The Road To Singularity Ep.14

The Road To Singurality
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14 人間の未来

 午前6時半に起床。コーヒーが飲みたくて、テントを片付けるとさっそく出発。でもスターバックスもWalmartも見当たらない。走りつづけるうちEast Wenatcheeという町に漂着する。西部劇に出てきそうな小さな町で、道路沿いに飛行機の格納庫を改造したようなマーケットがある。なかを覗いてみるとダイナーやコーヒーショップ、パブなどが入っている。よしよし。ランチは準備中ということなので、しばらく店を見てまわる。通路にボードが置いてあり、ジョン・ウェインやクリント・イーストウッドなどのレリーフが掛けてある。驚いたことにドナルド・トランプがいる。しかも何種類もある。カウボーイ・ハットを被ったもの、「アメリカを再び偉大に」というキャップを被ったもの。「10ドル」とか値札が付いているので売り物なのだろう。ギャグでも悪い冗談でもない。彼は正真正銘のヒーローなのだ。

「食堂の壁とかに掛けるんですかね」
「一つのアイコンだよね」
「トランプ教か。カルトじゃないところが、かえって怖い気がしますね」
 ダイナーがオープンしたのでホットサンドイッチとハンバーガーを一つずつ注文し、仲良く半分こして食べる。コーヒーを注文すると、フレンチプレスのものが「勝手に注いで飲め」という感じで出てくる。この素っ気なさはジョン・ウェインやドナルド・トランプの味にも通じる気がする。
「ぼくが通っている気功教室で、最近の日本人のお辞儀はおかしいっていう話になったんです」
「どういうところが」
「飛行機のキャビン・アテンダントなんかがヘソに手を重ねてお辞儀するでしょう。銀行の窓口の女性なども、みんなあのスタイルなんですよ」
「言われてみれば、そうだね」
「誰が教えたんですかね」
「丁重をあらわす身振りのつもりなんだろう」
「近ごろの日本のサービス業って演出過剰なんですよ」
「そういう話をするところなの? きみが通っている気功教室は」
「そういう話もするんです。みんなで輪になって準備体操をしているときなどに。70を過ぎたおばあちゃんが多いですからね。お喋りは自由、あれしちゃいけない、これしちゃいけないっていうのは一切なし」
「居心地がよさそうだ」
「教室のモットーがあって、頑張らない、無理しない、我慢しない」
「間違っても校訓にはなりそうにない」
「校訓って近代の教育理念の産物だったのかもしれませんね」
「その心は」
「みんなが頑張って、無理をして、我慢して生きてきたのが近代でしょう」
「気功教室は前近代的ってわけだ」
「ポスト近代と言ってほしいですね。あと、競争しないっていうのもあるんです。人と自分を比べない。あの人のほうが上手だとか、前屈がよくできるとか。これも近代っぽいですよ。近代の理念は自由と平等でしょう。平等っていうのは、裏を返せば比較じゃないですか。比べないと同じかどうかわからない。これに自由な競争が結びつくと、さあ頑張って、歯を喰いしばって生きましょうという世界になる」
「いまでも大半の人は頑張って、歯を喰いしばって生きているんじゃないの」
「でもベクトルの向きが逆なんです。かつては明るい未来、よりよい暮らしのために頑張った。無理をしたし我慢もした。つまり未来が信じられていたわけです。現在の苦労が報われる未来。いまは貧困化しないために頑張っている。中流から転落しないために無理をしている。我慢を重ねて病気になったり自殺したりテロリストになったりしている。未来が潰えたからです。行く手には人類のメルトダウンさえ見え隠れしている。どうしたって世界は暗くなりますよ」
「だからトランプのレリーフなのかもね」
「豆電球ほどの光でも、闇よりはましってことですかね」
「ただし賞味期限は単三電池が尽きるまで」
「なんだか荒野で銃をぶっぱなしたい気分だなあ」
「おいおい」

