きのうのさけび

この記事は約2分で読めます。

 人は誰でも例外なく、「最後の恋人」みたいなものを求めて生きている気がするんです。人によっては小学生の時に「最後の恋人」に出会ってしまったということもあるでしょう。20代で出会う人もいるだろうし、生涯の終わりの方に出会う人もいるでしょう。あるいは生きているうちには出会わなかったという人もいると思う。実在する誰かとして出会わない。しかし「最後の恋人」を求めつづけるっていうのは、僕はどうも人間の普遍的な生きる動機のような気がするんですよ。AI社会化が進めば進むほど、その動機は大きくなっていくように思います。

 「最後の恋人」は、人によっては神様かもしれないですよね。その場合の神様は非常にプライベートなものになっていて、みんなが信仰しているようなものじゃない。その人だけの神といいますかね。「最後の恋人」っていうのはちょっと粗雑な言い方で誤解されそうなので、もう少しうまく言いたいなと思うんですけど、実感としてはそういう気がします。

 自分が死ぬときに、どこへ還っていくのか。たぶん「最後の恋人」のところへ還っていくと思うんです。人によってはれは神かもしれない、仏かもしれないし、懐かしい親かもしれない。あるいは自分が生まれ育った故郷とか、そういうものかもしれない。人によっては音楽、芸術なのかもしれない。パブロ・カザルスなんか、チェロだったのかもしれない。それこそ一人一人が手作りするものですから、いろいろだろうと思うんですけどね。

 そこに自分が身を委ねることができるっていうものをみんな求めている気がしますね。太平洋戦争の時、「おかあさん」と叫んで特攻死した人がいるでしょう。日本の国土や伝統にそれを求めた人とか、天皇陛下万歳もあっただろうし、いろいろあったと思うんですね。そういうものよりも、僕は「最後の恋人」という言い方のほうがいい。言葉として色っぽくて、いいんじゃないかな、と…。

 人が死ぬというのはそういうことですよね。何かに自分を委ねる、明け渡す、そういうものがないと、なかなかうまく人は死ねない。

 病気になって助からないっていうならしょうがないじゃないか、無理な延命はよそうっていう割り切り方もできる気がするんですよ。自分が還っていく場所、自分を委ねるものが見つかれば。(2021.6.18)