2 いざ、シアトルへ
このところボブは、なんでもシンギュラリティにしてしまう。美味しいカレーを食べると、「おお、シンギュラリティ!」なんて叫ぶし、ボストン美術館にあるポール・ゴーギャンの絵も、彼に言わせるとシンギュラリティなのだそうだ。「人生は旅、旅こそシンギュラリティじゃないか」って、芭蕉までシンギュラリティにしてしまいそうな勢いだ。
おい、ボブ。言葉を安易に使っちゃいけないよ。そんな調子では、いったい何がシンギュラリティかわかんなくなっちゃうじゃないか。ところで、シンギュラリティってなに?
現状のまま人工知能が進歩しつづけると、2045年くらいに人間を超えるAIが誕生するという予測があり、これをシンギュラリティ(技術的特異点)というらしい。人工知能が人間よりも賢くなって爆発的に進化する。人工知能は人間にとって脅威になる。そこで何が起こるかわからない、なんでも起こりうる……ということで、スティーブン・ホーキングは人間が終焉するかもしれないといったコメントを発しているし、他にも同様の危惧を抱いている科学者は多い。ビル・ゲイツなども人工知能の脅威を訴えている。
スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)では、宇宙船に搭載されたコンピュータ(HAL9000)が異常をきたし、自分を停止させようとする乗員を排除してしまう。ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター』(1984年公開)は、近未来の世界で反乱を起こした人工知能(スカイネット)が指揮する機械軍により、人類は絶滅の危機を迎えているという設定になっている。このようなSF映画に描かれてきたことが現実になるということだろうか。
うん、たしかにそうかもしれないな。今回、シアトルで見てきた「Amazon Go」なんか、ほとんど『マイノリティ・リポート』(2002年公開)の世界だった。詳しいことは次回書くつもりだけれど、簡単に説明しておくと、これは要するにレジのないコンビニで、最初にスマートフォンに表示させたバーコードをゲートで読み込ませ、あとは店内で好きな商品を選んで、そのまま店を出るというシステムになっている。途中で商品を棚に戻せば、ちゃんとキャンセルされる。最終的な金額はスマートフォンに表示され、あとからクレジットで決済される。
どうしてこんなことが可能なのかわからない。アマゾンによると自動運転車と同じテクノロジーを使っているらしいのだが、そんな説明をされてもねえ。AIの中身はほとんどブラックボックスだ。とにかく入店したユーザーがかざすバーコードを読み取り、カメラで顔を認証し、どこにいるか、何をしているかを追跡する。何を手に取り、戻したか……ほとんどエラーがないっていうんだからすごいよね。取ったり戻したり、選んだ商品をカバンやポケットに入れてそのまま店に出てしまう。やっていることは万引きと同じなんだけど、ちゃんと請求がきて銀行の口座からお金が引き落とされる。あまりにも簡単で便利でストレスレスで、かえって恐ろしくなってくる。
AIにかんする議論を見ていて感じるのは、この世界がどこに向かっているのか、誰にもわからなくなっているということだ。非常に大きな変動が起こっていることは間 違いなのだが、世界規模で進行する変化の速さに多くの人がついていけなくなっている。変貌する世界についてのヴィジョンを、誰ももちえなくなっている。自分たちの生きている世界がどのようなものになるかわからないので、一人ひとりが行き先不安なものとして日々を生きるしかなくなっている。そのことがAIに脅威を感じることの根底にあると思う。
ムーアの法則と呼ばれるものがある。コンピュータの処理能力は18ヵ月ごとに倍になるというもので、インテルの創業者の一人であるゴードン・ムーアが1965年に唱えたとされている。シンギュラリティという考え方も、処理能力の指数関数的な増加が前提になっているようだ。ところで、どうもぼくたちには、この指数関数的な増加ってやつが実感としてわかりにくいんだな。わかりやすいところから考えてみよう。
子どもが親に小遣いの交渉をする。「ぼくのお小遣い、1日1円でいいよ」「たった1円でいいのか」「そのかわり1週間ごとに2倍にしてくれる?」親はちょっと考えて、「ああ、いいよ」と答える。交渉成立。1週間後に2円、2週間後は4円、3週間後は8円。このあたりはまだかわいいものだ。ところが41週間後、小遣いの指数関数的な増加によって、親は子に1兆円の小遣いを与えねばならない。 オオ、マイゴッド! これぞシンギュラリティ?
