あの日のジョブズは(8)

あの日のジョブズは
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8.シリコンバレー

 午前8時、近くのスターバックスで朝食をとる。コーヒーとベーグル。温かいベーグルにチーズクリームを塗って食べると美味しい、ということをこちらに来てから発見した。美味しいので毎朝食べている。家ではヨーグルトと果物、豆乳、それにコーヒーくらいだ。日本にいるときよりも糖質をたくさんとっている。ジョブズを探しにきて太ったのでは笑い話にもならない。
 写真家が予約を入れておいてくれたモーテルはギルロイにある。シリコンバレーまでは車で三十分ほどだ。近くに巨大なアウトレットのショッピング・モールがある。コロンビア、アバクロンビー&フィッチ、アンダーアーマー、ナイキ、ブルックスブラザーズ、ラルフローレン、リーヴァイスなどアメリカの衣料ブランドが入っている。ここで家族へのお土産を買っていくことにする。車はギルロイから北へ向かってサン・ノゼ、サンタ・クララ、サン・マテオとサンフランシスコをめざして聖なる町を進む。

 現在ではヒューレッド・パカードやインテルをはじめとして、アップル、グーグル、フェイスブック、ヤフー、ツイッター、ユーチューブなど多くのIT企業が本拠を置くシリコンバレーだが、「シリコンバレー」という町や自治体があるわけではない。一般的には、サンフランシスコ湾の南に延びる細長いエリアをさすことが多いようだ。1950年代まで、このあたりはリンゴやアプリコットなどの果樹園が広がる長閑な農業地帯だった。だからリンゴとシリコンを結び付けた「アップル・コンピュータ」という社名は象徴的である。当時のジョブズは、果物と、デンプンを含まない野菜しか食べないという、極端な菜食主義を実践していたらしい。リンゴもよく食べていたのだろう。
 スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックという二人のスティーブが、ジョブズの家のガレージでアップル・コンピュータを創業したのは1976年のことだが、ガレージで創業の先例は40年ほど前の1938年に遡る。この年、デヴィッド・パッカードと新婚の妻がパロ・アルトに入居した。その納屋にデイブの友人、ビル・ヒューレットが住み着く。二人はパッカード家のガレージを工房として、最初の製品である低周波発信機を作り上げる。二人が創業したヒューレット・パッカード(HP)は、1950年代、計測器メーカーとして急速に発展していく。いまやIT企業の老舗として知られるヒューレット・パッカードの歴史は、こうしてはじまった。

 その伝説的なガレージを訪れる。二階建てのレンガ造りの家はいくらか古風な感じだ。屋根は緑で落ち着いた雰囲気を湛えている。細い通路の奥には、有名なガレージも見ることができる。ここでヒューレッドとパッカードが低周波発信機を組み立てた。建物の前に、「シリコンバレー発祥の地」という看板が立っていて、合衆国内務省が管理していると書いてある。なるほど。これはもう正史と言っていいだろう。
 シリコンバレーの観光スポットになっているらしく、たくさんの人がやって来て家の前で記念写真など撮っている。ジョブズの家の孤独なたたずまいとは、ずいぶん趣が異なる。世界有数の金持ちにして超有名人となったあとも、ジョブズにはどことなく孤独な影がつきまとう。そこが彼らしくもあり、いまもなお多くの信奉者を生み出している要因なのかもしれない。

 シリコンバレーと半導体のかかわりは、1956年にトランジスタ発明者の一人、ウィリアム・ショックレーがニュージャージー州のベル研究所からマウンテンビューに移り、当時一般的だったゲルマニウムに代わり、安価なシリコン(ケイ素)でトランジスタを作る会社を創業したことにはじまる。「シリコンバレー」という名前は、このとき半導体の原料として使われたシリコンに由来している。
 その後、ショックレーのプロジェクトでシリコン・トランジスタの研究をおこなっていたロバート・ノイスやゴードン・ムーアら8人のエンジニアが独立して会社を設立する。この会社を退社したノイスが、さらにゴードン・ムーアらとともに設立した新しい会社がインテグレーテッド・エレクトロニクス・コーポレーション、すなわちインテルである。1980年代に入ると、インテルはメモリー・チップからマイクロ・プロセッサへ事業を転換し、大きく成長していく。
 シリコンバレーに多くのベンチャー企業が集まるようになった要因としては、スタンフォード大学の存在も大きい。西部開拓時代の大陸横断鉄道で名を馳せたリーランド・スタンフォードが、15歳で病死した一人息子を追悼する意味で1855年に設立した私立大学。リーランドは遺言で、大学の土地を売却することを禁じていた。そこで大学は1951年、所有する広大な土地を企業に長期貸与することにした。「インダストリアル・リサーチ・パーク」と呼ばれるプロジェクトは、資金調達と産学両者の活性化を促し、多くのハイテク産業がこの地域に集まるようになった。

