きのうのさけび

この記事は約3分で読めます。

 ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』はダニの話からはじまる。ダニは目が見えない。音も聞こえない。つまり人間の視覚と聴覚にあたるものを欠いている。彼らは匂い(酪酸)と温度と触覚という三つの知覚信号だけに反応する。森の木の枝の先にじっとしがみついて、動物(哺乳類)が通りかかるのを待ち受っている。すべての哺乳類の皮膚腺から流れ出てくる酪酸の匂いが、ダニにとっては見張り場を離れて下へ落ちろという信号として作用する。そして敏感な温度感覚によって、「いまだ!」という瞬間をとらえて獲物となる何か温かいものの上に落下する。あとは触覚の助けを借りて、できるだけ毛の少ない箇所を探し出すと、皮膚組織のなかへ頭から突っ込み、温かい血液の流れをゆっくり体内へ吸い込むというわけだ。 ユクスキュルによると18年間も断食しているダニが発見された例があるという。18年間! なんと、ダニは18年間も森の木の枝先で獲物が通りかかるのを待つことができるのである。「いまやわれわれは、生きた主体がなければ、いかなる時間も存在しえないと言わなければならない」とユクスキュルは述べている。たしかにそうだ。果たしてダニのなかで時間は流れているのだろうか。ひたすら待機状態にある18年間、時間は流れずに凍結しているのではないだろうか。酪酸の信号を受けて行動を起こすとき、ようやく時間は動きだす。ぼくたちは「待つ」と言うけれど、ダニにとってそれは待つことですらないのだろう。 あらゆる生物はそれぞれが特異な仕方で粗視化した世界を生きている。ユクスキュルは環境世界(Umwelt)と呼んでいる。酪酸と温度と触覚だけで構築され、しかも通常は時間さえ流れないダニたちの環境世界が楽しいものとは思えないけれど、とにかく彼らにとって「世界」とはそのようなものなのである。人間の世界はどうだろう? ダニに比べれば贅沢過ぎるくらい豊かだけれど、それは人間中心的な見方なのかもしれない。嗅覚や聴覚や運動能力など、一つ一つの知覚の機能をとってみればゾウやイヌやライオンやチータなどのほうが、人間よりも格段にすぐれている。彼らは人間とはまったく違った仕方で粗視化した世界を生きているはずだ。人間は人間的な、あまりにも人間的な世界を生きていると言える。 同じことは人間同士のあいだでも言えるだろう。つまり人によって粗視化の仕方にはかなり違いがあると思われる。たとえば這い這いをしている赤ん坊と身長170㎝の大人とでは、生きている世界はまったく違うだろう。家族のなかでも違うはずだ。味や匂いに敏感な妻や、光や音にたいしてデリケートな息子などによって家族は構成されている。それは各自の感覚器官の性能が少しずつ異なっており、粗視化の仕方にも偏りが生まれているからだと思う。人間の知覚は他の動物たちに比べて、一つの感覚器官だけが突出してすぐれているということがないかわりに、わりとバランスよく全方向的に発達しているのではないかと思う。だから少しくらい偏りがあっても生存に支障を来さないのだろう。ぼくたちがペアをつくって一緒に暮らすということは、少しずつ異なった環境世界を生きている者同士が、完全に重なり合うことなく、ズレや隔たりや喰い違いのもとに生きているということである。こうした差異を感知することのなかから意識が生まれ、言葉が生まれたような気がする。(2020.3.19)