あの日のジョブズは(6)

あの日のジョブズは
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6.すい臓がんのイエス

 神の子・イエスを生み出したのは、ローマ帝国に支配されたユダヤ人の絶望感だった。マルコたちによって書かれたイエスをめぐる物語が福音(良い知らせ)としてもたらされたころ、パレスチナはローマによって制圧され、ユダヤの民は約束の地から追い払われ、民族として消え去ろうとしていた。聖地エルサレムは灰燼に帰し、多くの住民が虐殺された。蜂起はことごとく鎮圧され、反徒は処刑され、あるいは自害して絶えた。ユダヤの神は打ち砕かれ、神殿は汚された。まさに終末の到来だった。
 ぼくたちもまた終末の予感のなかを生きている。未来のことを考えるほど絶望的な気分になる。絶望にとらわれないためには未来を遮断することだ。思考停止に陥ること。いまだけ、ここだけ、自分だけ。生きることは多かれ少なかれ現実逃避の様相を呈している。スマートフォンは思考停止と現実逃避をかなえてくれる格好のガジェットだ。みんなまわりのものを見ようとしない。現実の世界から目を背けて、小さな液晶パネルに見入っている。タッチパネルに指を触れ、縦や横にスクロールしたり指先で小刻みに叩いたり……そうやっていまだけ、ここだけ、自分だけを生きている。
 この異様な光景は頑ななデタッチメント(非関係性)を感じさせる。政治や社会、延いては外界そのものへの徹底したデタッチメント。国家が為政者や企業家たちによって私物化されメルトダウンしつつあること。そのことへの倦厭感や無力感が根深く人の心に広がっている。もう見たくないし、聞きたくないのだ。ポリティカル・コレクトネスも自国第一主義も嘘だということは先験的にわかっている。新自由主義の幻想は過去のものになった。何をどうしたところで、この現実は変わらないという諦観。宿痾のようにして取り憑いたニヒリズム。それが多くの人たちをスマホに没入させている、いちばん大きな要因ではないだろうか。
 場面を変えれば、老後の蓄えが何千万というのも、スマホへの没入と変わらない。年金をもらって、大きな病気をしなければなんとか逃げ抜けられる。そのために健康や老化防止に気を配る。自分のことは気にかかるけれど、世界のことは気にしない。気にしたところでどうしようもない。混乱を極め、複雑にもつれ合った世界をどう解きほぐせばいいのかわからない。そんな意志も気力もない。ただ自分一人のこととして通過し、ピンピンしたままコロリと死にたい。これもまたかたちを変えた「いまだけ、ここだけ、自分だけ」であり、私性に徹した生存のあり方だ。
 それほど遠くない将来に、この世界が終わることを多くの人が予感している。誰もが漠然とした滅びの予感のなかを生きている。しかも悪い予感は日ごとにリアルさを増しつつある。リーマン・ショックの後にはじまった各国中央銀行による量的金融緩和政策は、すでに引き返せないところまで来ている。日本政府が発行する国債は返済能力を大幅に超えている。金利がゼロやマイナスであっても、実体経済のほうはインフレどころかデフレ傾向が止まらない。それだけ実体経済と金融が乖離しているということだろう。中央銀行がばらまく合法麻薬のような通貨が成長を偽装することで、なんとか世界経済は延命している。いつまでもつづくとは思えない。どこかで資本主義的な世界経済は崩壊する、と多くの人が口には出さないけれど思っている。
 さらに化石エネルギーの払底や、気候変動による温暖化や水不足も表面化している。今後は一層の自然破壊が進み、各地で飢饉と病気が生まれるだろう。まず後進地域ではじまり全世界に及ぶ。これに経済危機が重なれば世界中が混乱し、ただちに剥き出しの生存競争がはじまる。おそらく世界中がシリア化するだろう。兆候はすでにある。惑星を覆った不安と絶望が、人種や宗派や国籍を超えて広く世界中の人々に共有されている。そのなかで人々は救いを求めている。マルコたちの時代に虐げられたユダヤ人が神による救済を切望しように、ぼくたちもまた救済を待ち望んでいる。

 神は救いにならない。このグローバル化した惑星において、「神」という言葉はすでに虐殺の文法に組み込まれている。どこかで誰かが自分たちの神の名を口にした途端に殺し合いがはじまる。スリランカでは仏教徒であるかキリスト教徒であるかヒンドゥー教徒であるかイスラム教徒であるかによって、互いに敵味方となり襲撃の対象になる。まるで虐殺のアルゴリズムが地球を覆っているかのようだ。ひとこと「神」という言葉がつぶやかれると、ただちに虐殺のアルゴリズムが駆動しはじめ、敵と味方を選別せよ、敵を憎め、見方を守れ、といったステップを踏んで殺し合いがはじまる。
 AIはどうだろう? なんらかの特異点を超えたとき、AIは神の代用品にならないだろうか。ぼくたちは神なるAIの出現を待ち望んでいるのだろうか。

