きのうのさけび

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 ぼくたちが性交をすると、放出された精子は女性の体内をぐんぐん泳いでいき、卵巣から排卵された卵子と卵管内で出会う。まるでタイタニックの船上でジャックとローズが出会うみたいに。こうして生まれた受精卵は、成長しながら卵管を通って子宮へ向かう。子宮に到達するころには、受精卵は分裂を繰り返して胚盤胞と呼ばれるものになっている。これが子宮壁に着床する。着床とはいうけれど、実際には地面に落ちた種子のように、子宮内膜にもぐり込んで根を張っていくらしい。

 さて、いくら好き合った男女とはいえ、受精卵の半分は父親由来のものである。したがって成長をつづける胎児は、母親にとっては「異物」である。このとき正常な免疫反応が起こっていれば、母親の免疫細胞は胎児を攻撃して、流産などのかたちで排除してしまうだろう。胎児が母親の免疫細胞に攻撃されずに済んでいるのは、なんらかの免疫抑制が起こっているからである。いったいどうして?

 宮沢孝幸さんによると、4000万年くらい前に霊長類の祖先動物が感染したレトロウイルス(HERV-FRD)が、免疫抑制性の遺伝子配列を持ち込んだらしい。レトロウイルスの一つである白血病ウイルスは、免疫機能を弱める遺伝子配列をもっている。哺乳類はこの配列を巧みに利用して、母親の免疫細胞の機能を抑制していると考えられている。レトロウイルスの免疫抑制能力を使うことによって、胎児の細胞が母親から異物として攻撃されることを防いでいるのである。

〈ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ / わたくしはずゐぶんしばらくぶりで / きみたちの巨きなまつ白はすあしを見た / どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを / 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう〉(「小岩井農場」パート九)

 4000年前にぼくたちの祖先がレトロウイルスに感染しなければ、胎盤は形成されず、いまのようなかたちで人類の生存はあり得なかった。もちろんジャックとローズの出会いもなかった。賢治の言葉を借りれば、ウイルスはヒトの「遠いともだち」である。ウイルスや細菌を感染や発病の文脈でのみ語るのは片手落ちと言うべきだろう。「予防」や「治療」や「撲滅」といった言葉しか使えないのは、現代医学の偏狭さを示しているように思える。(2022.6.27)