きのうのさけび

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 映画『タイタニック』で一人の青年が自分の命と引きかえに、最愛の人を助けようとする。山手線でホームから落ちた見ず知らずの酔っ払いを助けようとして、たまたまそこにいた人が犠牲になる。ベトナム戦争などでも、自分たちの命を顧みずに戦友の救助に向かう、といった話は多く残されている。

 これらはみんな「英雄」の振舞いと言っていいのではないだろうか。誰のなかにも棲んでいる一人の目に見えない英雄が、たまたま何かの拍子に目の前に躍り出てきて可視化される。そういう場面を象徴しているような気がする。おそらく一回限りのことだ。何回も起こるとすれば、英雄はその人の人格の一部になる。自己を超えた振舞いとして一回限りだから「英雄」なのである。親鸞の悪人正機は、この目に見えない英雄のことを言っているのかもしれない。

 英雄は普段はどこで何をしているのだろう? たとえば『タイタニック』のジャックが図らずも体現してしまった英雄は、彼とどういう関係にあるのだろう? それはジャックの自己なのだろうか? 一応、彼がやったことだから自己ではあるのだろう。しかし彼の人格には帰属しないから、もっぱら自己であるとばかりは言えない。

 自己であって自己でない、自己であり非自己である。そのような領域が、見えない次元として広がっている。そしてぼくたちの自己を背後から支えてくれている。誰のなかにも一人の目に見えない英雄が息づいていて、ぼくたちの生命の根源になっている。

 この英雄はどうやって生まれるのか? ここから先は与太話の域を出ないのだが、誰もが「ふたり」を種として生まれるからではないだろうか。実体としても比喩としても。実体としていえば、ぼくたちは父と母という二人から生まれる。そして父と母の前にも、それぞれに父と母という二人がいたはずだ。このように全人類が一人の父と一人の母という二人から生まれてくる。

 これを可視化すると一人と二人が無限のループをなしているように見えるはずだ。ちょうど膝ループのような感じで、一人は二人の膝にすわり、この二人はそれぞれに、やっぱり一人が二人の膝にすわっている。この壮大な一人と二人の無限ループを、ぼくは「ふたり」と呼んでみたい。(2022.1.7)