まあ、こういうのはあまり現実的ではないだろうね。別の例で考えてみよう。一つの細胞が41回分裂を繰り返すと1兆個の細胞になる。人間の細胞の数は60兆とか、最近は37兆くらいとか言われているけれど、1兆個の細胞はすでに原始的な生命と考えていいだろう。すると生命とは指数関数的な増加であり、人間も含めて生きとし生けるものは、シンギュラリティの産物ということができるかもしれない。
いまは駅のホームでも電車のなかでも、みんなスマホをやっている。全人類が愛用する強力な麻薬が発明されたようなものだ。かつてロック・ミュージックという、世界中の若者が愛好する素敵なドラッグが発明された。プレスリーやビートルズの登場は、一種のシンギュラリティだったと思う。それまで地道に愛好されてきた音楽が、一夜にして若者の心をとらえてしまったわけだからね。現在では間違いなくスマホだろう。掌サイズのタブレットが、ぼくたちの生活スタイルを激変させつつある。ISやボコハラムの人たちも使っているみたいだぞ。スマートフォンというテクノロジーがテロや戦争のあり方を変え、さらには世界の風景を変えつつあるのだ。
これだってアポロ計画の時代にNASAなどで使われていたコンピュータから、ムーアの法則によって地道に進化してきたのだろう。それがあるところで指数関数的な上昇カーブを描いて高性能化したということだと思う。こんなふうに考えていくと、シンギュラリティというのは特別なことではなくて、毎日どこかで起こっていることなのかもしれない。
シンギュラリティに備えて何をすべきか。もちろんできるだけ正確な未来予想を立てることも重要だろう。これから人間はまったく未知の世界を体験することになりそうだ。多くの人が不安にかられるのも無理からぬ話である。強大な力を手にしてしまったことにたいする底知れない恐ろしさ。おしゃれなコンビニ「Amazon Go」にさえ、その兆候は見て取れる。
人間が容易に悪をなしうるものである以上、それは破壊的、破滅的な結末を引き起こしかねない。だからこそ、人間の善良な部分に目を向ける必要があると思う。絶対的に善なるものが人間にはある。おそらく数万年来、変わらずにありつづけている。テクノロジーが指数関数的に進歩し、人間のみならず自然環境を含めた世界の光景が激変しても、なお変わらないものがあるのだ。それをしっかり見極めることが大切だと思う。
このようなモチーフを胸に、ぼくたちはアメリカへ旅立つ。まあ、ボブは別のことを考えているかもしれない。ボブが何を考えているのか、正直なところよくわからない。ぼくにとって彼は未確認飛行物体みたいなものだ。UFO!
