あの日のジョブズは(4)

あの日のジョブズは
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4.「i」はindividualのi?

 ジョブズが残した言葉は、いまなお不思議な魅力を湛えている。言葉と彼自身とのあいだに距離を感じさせない。本人が本気で、本心から言っていることが伝わってくる。そのため言葉が生きている。彼の公式バイオグラフィー(ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』井口耕二訳)から幾つか引用してみよう。

 「僕らはここで未来を創っているんだ。波の先端でサーフィンをするのはすごく気持ちがいいだろう? でも、波の後ろを犬かきでついて行くのはあまりおもしろくないはずだ。僕らと一緒に宇宙に衝撃を与えてみないかい?」(プログラマーを引き抜くときの説得の言葉。)
 「つまり僕は、貧乏という、お金の心配をする必要がないという意味ですてきな生活から、信じられないほどの金持ちという、これまたお金の心配をする必要のない生活へと移ったわけだ。」(自分の人生を振り返って。)
 「人類はいつも過去の成果の恩恵をこうむってきた、先達が開発したモノを活用してきた。人類の体験と知識という財産にお返しができるモノを生み出すのは、うっとりするほどすばらしいことなんだ。」(マッキントッシュ発売にあたって。)

 どの言葉にも押し付けがましさがない。奇妙に明るく、楽観的で、それでいて力強い。きわめて有能なビジネス・センスをもちながら、不思議とジョブズにはお金の匂いがしない。金銭的なものにたいする執着を、あまり感じさせない。これもジョブズという人間の面白いところだ。

 いいものをつくることへの思いが、常に利益をあげることに優先していたのだろう。もちろん売れるに越したことはないが、それを最優先に考えることはなかった。売れるものではなく、みんなをあっと言わせるもの、感動させるものをつくりたかった。
 細かいデザインやパッケージへのこだわりは異常なほどだったらしい。「とにかく製品にたいする情熱、完璧な製品に仕上げる情熱が半端じゃありません」と社員の一人は証言している。彼はなんにでもかかわっていた。興味深い逸話が残されている。マッキントッシュのデザインが完成したとき、ジョブズは開発チームを集めてお祝いをした。彼は45人のメンバー全員に署名を求めた。それらの署名は、ジョブズ自身のサインとともに、すべてのマッキントッシュの内側に彫り込まれているという。
「アーティストは作品に署名を入れるものだ」
 なるほど。パーソナル・コンピュータを作ることは、彼にとってはアートだったのだ。自分を表現する手段だった。ジョブズがビジネスにおいて提供するものは、彼自身の作品だった。だからいいものを作りたかった。素晴らしい製品を生み出したかった。ジョブズにとって、アップル社の製品を世に問うことは、自分自身を世に問うことに等しかった。

 こうしたアーティスティックなビジネス・スタイルが、多くのユーザーにアピールしたのだと思う。アップル社の製品はクリエイティブな人々に訴える。クリエイティブでありたいと思っている人にも、自分はクリエイティブであると錯覚している人にも訴える。この世界で何を売るべきか、ジョブズは直感的に知っていたのだろう。
 そのあたりがユニクロとの決定的な違いだ。たしかにユニクロが提供する衣類は安価で品質がいい。だから売れるのだろうが、ユニクロの製品が客のクリエイティブな心をくすぐることはない。また柳井正が自分の作品として、シャツやパンツをつくっているとも思えない。もしそうなら、「自分はこんなお粗末な人間です」と言っているようなものではないか。
 さらにジョブズは、ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグなどのIT起業家たちとも違う気がする。たとえばビル・ゲイツが世界最大の慈善基金団体を創設したり、ザッカーバーグが莫大な自己資金を社会貢献活動に寄付してみたり、社会的なポーズも含めて、そういったことに彼らはわりと熱心だ。ユニクロも難民を雇用している。まあ世界中の店舗で100人ほどだが。一方、ジョブズが慈善活動や社会貢献に関心を示した形跡はない。彼のイメージとも合わない。先にも述べたように、若いころのジョブズの関心は徹頭徹尾、「自己」にあった。
 だからiMacもiPodもiPhoneもiPadも、頭に「i」が付いているのだろう。それらは魅力的なガジェットであるとともに作品であり、ジョブズという一人の人間の延長であり分身だった。「i(私)」とは何よりもジョブズ自身の「私」であった。それが多くの人たちの「私」と共鳴し、共振し、一つの大きなうねりをつくり出していったのかもしれない。

 宇宙に衝撃を与えるような製品を生み出すことが、ジョブズにとっての表現だった。未来を発明すること以上に、やりたいことはなかった。だから慈善活動や社会貢献には興味を示さなかったのだろう。他の表現手段は必要なかった。やりたいことは、すべてビジネスの場でやる。一つの製品に、すべてを表現する。
 アンセル・アダムズの写真が好きだったという。ベーゼンドルファーのピアノや、バング&オルフセンのオーディオも好みだったらしい。いい趣味をしている。こうしたジョブズの美的感覚が多くの人たちの個の心にアピールしたことは間違いない。さらに子どものころから好きだったエレクトロニクス。学生時代にハマった菜食主義、禅、瞑想、スピリチュアリティ、LSD、ロック……60年代にサブカルチャーが追い求めた理想。それらがジョブズのなかで一つになって、未来を切り開くような斬新な製品を生み出していった。

 常にクリエイティブでアーティスティックなジョブズの姿勢、彼が抱いているヴィジョンが広く世界に受け入れられた。国を超えて多くの人たちが魅了された。そしていま、ぼくたちが日常的に目にするのは、一心不乱のスマホを操作する人たちである。彼らはみんな隣人の顔を見ずにスマホを見ている。それなのに識別不可能なまでに似通っている。まるで相互に模倣し合ったかのようだ。誰もが誰かのレプリカントのように見える。
 これがきみの夢見た世界なのか? 一人ひとりの個人にかわって無限にコピーされていく人の群れをつくり出すことが。きみが世に送り出した製品は、クリエイティブともアーティスティックとも無縁の人々を養成しているように見える。「畜群」という言葉を使いたくなるときがある。彼らはときには正義を振りかざす。弱者に同調する。権力を攻撃する。つまり裁くことを好むのだが、絶対に自分は裁かれたくないと思っている。それはいい。だが裁くための自分の目や言葉をもっているだろうか? 自分の目で見て、自分の言葉で裁いているのだろうか? 検索によって探し出した他人の視線と言葉によって気に入らない者を貶める。そして自らは安全な場所に身を潜める、素性を隠す、片隅に忍び込む……そうした陰湿にして極度に没我的なナルシストの群れを、きみは育ててしまったのではないか。
 きみのご自慢のワイドな液晶パネルに見入っているうちに、みんな盲目になってしまったのだろうか。彼らのなかに個人は生き残っているのだろうか。どうしてこんなことになったのだろう。やり方を誤ったのか。初期設定が間違っていたのか。きみならどうする?
 いま求められているのは、新しい使い方を発明することなのかもしれない。いかにしてスマホをナルシシズムから解き放つか。現実逃避を超えたガジェットとして蘇らせるか。埋葬されたイエスは三日後に墓のなかから甦った。ぼくはきみの作品に新しい光をあてることで、死んだきみを復活させたいと思っているのかもしれない。

Photo©小平尚典