きのうのさけび

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 学生時代に小説を書きはじめたころには、書いたものが活字になればいいなと思っていた。つぎの目標は一冊でも本を出すことだった。その先までは考えが及ばなかった。少しでもいい作品を書きたいとは思ったけれど、お金のことはまるで頭になかった。まして本がベストセラーになるとか、読めもしない外国語に翻訳されて行ったこともない国で出版される、なんてことは完全に想定外である。

 どうしてこんなことが起こってしまったのか。なぜそれは自分なのか? 本が何百万部も売れて映画化されたりドラマ化されたりしていたころは、現実とうまく折り合いがつかなくて、軽い体外離脱を起こしたみたいに、自分のことが他人事みたいに眺められた。本人はそういう状態なのにインタビューや取材、テレビ出演や講演の依頼などが毎日のように来る。精神的におかしくなる前に肝炎が再発して一ヵ月ほど入院した。ちょうど綾瀬はるかさんのドラマが放送されていた時期で、ぼくはあの番組をリアルタイムで観ていない。

 小説を書くとはどういうことなのか? 森崎茂さんが「内包」や「自己の手前」という言葉をつくってくれたおかげで、ぼくのなかではかなりすっきりしている。自己の手前の「ふたり」という場所で体験したことを、「ぼく」という自己が小説に書いている。そう考えると、いちばんしっくりくる。一つのことを繰り返し書いている気がする。「ふたり」というストーリーを、いろいろな設定や登場人物で手を替え品を替え書いている。なぜ一発で決められないのだろう?

 自己の手前はかならず「ふたり」として体験されている。でも、その「ふたり」は自己が直接に体験できないものだ。事後的にしか体験できない。自己の手前で起こったことだから、現実の体験とは言えないかもしれない。おそらく「I wish I were」というかたちでしか取り出せないものなのだろう。だから書くことには終わりはない。生きることに終わりがないように。ぼくに起こったことは、本当は誰にも起こっていることかもしれない。(2020.8.7)