あの日のジョブズは(14)

あの日のジョブズは
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ホール・アースな問題(後半)

 ここでいよいよダグラス・エンゲルバートが登場する。マウスの発明者として有名な彼は、バークレーでコンピュータ・サイエンスを専攻したのち、60年代にスタンフォード研究所(SRI)に職を得る。この研究所にはスチュアート・ブランドがいて、仲良くなった二人は一緒にLSDを試しながらその効果を学術的に研究しようと考えていたらしい。
 当時のスタンフォードで盛んに行われていたのは、人間の脳のニューラル・ネットワークを模倣したシステムの開発という、このところ脚光を浴びている人工知能(AI)につながる研究だった。しかしエンゲルバート自身は人工知能の分野に興味をもてなかった。1950年代にマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーによってはじめられた研究は、人間の脳の機能を機械の上で再現しようとするものである。こうした考え方の延長線上に、いずれ人間の知能を超えるAIが生まれて世界を支配するようになる、といった現在のシンギュラリティ議論がある。
 エンゲルバートが作りたいと考えたのは、人と密接に連携して情報を整理し、人間の知能を増強し拡張する機械であり、これは人と機械が協力し合うことを土台にした、ノーバート・ウィーナーのサイバネティクス理論に近い。エンゲルバート自身は、パーソナル・コンピュータというコンセプトを考案したヴァネヴァー・ブッシュの「人の労働と思考を支援する」という考え方を受け継いだと語っている(ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』)。
 ブッシュは1945年の論文「我々が思考するように(As We May Think)」において、「メメックス(Memory Extender)」というパーソナル情報システムを構想している。その名のとおり人間の記憶を拡張するためのシステムで、必要な情報をキーワードで見つけ出し関連項目をすぐに探し出せるという、現在のグーグルなどの検索サイトが実現している機能をもつものだ。こうしたブッシュのアイデアを、エンゲルバートは「拡張知能」と呼ぶようになる。そして拡張知能を研究するために、国防総省の研究機関(ARPA)やNASAから資金提供を受けて自分の研究施設、オーグメンテーション・リサーチ・センター(ARC)を設立する。
 エンゲルバートの考え方は「オーグメンテーション(augmentation)」という言葉によくあらわれている。つまり「拡張」である。機械を知的にするのではなく、人間の知能を拡張する。AI(Artificial Intelligence)ならぬIA(Intelligence Augmentation)で、人工知能とは逆の発想である。こうしたエンゲルバートのアイデアには、ブッシュの論文とともにLSDの影響が認められるように思う。複雑な脳のニューラル・ネットワークを模倣して、人間の知能に匹敵するものを機械で作るよりも、機械と協力して人間の知能を増強し拡張する方法を考えたほうが手っ取り早いし、はるかに効率的である。それはエンゲルバート自身がLSDの効果として体験済みだったはずだ。このLSDの効果を機械によって代行してやればいい。
 彼は人間と機械がたやすく対話できる方法として、まずスクリーンに表示されたものを選択するデバイスを作ることにした。こうして生まれたのが「マウス」である。偉大な発明は得てしてシンプルな発想から生まれるようだ。マウスも原理は簡単で、机の上でデバイスを動かすと、二つのホイールがそれぞれの方向に回転して電圧が上下する。この電圧をコンピュータのスクリーンに送れば、カーソルを上下左右に動かすことができる。
 この画期的なデバイスの発明によって、頭と手と目を連動させる人間の能力を利用して、コンピュータとの自然なインターフェイスを作ることが可能になる。独立して働くのではなく、人間と機械が一体になって動く。まさに人と機械の密接な連携である。エンゲルバートの発明したマウスがゼロックスのPARCを経由してアップルに持ち込まれ、ジョブズたちによってよりシンプルで洗練されたかたちでMacintoshに採用されることになるのはすでに触れたとおりだ。

