環境音はぼくたちの生命を育んでくれている世界の一部なのだ。
 標高の高い山に登ったときに体験する静寂感や静謐さには、里山などで感じる静けさとは違う独特なものがある気がする。厳しく寒冷な自然環境のせいで、針葉樹をはじめとする植物たちの成長速度が緩やかであることと関係しているのではないだろうか。植物がゆっくりとしか育たないので、それを食料にしている草食動物も、また彼らを餌にしている肉食動物も、暮らしぶりがどこかのんびりしてしまうのだ。たとえば熱帯のジャングルやサバンナ、アフリカのステップなどはもっと騒然としているのではないだろうか。動物や植物の種類や数が多いことに加えて、自然の成長速度そのものが速いために、そこで繰り広げられる生存競争、ダーウィンが言うところの「生にたいする戦い」も熾烈で血なまぐさいものになるのだと思う。
 ときにぼくたちの心を深く癒してくれる自然だが、彼らの営みに「贈与」は組み込まれていない。交換し、交替するだけである。交換と交替のスピードが速かったり緩やかだったりする。それが自然の奥深さや重層性をつくり出している。贈与するのは人間だけである。そこに人間の可能性があるとぼくは思っている。この世界がストレスフルで住みにくいものになっているのは、自然の摂理である交換と交替に覆われているからだ。人間的なものは組み込まれていない。人間は自然ではないから、自然の摂理に従って生きていけない。にもかかわらず、交換と交替のスピードは加速する一方で、いまではコンピュータなどのデジタルテクノロジーに依存しないと処理しきれないほどになっている。
 そういうぼく自身、このスピード化された世界にかなり毒されているようだ。シアトルで訪れたアマゾンに刺激を受けて、創業者であるジェフ・ベゾスのことを知りたくなり、早々に彼の伝記を電子書籍で購入した。小型のkindleをホテルのWi-Fiにつないでタッチパネルに指を触れるだけ。最近は、こんなふうにワンクリックでものやサービスを購入することが多くなった。またインターネットでニュースを見ることも習慣になった。すると朝刊の記事を古いと感じる。いまや新聞は全然「新しく」ないのだ。とくに台風や地震のニュースなどは、30分か1時間前のものでも「過去」と感じる。それが当たり前の感覚になろうとしている。
 日常がリアルタイム化しつつある、ということなのだろう。とはいえ、ぼくたちにとって意味のある「いま」は数分か、せいぜい数秒である。アスリートの世界でも100分の一秒だ。これがトレーディングの世界になると、1000分の一秒が勝負の分かれ目になる。いずれ量子コンピュータが登場すれば、スーパー・コンピュータを遥かに超える計算速度にも慣れていくだろう。
 こうしてぼくたちの暮らしは、最終的に電子のスピードに近づいていく。良し悪しを言ってもしょうがない。この先も世界が高速化していくことは不可避である。加速していく世界のなかで、ぼくたち一人ひとりがどう生きるかを考えるしかない。そんなタイトルの小説があったよね、きみたちはどう生きるか、ぼくたちはどう生きるか……難しい問題だ。不可避の世界を逆手にとって、人間がより人間らしく生きるには、どんなふうに世界を構想すればいいのか。どんな生を発明すればいいのか。まだ誰も答えを出せていない。

シカ

 近くの斜面を一面に可憐な花が覆っている。きっと一年の半分以上を雪の下で過ごすのだろう。長いあいだ夏の日差しを待っていたんだなあ。植物たちの健気さに心を洗われて、なんだか自分まで健気な人になっていく気がする。誰もこんなところで残虐なことは考えないだろう。邪悪なことを思いつこうとしても何かがそれを妨げる。そういう気分になれない。他人をいじめたり、騙したり、差別したり、打ちのめしたり、ぼくたちの社会では日常的に起こっていることが、いかにもけち臭く、つまらないものに感じられる。いまの気分とあまりにも乖離していて、リアルに実感できない。
 リアルなのは、オレンジがかった夕暮れの光を浴びている木々であり、足元で可憐な花を咲かせる健気な植物たちだ。自然の力って、やっぱりあるんだなあ。自然にかぎらず文学でも音楽でも絵画でも映画でも、あるいは人でも動物でも美味しい料理でも、触れた者を思わず知らず善良にしてしまうもの、出会った瞬間に悪を解除してしまうもの。そういうものをぼくは「表現」と呼びたい。表現とは善なるものの力である。
 この力はどこからやって来るのだろう? 作品や食べ物に内在しているのだろうか。そうとも言える。天台本覚思想でいうところの「草木国土悉皆成仏」は、草や木もことごとく仏性を有している、つまり善なる力を宿しているという考え方である。その一方で、自然から善なる力を引き出しうるのが人間だけであることも、確からしく思える。すると人間には善なるものを引き出す力がある。そう考えてもいいのではないだろうか。人間には自然を善きものとして感受する力がある。善なるものとして自然を見るまなざしが、おのずと備わっている。このまなざしを注ぐとき、草も木も善なるものを人間にもたらしてくれる。
 マルクスは自然と人間の関係を、たんなる相互の交換としか考えなかった。考えきれなかった。そこが彼の思想の限界だと思う。人間が自然と取り持つ関係には、交換だけではなく贈与が含まれている。目に見えないところで、互いに善きものを贈与し合うという力が働きつづけている。なぜそんなことが起こるのだろう? 起こりうるのだろう?

