きのうのさけび

この記事は約2分で読めます。

 お金というのは、ぼくたちの社会では崇め奉られているけれど、間違いなくフィクション=虚構である。昔は貝殻がお金だった。だから「貨」とか「財」とか「買」とか、お金に関係する漢字にはみんな「貝」が入っている。それが貴金属になったり紙切れになったりして、さらにデジタル暗号みたいなものになろうとしている。こんなふうにお金には実体がない。その社会、その時代の人々が信じているものがお金になる。

 死も同じようにフィクションである。いまはお医者さんが「ご臨終です」と言って判定するけれど、昔はそうではなかった。たとえば『源氏物語』のなかで、紫の上が一時的に亡くなる場面がある。報せを聞いて、光源氏が慌てて院へ戻ると、すでに僧たちは病気平癒の祈祷のための檀を壊して退出しはじめている。院では紫の上に仕えていた女房たちが泣き騒いでいる。当時の僧侶はお医者さんみたいなものである。お医者さんが「ご臨終です」と言っているわけだ。

 しかし諦めきれない光源氏は、ダメ元で大がかりな加持をさせる。すると紫の上に取り憑いていた物の怪が調伏されて、死んだはずの彼女は生き返る。こんな具合に平安時代の死は「ご臨終です」で終わりではなかった。「殯宮」(もがりのみや)にしても、亡くなって数ヵ月は死が確定しなかったので、そういうところに安置して、遺体が腐敗・白骨化していくのを確認したわけだろう。天皇などの場合は一年間ほど置かれたというから、すさまじいものである。

 その時代の、その社会の死がある。つまり死はフィクションということになる。虚構だから、かならず消せる。どうやって? 固有な生の場所で、死はおのずと消えているのではないだろうか。なぜなら固有性のなかには、社会的なものも共同的なものも入り込む余地がないからである。

 ところで固有性というのは、自分一人ではつくり出せない。自分のなかに固有のものは何もない。かならず他者からの働きかけがあって、それに受動的に応答することで生まれる。ジャックとローズの場合も、双方が他者からの呼びかけに応答することによって、ジャックはジャックの、ローズはローズの固有な生を生きることになっている。「98歳 元気です」の場合も、亡くなった夫からの呼びかけに応えつづけることで、98歳の老女は亡くなった夫とともに生きられる死をつくり上げた。このあたりが人生の面白いところだと思う。 (2024.7.20)