 エンゲルバートの発明はマウスだけではない。その概容を知るのには、1968年12月にサンフランシスコでおこなわれ、後に「あらゆるデモの母」と呼ばれるようになるデモンストレーションを見るのがいいだろう。これはコンピュータ業界の会議において、エンゲルバートが同年に完成させた「オンライン・システム(oN Line System)」を発表したもので、その様子はYouTubeで簡単に見ることができる(https://www.youtube.com/watch?v=yJDv-zdhzMY)。とはいえ画像が不鮮明なこともあり、ジョブズたちのショーアップされたプレゼンを見慣れたぼくたちには、1時間40分に及ぶデモはかなり退屈に感じられる。しかし当日、会場にいた聴衆はデモが終わると総立ちになり、なかにはステージに駆け寄る者までいて、まるでロック・スター並みの扱いだったという(ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』)。そしてエンゲルバートのデモを見た人たちの多くが、異口同音にコンピュータの新しい可能性を見たと証言することになる。
 この歴史的なイベントを手伝ったのがLSD仲間のスチュアート・ブランドだった。カウンター・カルチャーとサイバー・カルチャーの結びつきがデジタル革命をもたらす、とブランドは考えていた。コンピュータ・サイエンスを構想したフリークたちが、カネと権力をもった組織から力をもぎ取ることになるだろう……予想は当たった。ジョブズたちはIBMをはじめとする由緒ある大企業から力をもぎ取り、結果的に巨万の富を得た。そして自らがカネと権力をもつ巨大な組織になった。ゲイツもグーグルもザッカーバーグも。時代は変わるのか、変わらないのか。
 デモの中身を簡単に紹介しておこう。薄暗い会場のステージには大型のスクリーンが設置されている。このスクリーンがコンピュータのディスプレイというわけだ。エンゲルバートは飛行機のパイロットが使うようなマイク付きのヘッドセットをつけて登場する。1968年はスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』が公開された年でもある。エンゲルバートの声はどこかコンピュータの合成音みたいで、映画に登場するHAL9000の声を連想させる。
 彼は抑揚のない声で説明をしながらマウスを操作しはじめる。するとスクリーンの上を動くカーソルが、文字や画像を貼り付けたり、グラフィカルな画面を開いたり、リンクを張ったり……つまり現在、ぼくたちがネットワークにつながったパソコンでやっているほとんどのことをやっていく。マルチ・ウィンドウ、ハイパーテキスト、ハイパーリンク、インスタント・メッセージ、さらにはブログやウィキペディアにつながっていくアイデアまで、1968年の時点でエンゲルバートはひととおり実演して見せたことになる。デモを見た研究者の一人はエンゲルバートのことを「両手で稲妻を操っているモーゼのように見えた」と書き残している。たしかに彼は21世紀からやって来たモーセのように見えたかもしれない。

 このときケン・キージーも会場にいて、「これこそLSDのつぎに来るものだ」と思ったという。エンゲルバートのデモは、個人の意識や能力を高めるといったLSDがもたらす効果を、コンピュータによってつくり出せることを実証していた。これはジョブズにも大きな影響を与えたはずだ。もともと彼はドラッグとの親和性が強い人である。高校生のころからマリファナやLSD、ハシシなどをやっていたらしい。また断眠による幻覚を試したりもしたという(ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』)。ジョブズだけではなく、彼の世代のエンジニアたちの多くがマイクロ・プロセッサとともに音楽や映像、さまざまなパフォーマンスをとおしてサイケデリックな文化にも親しんでいた。ドラッグをコンピュータに置き換えるというエンゲルバートのデモは、後にベイエリア・イノベーターに育っていく若者たちに共感をもって迎えられたに違いない。
 コンピュータはサイケデリックのつぎにやって来た福音だった。この福音には落とし穴があった。エンゲルバートのデモの当日会場にいたキージーも、また伝説的なデモから影響を受けたジョブズたちも、おそらく一様にドラッグよりもコンピュータのほうが「安全」と考えただろう。コンピュータにはドラッグのような習慣性も、脳や人格を破壊してしまう危険性もない。ところで近年、しだいに認識されつつあるのは、iPhoneのようなガジェットにもドラッグと同じような習慣性があり、年齢や使い方によってはユーザーにとって有害なものになるということだ。「スマホ依存症」という言葉まで生まれている。さらにゲームやSNSは一種の仮想空間を体験させることで、ドラッグと同じように現実逃避の役割も果たし、人々の関心が日常のリアルな問題へ向かうのを妨げる。
 これはエンゲルバートが提唱した「拡張知能」としてのコンピュータから外れるものであり、アラン・ケイが「パンクしたタイヤのような不十分なものを作っている」と言って、現在のコンピューティングのあり方を批判していることに重なる。技術面でエンゲルバートの弟子とも言えるケイは、師と同様に「人間の思考の補助メディアとしてのコンピュータ」というコンセプトをもちつづけている。二人が共有するのは一種の使命感である。複雑化し、高速化していく世界で、つぎつぎに立ち現れる問題にいかに対処していくか。それを手助けするものがテクノロジーであり、複雑な問題に迅速に対処するための強力な道具がコンピュータだった。
 もともとコンピュータとはそのようなものではなかったか。すでに見たように、1943年に陸軍省がENIAC開発のための資金提供をきめたのも、ヨーロッパに配備される大砲の射表を作成するためだった。正確な射撃をするためには、温度や湿度、風速、高度、火薬の種類など多くの条件を考慮し、砲弾の種類ごとに一連の微分方程式を解いて何千もの弾道計算をしなくてはならない。こうした人間がやるにはあまりにも複雑で、時間も労力もかかる問題を処理するために開発されたのがコンピュータだった。その点で、エンゲルバートやケイはオーソドックスなコンピュータの研究者であると言える。ただし彼らの考えるコンピュータは軍事目的ではなく、マラリアの撲滅や食料の増産や地球温暖化の解決に使われるべきであり、そのためにコンピュータは人と緊密につながる必要があった。
 1968年12月のサンフランシスコに戻ろう。デモの終盤になって、スクリーンの上に「ビル」と呼ばれる若いひげ面の男が登場する。彼は遠くシリコンバレーのメンロパークで同じシステムを使うチームのメンバーである。エンゲルバートはキーボードで文字を打ち込み、マウスを操作しながら、遠隔地に存在するコンピュータ同士をネットワークでつないで、スクリーン上の「ビル」とスカイプによる電話会議のようなことをはじめる。こうしてリアルタイムで情報を共有したり共同作業したりすることが可能になるといったヴィジョンを、例のHAL9000のような声で語っていく。
 このヴィジョンこそ、エンゲルバートがもっとも実現したかったことに違いない。複雑化していく問題に対処するためには必要な情報を集めなければならない。集まった情報を分析し、さまざまな可能性を検討して成功率を算出していく。作業を効率よく迅速に進めるには、多くの人が情報を共有し、共同して考えたり意見を述べたりできるシステムが必要である。考えていることを視覚的に表現し、一緒に作業できるように他の人に提示する。つまりグラフィック・ディスプレイを備えネットワークにつながったインタラクティブなコンピュータ。それが1968年の歴史的なデモでエンゲルバートが世に問うたオンライン・システム(NLS)だった。