花

 ダグラス・ホフスタッターが『わたしは不思議の環』という近著のなかで面白いことを言っている。彼は「蚊の内面はどうなっているのだろうか?」という一見滑稽な問いを発する。蚊にとって「私」であるとはどういう体験なのだろうか。どの程度に豊かな自己の感覚が備わっているのだろうか。おそらく蚊には自分がどう見えるかという視覚イメージも、暑い、寒い、疲れた、元気いっぱいだ、空腹だ、飢え死にしそうだ……といった内的状態にたいする知識もないだろう、とホフスタッターは推論する。まあ、妥当なところだろう。では、ごくぼんやりとでも自分が広大な世界を飛びまわる存在だと感じているのだろうか? これも疑わしい。なぜなら、そのためには「大きい」「小さい」「部分」「場所」「移動」といった抽象的シンボルが、蚊の小さな脳のなかに存在しなければならないからだ。
 ホフスタッターの本に触れたのは、蚊とくらべるまでもなく、人間は奇妙な存在であるということを言いたかったからだ。人間だけが自然を「自然」としてとらえる。もちろん動物たちには「自然」という言葉もないわけだが、もっと根本的なところで彼らは自然を対象として見ていないだろう。彼らは自然の一部であり、自然そのものである。自然からはぐれてしまった人間だけが、自然を「自然」として対象的に見る。そこに崇高にして善なるものを見る。だから世界中のどこにでもアニミズムと呼ばれるような自然崇拝、自然を神として崇める習慣が残っているのだろう。
 日本の山はたいてどこでも山の神が祀られている。人々は自然を、とりわけ高い山を神と崇めた。そこに崇高で善なるものが息づいていると感じた。この感覚は日本人だけのものではなく、おそらく人類に共通したものだろう。太古の時代、人間は自然を「神」として見るまなざしを発明した。この発明とともに、ヒトは人になったと言っていいかもしれない。なぜ人間は神や仏といった観念を発明できたのだろう? ホフスタッターの言い方を借りれば、人間の脳が蚊とは比較にならないくらい大きかったからである。これじゃあ面白くない。
 神や仏といった観念の発明に至るまでに、人間のなかには「善い」「尊い」「気高い」といった高度な抽象的シンボルが生まれていたはずだ。なぜ生まれたのだろう? どうやって生まれたのだろう? 脳みそが格段に大きかった、では説明にならない。

山

 日本語には「見立てる」という言葉がある。『古事記』の最初のところで、高天の原から降り下ったイザナキとイザナミが「天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき」という具合に出てくる。新潮日本古典集成では「『天の御柱』に適当な木を前もってよく見選んでおいて、それを立てる」と注釈している。安田登さんはさらに踏み込んで「イザナキとイザナミが『見る』ことで、そこに『天の御柱』が出現した」と解釈しておられる(『あわいの力』)。
 ぼくは「まなざし」という言葉を使いたい。人間が「まなざし」を注ぐことで、そこに「善きもの」や「尊いもの」や「気高いもの」が生まれる。見ることは、たんに「知覚」という感覚器官の働きではなく、何かを主体的に創造することである。見ることで、何かを出現させる。それまで存在しなかったものあらしめる。そのとき見ているほうは、「主体」として創出される。「表現」という言葉を使うなら、見ることはそこに何か(たとえば「天の御柱」)を創出する表現行為であり、同時に見立てる側は「私」などとして表現される。
 表現とは相互的なものだ。まなざしを交わし合うことだ。まなざしを注ぐものは、まなざしを注がれるものであり、見つめるものは、見つめられるものである。表現するものは表現されるものになり、表現されるものは表現するものになる。ここに本来の意味で「固有性」が生まれる。ありきたりの誰かを「かけがえのないその人」にするのは、一人ひとりがもっている見立てる力であり、彼や彼女に注がれるまなざしである。一つのまなざしが、70数億の人類のなかから彼や彼女を固有な「その人」にする。同時に、まなざしを注ぐ者は、彼や彼女を「その人」として見立てる「ただ一人のあなた」になる。
 誰かを好きになるということは、自分だけの固有なまなざしでその人を見ることだ。それは知覚や認知をはるかに超えた創造的な営みではないだろうか。認知機能というよりは認知障害と言ったほうがいいかもしれない。なぜならあなたにとってかけがえのないその人は、他の人にとっては、おそらくただの人に過ぎないのだから。「あばたもえくぼ」という言葉がある。「おまえが好きや、世界でいちばんや」と言ったところで、その人は他の人にとっては「あばた」である可能性が高い。普通の人には「あばた」であるものが、あなたにとってだけ「えくぼ」になる。
 人を好きになることは、発見や認識というよりは、創作や創造に近い行為なのだ。きわめて創造的な「あばたもえくぼ」によって、70数億の人類のなかからただ一人の「あなた」が誕生する。「好き」というシンプルな情動一つをとってみても、創造的かつ独創的な活動が含まれている。そういうことを日常的に、ごく普通にやっているのが人間なのだ。
 ただ一人の「あなた」は概念化できない。したがってアルゴリズム化もできない。なんたってあなたが「あなた」である根拠は、「あばたもえくぼ」なのだから……う~ん、AIこまっちゃう。人間はつくづくヘンな生き物である。この「ヘンな」ところに人間の可能性はある。ぼくはそう信じて疑わない。

