きのうのさけび

この記事は約2分で読めます。

 埴輪について、もう少し書いておきたい。なぜ土くれが生命感を帯びるのか。博物館で慎重に保管されている古いものだけれど、赤っぽい素焼きの人も動物も、いま生まれたばかりといった瑞々しさを備えている。その前に長くたたずんでいると、土くれだけれど生きている、生きている人や動物よりも、静かに深く生きているといった感覚にとらわれる。

 素焼きの土人形に感じる生命感の本態はなんなのか。埴輪の人や動物を観ていると、自然科学で「生命」と呼ばれているものが、うわべだけの薄っぺらなものに感じられてくる。埴輪の単純で素朴な深さにくらべると、自然科学の複雑な精密さは底が浅い。そんなふうにも言えそうな気がする。土という自然の素材で表現できていたものが、言葉や科学といった人為が積み重なっていくことで、かえってつかみにくくなっているということだろうか。

 ぼくたちは生きていることを、動いたり喋ったりといった活動的な面でとらえがちだ。しかし生きていることの本質は、むしろ静かに、穏やかに、素朴に、豊かに、安定してありつづけることにあるのかもしれない。命とは、本来的にそういうものかもしれない。

 埴輪は老人に似ている。ふと、そんなことを思う。少なくとも、ぼくが懐かしく追憶する老齢の人たちには、どこか埴輪の面影がある。考えてみると、埴輪は千五百年ものあいだ、ほとんど姿を変えずに、ごく自然に、当たり前のようにありつづけているわけだ。そこに穏やかな、揺るがしがたいものとしての「美」が寄り添ってくる。そうして観ている者は、どこか懐かしいところへ帰ってきたような、不思議な安堵感に包まれる。これは亡くなった人たちを追憶するときの感じに似ている。父や祖父母や曾祖母のことなどを、懐かしく思い出すときの感覚に似ている気がする。

 懐かしい人たちは何十年も前に亡くなっている。以来、ずっと死んでいる。だが埴輪と同じように、静かに、穏やかに「ありつづけている」と感じられる。亡くなった者たちは生きている。生きているものこそ永くありつづける。命のないものは早晩消えていく。永続するものとは命である。生きているものである。死とは生きて永続するものである。そんなふうに死を定義し直すこともできるだろう。未来に追憶される「死」とは、そのようなものかもしれない。(2025.4.15)