歴史は人が互いに殺し合ったり、拷問したりする生き物であることを教えている。人間の社会は残虐と信仰心と科学が複雑に絡み合って進歩してきた。おおよそこんなところが、わたしたちの思い描いている人間のイメージだろう。一方で、誰もがふと自分の空腹を忘れて、南インドの気のいいおにいちゃんのようなことをやってしまうことがある。日常においては一瞬のことかもしれないけれど、その一瞬には、人類史を改変しうる大きな可能性が秘められている気がする。
自分が自分であることは、A=Aとはまったく別の現象である。別の次元と言ってもいい。それは誰のなかにも、自分であって自分でないもの、人の起源をなす〈性〉の面影のようなものが痕跡をとどめているからだ。「ある種の霊長類が根源の二人称によぎられて、その驚きを自己という心身において発出した。(中略)善悪未生の圧倒的な善が驚きとともに発語された。ここに人間の意識の起源があり、この意識を分有することにおいてヒトは人となった。」
善悪未生の圧倒的な善とともにはじまった初期人類は、いまもわたしたちのなかに生きつづけている。無限小のかたちで万人に内挿されていて、いつでも飛び出したがっている。そのように人間をイメージすればどうだろう? 殺し合い、奪い合う歴史を書き直すことができる。現行の歴史の上に、別様の歴史を上書きすることができるのではないだろうか。その手掛かりは、言葉として、表現として、死を生きられるものにつくり直すことにあると思う。
〈自己を明け渡す、自己を放下する明け渡しが人間という生命形態の本来的な自然であるということ。明け渡しに棲まうのは自己ではない。自己の手前の実詞化できない根源のふたりだ。明け渡しは自己とは相関しない。相関しないから明け渡しなのだ。自己を明け渡すことなく根源のふたりに触ることはできない。自己ではない、明け渡された、名づけようもなく名をもたぬ他力のはるかな手前に、それはある。〉(「歩く浄土」268)
二年前に亡くなった森崎茂さんが、最後にたどり着いた場所である。いったい何が言われているのだろう? 人によっては「明け渡し」や「放下」という言葉に抵抗をおぼえるかもしれない。自己を明け渡す。自己の一切を投げ捨てる。『ヨハネ伝福音書』のなかで、十字架に掛けられたイエスが息絶える場面を想わせもする。〈イエスその葡萄酒をうけて後いひ給ふ「事畢りぬ」遂に首をたれて霊をわたし給ふ。〉
森崎さんが最後の最後で、吉本隆明の「非知」を否定するのは、それが自己や同一性の残滓を残しているからだ。知と非知の対比のさせ方は、知識人と大衆の対比のさせ方と同型である。つまり知あっての非知であり、どこまでいっても非知は知と手を切ることができない。このわずかな隙間に自力の信が入り込む。途端に非知は、ゲノム編集を含む医学知や生成AIをはじめとするテクノロジーに回収される。「非知」ではなくて「無知」まで行く必要がある。それが「明け渡し」や「放下」という言葉の真意だと思う。親鸞の「禿愚」と言っても宮沢賢治の「デクノボー」と言ってもいいかもしれない。吉本さんの言葉でいえば「生存の最小与件」がいちばん近いだろう。(2024.11.20)