 二一世紀のテクノロジーのおかげで、外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になるかもしれない。もしそうなれば、個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移る。人々は、自らの願望に即して生活を営む自律的な存在として自分を見ることがもうなくなり、自分のことを、電子的なアルゴリズムのネットワークに絶えずモニターされ、導かれている生化学的メカニズムの集まりと考えるのが当たり前になるだろう。それが実現するには、私を完璧に知っていて絶対にミスを犯さない外部のアルゴリズムは必要ない。私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムであれば十分だ。そういうアルゴリズムがあれば、それを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理に適っている。(ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』柴田裕之訳)

 たとえば癌などの病気にかかると、多くの人は自分の命を含めて医者に判断と決定を委ねる。患者が自ら進んで主体であることを放棄し、大切な「自己」をそっくり医者に預けてしまう。医者のやっていることの多くは、血液検査や画像診断などのデータに依拠している。こうしたデータから診断を下し、薬を処方したり治療方針をきめたりしている。つまり現在でも医者の仕事は、AIが行うこととよく似ているのだ。病院などでぼくたちが対面するのは人間の医者だが、やっていることの中身の多くはデータ処理になっている。
 今後はAIが医療の現場に参入してきて、医師たちは病気の診断や治療方針についての判断を、医療用のアルゴリズムに頼るようになるだろう。医療行為用にプログラムされたAIが行うのは、数万から数十万という膨大な症例を参照して演算し、瞬時に的確な診断を下すといったことだ。診断の結果を人間の医師が患者に伝える。そして薬を処方したり治療方針を説明したりする。表面上は、いまの医療現場とほとんど変わらない。しかし中身はまったく変わっている。ぼくたちの心身の健康を見守り、適切なアドバイスを与えたり治療の選択肢を示したりするのは、もはや人間の医師ではなく膨大なデータを処理しているAIである。
 ユヴァルによると、フェイスブックで「いいね!」を10回クリックすると、ぼくたちの性格や気質にかんして会社の同僚よりもフェイスブックのアルゴリズムのほうが正確に知ることになるらしい。友人の精度を上回るには70個、家族を上回るには150個、配偶者を上回るには300個もあれば充分だという。「もしあなたが自分のフェイスブックのアカウントで『いいね!』を300回クリックしていたら、フェイスブックはあなたの夫や妻よりも正確に、あなたの意見や欲望を予測できるのだ!」(前掲書)。なるほど「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能になる」と言えば、言えないこともない。
 これが格下げされた現代の「神」である。旧約聖書の神は「ヤハウェ」と呼ばれた。現代の神はアルゴリズム、またの名をAIという。それは文字通り、全知全能の神である。全知。すべてを知っている。逆に言うと、すべてを知られている。学歴、職歴、病歴、犯罪歴、結婚歴、人柄、収入、金融情報、趣味、嗜好、DNA情報……あらゆるものがデータとして蓄積される。その結果、ぼくたちは隅々まで知られてしまう。告解の必要はない。ツイッターでつぶやいたり、ブログに書き込んだりすることが神との対話の代わりを果たす。いや、そんな面倒なことをしなくても、アマゾンで買い物をしたり、グーグルで検索をしたり、フェイスブックで「いいね!」をしたりすることで充分だ。
 蓄積されたデータをAIのアルゴリズムが分析して、一人ひとりを導き、教え、諭し、管理し、監視し、操作し、懲罰を下す。まさに全能である。全能ではあるが、表面上は横暴ではない。ヨブが遭遇した神のように理不尽ではない。人間が創造した神は、何よりも合理を尊ぶからである。この合理によって、地球上の全人類に最低限の幸福(Welfare)を提供する。万人に思いやりと慈しみを供与する。なぜなら新しい神の前で人はデータであり、資源であるからだ。公共のリソースであるからだ。
 結果的に、1%が99%を収奪する世界が立ち現れる。そのことが是とされる。全知全能とはいえ、21世紀に君臨する神は多分に浅ましい。アルゴリズムという数学演算の神だから、全知全能のなかに浅ましさを宿してしまうのだ。こうした神の実体をなすのは、ユヴァルが言うように「電子的なアルゴリズムのネットワーク」である。そこには一人の独裁者も、実権的なCEOもいない。どこにも中心がない。1%も99%もネットワークのなかで規律を守って生きている。伊藤計劃が『ハーモニー』で描いたような、見かけ上は平和で静謐な世界がやって来るだろう。そのなかで「平和」の概念はまるで変わってしまう。21世紀の平和とは希求されるできものではなく、嫌悪され、打ち破られるべきものである。平和を乱し、反逆することが、唯一の主体的な生き方になる。つまり自爆テロや自殺・自傷のなかに「自分らしさ」が求められる。