 現代、世界が抱えている問題の複雑さは、エンゲルバートたちが考えた複雑さとは性質を異にしているように思われる。ユヴァル・ノア・ハラリは最近の著書(『21 Lessons』)のなかで、人類が共通に直面している実存的脅威として、力の均衡が崩れることによる核戦争の危険性の増大、温暖化などの気候変動による生態系の崩壊、AIと生物工学による技術的破壊の三つをあげている。彼も指摘しているように、こうした問題はいずれもグローバルな規模の、まさにホール・アースな問題であり、国家レベルでは対処できない。
 たとえば地球温暖化という複雑な問題に対処するために情報を集め、世界の研究者が情報を共有し、共同して対策を考えることは可能である。しかしアメリカも中国も、自国の経済成長を減速させてまで二酸化炭素の排出量を減らそうとはしない。トランプなどは気候変動そのものを否定している。あるいは遺伝子操作技術の人体への応用を、仮にアメリカやヨーロッパや日本で禁止しても、中国などは研究を進めるかもしれない。こうしたハイリスク・ハイリターンの技術開発は、他国がやっている以上は後れをとるわけにはいかない。中国がやるなら自分のところもやるべきだという圧力がかかり、それに易々と応える人が大統領や首相を務めることになる。核兵器にかんする削減条約や実験禁止条約も同様である。イランや北朝鮮との核合意は国家間の駆け引きの材料にしかなっていない。
 かつて黄河やナイル川のような大河の治水は一つの強大な国や王朝が行えばよかった。いまやインターネットという世界中に張り巡らされた川を高速で流れていく情報の管理や制御を、いったい誰がどのように行えばいいのか。すぐに思いつくのは、政治システムをグローバル化してグローバル・ガバナンスのようなものをつくるというものだ。しかし現実に見られるのは、経済のグローバル化を規制あるいは停止して国家経済に回帰するという世界的な傾向だ。アメリカのトランプやイギリスのブレグジットはその顕著な現れと言えるだろう。いまや深刻な対立はグローバルとナショナルのあいだにある。世界と国家や地域が分断され協調できなくなっているのだ。
 人類がグローバルな問題に直面しているのは間違いない。一方にグローバルな自然環境があり、グローバルな経済や技術があり、グローバルなテロリズムの脅威がある。気候変動にしても技術的破壊にしても、また核兵器や細菌兵器の使用を含む戦争やテロの脅威にしても、世界的に懸念されている主だった問題はすべてグローバルな規模をもち、世界規模の合意や協力なしには解決できない。70数億の人類は単一な文明を生きており、ぼくたちは一年365日、朝から晩までホール・アースな問題に直面している。
 しかし一人ひとりの人間のアイデンティティはあいかわらず国家や民族や宗教にあり、多くの場合、これらは相互に利害を異にして対立し、しばしば反目したり敵対したりする。世界規模の協力関係をどのようにしてつくっていけばいいのか。その前提となるグローバルなアイデンティティをいかに育てていくか。いまのところ「人類」は、国民や教徒にくらべると説得力のない虚構にとどまっている。一つの地球という惑星に住み、同じ運命と脅威を共有しているという意識を、ナショナルな意識に上書きすることは可能だろうか。それとも別の方法を模索するべきなのか。これがいまぼくたちの直面しているホール・アースな問題である。

Photo©小平尚典