きのうのさけび

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 昨日は熱に浮かされるようにして、死とは「自己の手前」であるみたいなことを口走った。もののはずみで、自己の手前とは領域となった自己であり、その本来性は「性」であるとも書いた。今日はもう少し先まで言葉を奔らせてみよう。

 ぼくたちが一般的に受け入れている生命観によれば、生は不可避の死と結びついている。生命工学がなんらかのかたちの不死を実現するかもしれない時代にあっても、死を抜きにして生を語ることは難しい。リルケの『マルテの手記』の言い方を借りれば、人は誰でも胸や腹に果物の種子のようにして死を宿している。これが緩急それぞれに成長し、膨張しながら領土を広げ、やがて生を呑み込んでしまう。そうした数万年変わらない死生観をなぞって、ぼくたちは生きている。

 いま死を「自己の手前」と言い直してみる。さらに自己の手前とは、領域となった自己という「性」のことである、ときわどい言葉を継いでみる。すると70数億の人類、誰の自己のなかにも例外なしに「性」が含まれていることになる。特攻出撃や玉砕を間近に控えた兵士たちの言葉に仄かに聞き取れる性の調べは、このような「性」が流れ出してきたものではないだろうか。

 自己の手前にある領域となった自己や、それを統覚している「性」は、言葉のいかなる意味でも空間化できないものだから、消滅や虚無と結びついた「死」という言葉によってとらえるしかなかった。そして「死」という言葉とともにあるかぎり、ぼくたちの生と死のあいだは一方通行で断絶したままである。この帰り道のない断絶を埋めるために宗教や国家が発明され、その副産物として暴力が生み出されつづけてきたし、いまも生み出されている。

 別の言葉を充ててみる。死とは自己の手前であり、それは「性」によって統覚される領域化した自己である。すると「死」という言葉は必要なくなる。自己の手前が自己として表現されたものを、ぼくたちは「生」と呼んでいる。誰もが自己として生き、自己として死ぬ。なるほど手持ちの言葉と思考で人の一生をなぞれば、そんなふうに言うしかない。では「死ぬ」とはどういうことなのか? 自己として表現された一つの固有の生が、今度は逆向きに自己の手前として表現されることである。それは「性」の音色を帯びた領域としての自己なので、「意識絶えて今はの言は聞かざりしまた逢はむ日に懇ろに言へ」(白川静)といった歌が生まれるのだと思う。(2019.12.4)