夕暮れ

 映画『タイタニック』のなかで、恋人のローズを助けようとして自らは冷たい氷の海に浸かった状態のジャックが、力尽きる間際に「きみが生きろ」と言い残す場面がある。船上で過ごしたたった数日のあいだに、「かけがえのないその人」、自分よりも大切な「ただ一人のあなた」となった女性のために、一人の青年が「きみが生きろ」と言い残して冷たい氷の海に沈んでいく。いったい何が起こったのだろう。「あばたもえくぼ」が可視化されたのである。
 AIにローズはA=Aとしか認識できない。「あばた」が「えくぼ」になるという機微は、人工的な知能の理解を超えている。客観的なデータとしてはA=Aに過ぎない一人の女性を、これまで存在しなかった「かけがえのないその人」として新たに創り出したのは、ジャックという一人の青年である。彼のこともAIはA=Aとしか認識しない。つまりロンドンに絵の修業に来ている貧しいアメリカ人の青年でしかない。そんな名もない青年が、どうして『タイタニック』という大作映画の主人公としてクローズアップされるのか? 彼もまた創出されたのだ。ローズという一人の女性によって「ジャック」として表現された。ローズにとって唯一無二の「あなた」である自己を、彼女を助けるために冷たい氷の海に沈んでいくというかたちで生きた。それがジャックという一人の青年の生と死である。
 まさに恐ろしいばかりの自由のなかでなされる善である。この「おのずからなる善」を起点に人間を考えよう。宮沢賢治が希求した「億の巨匠が並んで生れ/しかも互ひに相犯さない/明るい世界」を構想しよう。たしかに1パーセントと99パーセントという自然もある。奪い合う自然、適者生存という自然、それが世界を覆い尽くしているように見える。しかし人間のなかには、『タイタニック』のジャックのように「きみが生きろ」という自然もあるのだ。
 一人ひとりのなかにある善の含有量は等しい。万人のなかに眠っている善の埋蔵量はみんな等しい、とぼくは固く信じている。だから「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞の悪人正機という考え方は成り立つし、「平等」という観念も絵空事ではなく、現実的なものとして地上に降臨させることができるのである。
 ところが一つだけ問題がある。「善」は固有性においてしか発露しないのだ。「あなた」によぎられる「わたし」という固有性のもとで、はじめて「おのずからなる善」は発動される。だから「表現」という考え方がどうしても必要なのだ。個々の閉じた「自己」や「他者」のなかに固有性はない。一つひとつがかけがえのない固有性は、まなざしを交わし合う者たちによって相互的なものとして創出される。そのような固有性として表出された「あなた」のなかにも「わたし」のなかにも邪悪なものはない。善なるものしかない。
 逆に、一般性として疎視化される「彼」や「彼ら」のなかに邪悪なものは芽生える。この世界は万人を三人称として疎視化する力に満ち溢れている。言うまでもなく、ゲノム編集をはじめとするライフサイエンスと、AIやインターネットなどのコンピュータサイエンスがこうした流れを牽引している。だからこそ声を大にして言いたい。70数億の人類を、ただ一人の「その人」として見るまなざしが、この行き詰った世界には不可欠なのだと。