「きみには日本初のシンギュラリティ哲学者になってほしいと思っている」
「なんですか、それ」
「シンギュラリティを語る哲学者だよ」
「どうしてぼくがそんなものにならなくちゃならんのです」
「きみ以上にふさわしい人間はいないからさ。難しいことをやさしい言葉で語れる才能を、ぼくは非常に買っているんだ」
「ありがとうございます。難しいことを難しく語るのは難しいですからね。だってそのためには難しいことを理解しなくちゃならないわけでしょう。ぼくは自分が理解できたことだけを言葉にしているんです。ぼくに理解できるのはやさしいことだけだから、言葉になったものもやさしくなっている。言われてみると当たり前でしょう?」
「そんなに謙遜することはない。利口ぶったバカはたくさんいるけれど、きみはその反対だよ」
「つまりバカってことですか」
「話の趣旨を意図的にねじ曲げちゃいかんな」
なぜ、シアトルなのか? 二年前、ぼくたちはほぼ同じ季節にアメリカへ旅立った。旅をした日数もやはり十日間ほどだった。その旅のことは、ぼくたちのあいだでは「シンギュラリティの旅~カリフォルニア編」として伝説になっている。あくまでぼくとボブのあいだでだけだが。
あのときはロスから入り、マンザナー強制収容所やヨセミテ国立公園などを見学しながら東部の砂漠地帯を北上、サンフランシスコに入ってシリコンバレーをまわり、UCバークレーやスタンフォード大学などを訪れた。シリコンバレーではデヴィッド・パッカードとビル・ヒューレットが最初の低周波発信機を作り上げた伝説のガレージを見学した。グーグルを設立するセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジも、やはりガレージで検索エンジンを作りはじめた。1998年のことだ。そしてロス・アルトス、「Crist Drive 2066」のスティーブ・ジョブズのガレージへ。あたりは閑静な住宅地。平日の昼下がりで、人通りはほとんどない。観光スポットになっているヒューレット・パッカードのガレージとは対照的な、孤独なたたずまいが印象的だった。
コンピュータサイエンスにバイオテクノロジーが結びつくことによって、人類規模で起こりつつある激変を「21世紀の新しい宗教」ととらえた。この宗教には何人かの教祖候補がいる。一人はスティーブ・ジョブズ、もう一人はビル・ゲイツだ。そのまわりにヒューレット・パッカード、セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、アマゾンのジェフ・ベゾスなどがいる。ビル・ゲイツがマイクロソフトを起こしたのも、ジェフ・ベゾスがアマゾンの拠点を置くのもシアトルだ。シアトルには何かある! 何もなくても、とりあえずシリコンバレーとシアトルというIT産業の二大メッカを自分の目で見て、自分たちの歩いてみることで得るところがあるだろう。
得るところがなくてもいいのだ。ワシントン州は美味しいワインを産すると聞いている。できればYakimaやコロンビアヴァレーのワイナリーを訪れたい。地図には「Walla Walla」なんて地名も見えるぞ。いかにもクスクスが美味しそうじゃないか。カポーティの向こうを張って『ワラワラでクスクスを』なんて、どうだろう? 前回の旅では、アメリカのモーテル・ライフを存分に楽しんだ。少し早めにチェックインし、近くのスーパーへ買い出しに行く。速攻でテイクアウトできる簡単な食事を調達する。まずサラダを二種類ほど、ローストした肉、チーズを少々。あとはコロナを数本と、最後にワイン。1ボトル6、7ドルのものでも、カリフォルニアのワインは充分に美味しい。そんな旅を、今回も企てているのだ。
出発の直前(2018年7月6日)、麻原彰晃をはじめとするオウムの死刑囚6人に刑が執行された。帰国してほどなく(7月26日)残りの7人も処刑され、一ヵ月足らずのあいだに13人の死刑囚全員が殺されたことになる。「平成の虐殺」という言葉が頭に浮かぶ。二つの刑執行のあいだに企図された旅でもあったわけだ。
ぼくが思ったのは連合赤軍事件の死刑確定囚たちのことだった。森恒夫は1973年に東京拘置所で自殺、永田洋子は2011年に獄死、存命中の坂口弘は現在も歌集のなどを出している。彼らには一人ひとりの生きざまと死にざまがあったような気がする。それに比べるとオウムの死刑囚たちは、いかにも手軽に、まとめてあっさり殺されてしまったという感じである。残忍で冷酷な安倍政権も、平成は始末できたけれど、昭和には手が付けられなかったということだろうか。元号という天皇制的なものが人の生死を左右する。日本がそうした国であることを、あらためて思い知らされた。皇国の日本軍兵士の時代と何も変わらない。
オウム死刑囚たちに刑を執行する手際に、「Amazon Go」と相通じるものを感じる。お手軽であっさりとして、スピーディで簡便、でもそこには得体の知れない恐ろしさがある。これからは為政者や富と権力を占有する一部の者たちが、地球上の人々を手軽にあっさり殺す(見殺しにする)時代がやって来るのだろうか。
アニミズムに象られた呪術的なものが色濃く立ち込める国からマイクロソフトとアマゾンの地へ。エキサイティングな高揚感をおぼえるべきなのに、ラウンジで飲んだワインのせいもあり、くらくらする頭をスーツケースと一緒に運び、ぼくたちは機上の人となった。