きのうのさけび

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 神など実証できない面倒なことについては考えない、という人がいます。あるいは形而上学については一切認めないとかね。実在が証明されないものは認めない。要するに目に見えるものしか認めないという偏狭な料簡で、あたくしにはニヒリズムそのもののように思えますな。

 目に見えるものだけしか認めないてェなら、たとえば人の死なんぞは、心肺停止にしろ、脳死にしろ、細胞死にしろ、臨床医学的なものでしかなくなってしまいます。つまり肉体の不可逆的な機能停止をもって死とする。この点は人も動物もまったく変わりありません。たしかに人間は動物ですが、動物そのまんまじゃあない。そのまんまじゃあないから人間なわけです。ところが死だけは動物と同じものをあてがわれるン。そりゃあ受け入れられませんよ。だいいち死が肉体的なものでしかなければ、生きることは虚無そのものになっちまいます。人は死に向けて生きているとも言えるわけですからね。

 人間はどうして動物ではなくて人間なのか。あたくしはこのところ「ふたり」ってことをしきりと言ってるんですが、この場合も、動物と人間のあいだには「ふたり」っていう見えない次元が挟まっているんだ、と考えればいいように思います。逆に言うと、「ふたり」って次元を考えないと、人間は人間らしくならない。どこまでいっても動物のまんまです。

 どうして「ふたり」かってェと、美しいとかおいしいとかうれしいとか悲しいとかいった人間らしい感情や情動は、一人じゃあ生み出せないと思うからです。自己や自分という場所から、これらの感情や情動はけっして生まれてこない。

 たとえば何かを食べておいしいと感じる。このおいしさは物質には依存していません。まったく関係ないと言ってもいいくらいです。クジラやアザラシの生肉は、あたしらには容易に食べられないもんだと思いますが、アラスカあたりに住むエスキモーの人たちは「おいしい」って食べてるはずです。それは自然からの贈り物であり、「贈与」という感じ方のなかには「ふたり」がふくらんでいます。自然から贈与された獲物を、彼らは家族や仲間と分かち合って食べるのです。

 あたしらだってそうでしょう。たとえミシュランの三つ星が付いているような店で、豪勢なフランス料理だか日本料理だかをいただいても、連れ合いを亡くしたあとではおいしくないはずですよ。反対にカップ麺なんぞでも、好きな人と二人ですすればおいしいにきまっています。

 どんなに美しいものを見ても心にまったく響かないときがあります。逆に日ごろ見慣れた景色が、奇跡のように美しく目に映ることもある。あたくしにもありました。あるとき黄金色に色づいた銀杏の並木がそんなふうに見えたんです。そりゃもうこの世の景色たァ思えないくらい美しくて、自分がどこにいるのかわからなくなっちまいそうでした。そんときは一人で自転車を漕いでいました。誰かと一緒だったわけじゃあない。好きな人は遠く離れた街に住んでいましたからね、へえ。ところが不意に「ふたり」が膨らんで、なんの変哲もない銀杏並木を輝かせたんです。そうとしか思えません。

 こんな具合に「ふたり」によって生み出される感情や情動が、人間の人間らしい部分を形づくっていると思うんです。じゃあ死によって人間の動物的な部分、つまり肉体が消滅してしまえば、一人ひとりの人間らしい感情や情動も消滅してしまうんでしょうか。唯物論的に考えるとそうです。あたくしは違う考え方もできると思っています。長くなりそうなので、つづきは明日。(2022.1.27)