 どうしてこんな世界しか思い描けないのだろう。なぜ人間はアルゴリズムである、などという科学的迷妄に説得されてしまうのだろう。「意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない」(ユヴァル、前掲書)といった陳腐な言い方に、理性も良識もあるはずの人たちが容易に屈してしまうのはなぜなのか?
 人間への嫌悪感。人間であることへの絶望だと思う。ぼくたちの多くは人間であることに疲れている。自分や他人が人間であることにうんざりしている。そこに「人間はアルゴリズムに過ぎない」という科学的迷妄が心地よく染みわたっていく。スマホやPCを漂流しながら、ぼくたちは膨大な情報のどこかに世界終焉のプログラムが書き込まれているのではないかと探しまわっているのかもしれない。この世界が静かに終わる日を待っている。自分たちたちがその目撃者になることに、せめてもの慰安を見出そうとしている。

 もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう? データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する。(ユヴァル、前掲書)

 人間はアルゴリズムであるという断定は、一個のリンゴと一匹の猫はともに「1」である、というのと同じくらい目の粗い抽象の仕方である。もちろん粗視化のレベルを上げれば、リンゴと猫の差異もアルゴリズムによって表現することはできる。しかし「この猫」という絶対的差異をアルゴリズムで表現することはできない。そして人が生きることは、「この猫」や「この人」や「このとき」といった絶対的差異の流れである。仮にアルゴリズムが、ぼくたちについてぼくたち以上に知ることになったとしても、それでいったい何を知られたことになるのだろう? 私が私であることの意味や価値は、そんなところにはないはずだ。
 父が亡くなる前の数日間、いつ呼吸が止まってもおかしくない状態の父に、ぼくと母は交代で付き添うことにした。最後になって入ることのできた緩和病棟は静かで、苦しげな呼吸の音と、吸引用の酸素が蒸留水のなかでたてる泡の音だけが、病室のなかをいつ果てるともなくさまよっていた。ぼくはベッドの傍らのソファに腰を下ろし、じっと父の様子を見ていた。苦しみを和らげるために、すでにモルヒネの投与がはじまっていた。
 それは不思議な体験だった。ベッドの上には、苦しげに息をする一人の老人が横たわっている。長期間にわたる絶食のためにやせ衰え、生命の灯はいまにも消えようとしている。もはや呼びかけても答えることはなく、開きっぱなしの眸はほとんど動かない。止まりかける呼吸を維持することが、この肉体にとっては精一杯なのだ。父は死のうとしていた。
 止まりかける父の呼吸を見つめながら、ひときわ強く心に迫る真実として、ぼくはつぎのことを思った。この状態の父、意識がなく、か細い息をつなぐだけの、他人から見ればまったく役立たずの肉体を「かけがえのないもの」と感じる。この者が生物学的に、物質的に、ただ存在することを無条件に承認する。この存在するだけの肉体に絶対的な価値を見出す。そのような者で自分はある。ぼくが生まれたときに、おそらく父がそうしてくれたであろうように。

 ジョブズはテクノロジーと人間の距離を縮めた。至近距離を通り越して、ほとんど距離は消滅したと言っていいくらいだ。いまやスマホは人間と一体化している。神の子・イエスによって神が内在化されたように、テクノロジーは人間の内部に移植された。これが救いなのだろうか? 人間がテクノロジーとデータの海に姿を消すことが。ぼくたちが待ち望んでいた福音(良い知らせ)とは、こんなものだったのだろうか。
 きみが生きていたら、いまのぼくたちの現状を見てどう思うだろう。この世界に何を感じるだろう。新しい製品を世に送り出すことが、きみにとっての表現だった。いまこの世界に、きみは一人の表現者としてどんな製品を送り出すだろう。iPhoneをモデルチェンジするくらいで満足するとは思えない。きっと宇宙に衝撃を与えるような、斬新なプロダクトによって人々を覚醒させようとするはずだ。すい臓がんに斃れ、復活を遂げたきみならば。きみが果たせなかったことを、ぼくは言葉でやってみようと思う。

Photo©小平尚典