 いまさら説明する必要もないかもしれないが、半導体というのは、その名のとおり電気伝導性のいい金属などの導体と、電気抵抗率の大きい絶縁体(ゴムなど)の中間的な低効率をもつ物質のことで、ケイ素(シリコン)やゲルマニウムなどが代表的である。半導体は熱や光、磁場、電圧、電流、放射線などの影響で、その伝導性が顕著に変わる。こうした半導体の電気的特性を利用して作られる電子部品(半導体素子)がトランジスタ(transistor)である。ではトランジスタは、コンピュータでどういう役割を果たしているのか?
 コンピュータとは数学的演算を行う電子計算機である。現在のデジタル・コンピュータは、アラン・チューリングが提示した理論上モデルをフォン・ノイマンが実装したもので、ノイマン型(ノイマン・マシン)と呼ばれる。その特徴は、二進法の基本演算を組み合わせることで、あらゆるデジタル処理が可能になるように設計されていることだ。簡単に言うと、一つの論理が等式のかたちで与えられていて、入力がこの論理を満たすかどうかで1か0を出力する。基本的な論理演算を行う回路は三つあり、これらを組み合わせることで加算や減算といった演算を行う。コンピュータのプログラムは、こうした電子的演算を行う命令で構成されている。
 コンピュータでは論理演算の真か偽か(1or0)に高電圧と低電圧が対応している。このためコンピュータを作動させるためには、電流を正確にコントロールする必要がある。初期のコンピュータはこれを真空管で行っていた。フィラメント(陰極)とプレート(陽極)のあいだにグリッドを配置した、いわゆる三極菅である。こうした三極菅は信頼性が低いうえにかさばる。1947年から1955年まで試験的に運用されたENIACは18000個の三極菅で構成され、テニスコートほどの大きさだったという。重さは30トンで、しょっちゅう切れるためにメインテナンスが大変だった。また一時間当たりの消費電力は15世帯の一日分に相当したという。
 真空管にくらべトランジスタ(NPNトランジスタ)はずっと効率的でコンパクトだ。原理は三極管と同じで、ある閾値を超えた電圧がかけられると電流が流れ、そうでなければスイッチはオフのままになる。入力電圧のわずかな変動により、出力電流の高低をすばやく切り替えることができる。現在のコンピュータには数十億のトランジスタを組み込んだマイクロ・プロセッサが使われ、毎秒何兆もの計算を行うが、それを支えているのはスイッチのオン・オフという単純な作業である。

 1970年代のコンピュータにはすでにトランジスタが使われていたが、なおメインフレームと呼ばれる巨大なマシンだった。コンピュータのために部屋が一つ必要になるような代物で、とても個人で所有できるものではなかった。使っているのは主に航空会社や銀行、保険会社、一部の大学などだった。
 ちょっと個人的な話をさせてもらうと、ぼくが大学に入ったのは1977年で、当時は理学部に電算機センターというコンピュータ専用のフロアがあった。どういう経緯だったのか、学部四年生のころに電算機センターでいらなくなったものを処分する手伝いをしたことがある。大きな段ボールを幾つも運び出したのをおぼえている。なかに入っていたのはパンチカードである。
 当時のコンピュータはカードによってプログラムを読ませていた。COBOLやFORTRANといったプログラミング言語を使い、一行一ステップで計算や分析の論理的な流れを書いていく。ぼくもFORTRANの授業を受けたことがあるけれど、時間の無駄だと思ってすぐにやめた。この面倒くさいプログラムを、さらにタイプして穴の開いた場所で表示していく。簡単なプログラムでも数十枚のカードを必要とし、複雑なプログラムになると何百枚、何千枚ものカードが必要になった。さすがに70年代も末になると、九州の田舎大学でもコンピュータにパンチカードは使われなくなっていたのだろう。不要になったカードの処分をぼくは手伝ったわけである。
 70年代をとおしてトランジスタは驚異的なスピードで進化していく。まさにムーアが予測したとおり、IC(集積回路)はあっという間にLSI(大規模集積回路)へ移行し、複雑な処理を行うために組み合わされた複数の回路が、たった一つのチップに取って代わられるようになった。かつてはハンダ付けされた回路基板が、わずか数センチ四方ほどの小さなチップのなかに組み込まれるようになった。そこからさらに汎用のマイクロ・プロセッサが生まれる。
 最初の汎用マイクロ・プロセッサと言われるインテル4004は、もともと電卓の機能である四則演算をさせるために開発された。つづいて発表された8008、3代目の8080へと進化するにつれて、性能は著しく向上し、より複雑な命令を実行することが可能になった。この汎用マイクロ・プロセッサにソフトウェア・プログラムという命令群を読み込ませることで、用途を大幅に拡張したのがマイクロ・コンピュータである。これが後にパーソナル・コンピュータと呼ばれることになる。

 1975年、MITS社がマイクロ・プロセッサに他の部品をつけ、マイクロ・コンピュータの組み立てキッドとして販売する。雑誌のメールオーダーで販売された「アルテア(Altar)」というキッドは、プログラミングをすること以外に明確な用途をもつものではなかったが、予想外のヒットとなりマニアのあいだで流行になる。マイクロソフトを創設するビル・ゲイツとポール・アレンも、このキッドに触発されてアルテア用BACICの開発をはじめたと言われている。
 マニアのあいだでコンピュータのミニチュア版を自分たちで製作することがブームになっていく。専門誌が創刊されるようになり、情報交換会が自発的に開かれるようになった。その一つがゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが立ち上げたホームブリュー・コンピュータ・クラブである。当時、5種類ほどあったマイクロ・プロセッサにかんする情報を共有するためにはじまったようだ。このクラブでジョブズとウォズニアックは親交を深めていく。ときにジョブズは21歳、ウォズニアックは26歳だった。

Photo©小平尚典