きのうのさけび

 中国で公安といえばポリスのことだ。市民の味方である。それなのに街角で「公安」の文字を目にするたびにギョッとしてしまう。一人ひとりは友好的で親切な中国の人たちだが、社会的なタブーが多いのは事実のようだ。今度の視察勉強会でも、最初にそのことを注意された。まず天安門は話題にしないこと。台湾の問題も避けること。「満州」という言葉は使っちゃだめです。それから肩書は「作家」にしてください。「物書き」だと少し警戒される。「ジャーナリスト」は完全にマークされる。どうやら「作家」という身分は中国では公認されているようだ。

 もちろん「セカチュー」も安心安全である。紹興酒とともに友好的に迎えられる。ふっふっふっ、中国製造2025も一帯一路もセカチュー話で呑み込んでしまおうという、ぼくの野望に習近平は気づいていないらしい。セカチュー話などと冗談めかして言っているけれど、まあ半分は冗談として聞いてもらっていいのだけれど、ぼく自身は現実的にかなり勝算のある話だと思っている。

 友人の森崎茂さんが「内包的な親族」という魅力的な言葉をつくってくれた。これをセカチュー話で包むとどうなるか。「彼は一人の漂泊者としてナヴァホ族の居留地を訪れた。一人の少女と出会い、親密になって婚姻関係を結んだ。そんなことが実際に起こったとする。いまこの瞬間にも、世界中で一人の漂泊者が誰かと出会っているはずだ。そして恋に落ちる。彼と彼女は夫婦になる。彼と彼女の家族同士は親戚になる。さらに彼の親戚と彼女の親戚も遠い親戚になる。こうして無限につづいていく。一つの婚姻関係の先には、つぎの婚姻関係が待ち受けている。人間のなかに埋め込まれている離散無限性がインフレーションを起こして、七十億の人類は一瞬にして親戚になる。」

 『新しい鳥たち』という小説の一節を引いてみた。このイメージをもっともっと魅力的に語れば、ぼくたちが「内包的な親族」という実感をもつことは可能だと思う。夢みたいな話と思われるだろうか? 「お花畑」だって? いいじゃないか。ぼくは世界中をお花畑にしたいと思っている。ユヴァルが言うように、歴史を学ぶ意義は未来を動態的に考えることにある。現在だけに足場を置いて思考するかぎり、ぼくたちはどこへも行けない。

 同族以外は「人」でなかった時代が果てしなく長くつづいたのである。丘の向こうには得体の知れないものたちが棲んでいる、という世界をヒトは何万年も生きてきた。いまぼくたちは「人類」という言葉を普通に使うことができる。「70数億の人類」という言い方で、この惑星に暮らす人種・民族・言語・宗教を異にする人々を思い描いている。だったら「人類」を「親族」にまで拡張して、「70数億の親族」という言い方だって可能なはずだ。

 そこで必要とされるのは物語だ、ということでセカチュー話の登場となる。「おれたちはみんな内包的な親族なんだぜ」ということを万人に納得させ、誰からも信じてもらえるような強力にして魅力的な物語をつくることができれば、ぼくたちは70数億の人類を内包的な親族として見ることができるようになる。「70数億の親族」はもう一つの実感になる。そういうことをぼくはやりたいのである。(2019・6・20)