きのうのさけび

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 これまでさんざん書いてきたて、「もういい加減にしろ」と言われそうなジェームズ・キャメロン監督の映画『タイタニック』(1997年)を、ここでも使わせてもらおう。親の決めた結婚に絶望し、飛び降り自殺を図ろうとする上流階級の娘ローズと、アメリカへ向かう貧しい画家志望の青年ジャックが豪華客船の上で出会う。二人は惹かれ合い、たちまち恋に落ちる。その直後、タイタニック号は氷山に衝突して沈没してしまう。彼らは冷たい氷の海を漂いながら救助を待っている。しかしローズを壊れたドアの上に乗せ、自らは極寒の海につかりつづけたジャックはついに力尽き、「きみは生きろ」と言い残して海に沈んでいく。

 ここには他力で必然の「還りみちの恋」がわかりやすく表現されているように思う。二人が出会って恋に落ちる過程には、自力の要素はほとんど含まれていない。つまりジャックという個人の主観と、ローズという個人の主観がマッチングして相思相愛の仲になった、ということではまったくない。それなら恋人アプリや出会いアプリのようなAIによるマッチングと同じだ。豪華客船の上でジャックとローズが出会い、一瞬にして「きみは生きろ」という関係になってしまうことを解読するアルゴリズムは存在しえない。コンピュータのアルゴリズムにできるのは、最適なAとBをマッチングさせることである。ジャックとローズに起こっていることは、これとはまるで次元が異なることだ。

 たとえばクラスメートの誰かを好きになる。それまで意識しなかった人のことが、ふとしたはずみに気になってしょうがなくなる。誰にでもあることだが、考えてみるとかなり不思議なことではないだろか。同級生の透明な群れのなかから、いきなり「その人」が立ち現れ、一瞬にして「特別な人」として可視化される。そして気がつくと、四六時中彼女のことを思っている自分がいる。この順序が重要なのである。①出会い→②特別なその人→③恋をしている自分。最初に出会いがあり、つぎに「あなた」が可視化され、最後にあなたを想う「自分」が生まれる。このように「自分」というのは、「あなた」に遅れて事後的に誕生する。いわば「あなた」という他力によって、不可避的に存在させられてしまうのだ。

 人を好きになるということは、まず「好き」ということが起こって、しかるのちに「好き」を介してAとBが、たとえばジャックとローズが実詞化される。だからマッチングさせるべき最適なAとBがどこにいるのかを、あらかじめ解読することは原理的に不可能なのである。別の言い方をすれば、このプロセスに「データ」はまったく介在していない。映画『タイタニック』のジャックは、前もって「理想の人」とか「最愛の人」にかんする主観的なデータを持っていたわけではないだろう。たまたま船に乗り合わせた一人の女性が、ふとしたきっかけで何者にもかえがたい「その人」として立ち現れ、しかるのちに彼女を想っているジャックが生まれる。つまりジャックは「ローズをかけがえのない人とする者」として事後的に誕生している。

 このように誰かを好きになるという出来事は、常に他力として「自己の手前」で起こっている。そして出会うべくして出会ったとしか言いようがない必然の強度にまで、一瞬にしてたどり着いてしまう。「きみは生きろ」と言い残して海に沈んでいくジャックのなかに死の観念はなかったと思う。なぜなら彼には自分を生きてくれるローズがいるからである。またジャックの言葉を受け取ったローズにも死はない。その後の人生で、彼女が生きるのはジャックだからである。

 ぼくたちの生から偶然の要素を排除すると死は消えてしまう。しかし偶然を排除することは自力ではできない。他力にして必然。生の不思議なところである。(2024.7.16)