 死が虚無でしかなくなった世界で倫理を問えるか、というのがドストエフスキーをとらえた問題だった。なぜ死は虚無でしかなくなったか? 人が現在だけを生きはじめたからだ。現在が突出し、全面化している、そのような世界をぼくたちが生きているからだ。身近な例をあげよう。18世紀にはじまった石炭の使用は、20世紀の前後から石油へとシフトしていく。生物が八千万年から一億年もかけてつくったエネルギーを、人間は使い果たしてしまおうとしている。その間、わずか二、三百年である。この先に、核エネルギーや再生可能エネルギーといった姦しい新技術がある。

 近代とは何か? それは人々が未来の者たちから盗み、奪い、彼らの現在を犠牲にすることで、豊かさを追求しはじめた時代と言えるのではないだろうか。近代という時代の到来とともに、人は未来のことが考えられなくなった。未来を考慮すれば近代を形作っている世界の仕組み、すなわち資本主義というシステムは成り立たないからだ。倫理的な問いは未来からやって来る。未来の者たちにたいして責務を負っている、という意識・無意識の思いなしから倫理は生まれる。現在からは、本来の倫理も善も生まれない。

 よって先のドストエフスキーの問いは逆立ちしている。先後を正せば、人間自身が倫理の問えない世界、問う必要のない世界、いかなる倫理的な問いかけもなしに生きていくことのできる世界を選択したから、死は虚無でしかありえなくなったのである。倫理とは未来であり、空間に置き換えれば他者である。倫理的な問いを封じた世界は、いわば他者なき世界である。ぼくたちが生きているこの世界には「他人」はいても他者はいない。他者とは存在論的にも認識論的にも自己に先立つものだ。そのような他者を、これまでのところ人類は「神」以外につくり出せなかった。ルネサンス(再生)によって中世的・宗教的迷妄から抜け出し、新しい別種の人間をつくり出そうとした近代は、神とともに他者を見失った時代であるとも言える。自由と平等のなかに他人はいても他者はいない。そして他人とのあいだには真の友愛も博愛も成り立たない。

 近代を生きる人間は、宗教的な迷妄とともに生きた人たちよりも、ある面で動物に逆戻りしたと言えるかもしれない。ルネサンス(再生)した人間は、より人間的であると同時により動物的である。「自己」をそれ自体として完結したものとみなすヒューマニズムは、人間中心主義のなかに色濃く動物性を宿している。動物性の最たるものは現在の突出と全面化である。生きることは限られた時間を使い果たすことであり、それ以上の意味はない。自己の死によってすべては失われ、その先には何もない。そんな割り切り方をして人は生きるようになった。

 近代以前に世界や人生に意味を与えるのは神だった。近代の幕開けとともに、意味は個人の内側に探られるものになる。近代文学とはそのようなものだ。ドストエフスキーも含めて、近代以降に書かれる小説の多くは、主人公が自分のなかに意味をたずねてまわる旅のようなものになる。善悪の根拠も自分のなかにしかない。倫理も含めて、すべての意味の源泉は自己になった。その自己が失われることは、自分が生きている世界の意味がそっくり失われることである。すなわち無。これが現在、もっともグローバルな死の定義である。

 午後3時、Quincyの「Cave B」という施設に到着する。ここはワイナリーが経営するリゾートホテルだ。チェックインの時間まで、ロビーで無料のコーヒーを飲んで寛ぐ。普通のホテルもあるのだけれど、酔狂なぼくたちはモンゴルの遊牧民族が暮らすような円形の移動式テント(Desert Yurt)に泊まる。室内にはクイーンサイズのベッドが二つ置いてあり、シャワーに洗面所、水洗トイレが付いている。もちろんエアコンも完備されインターネットも使える。ボブが写真を撮りに行っているあいだ、ベッドに寝転んで本を読む。グレッグ・イーガンの『白熱光』。この人のSFは数学や物理学や天文学の専門的な知識が織り込まれていて、いつもながら難しい。

 午後7時ごろ、ボブが帰ってきたのでホテルのレストランまでぶらぶら歩いていく。最初にスープとサラダが出てくる、ぼくたちにしては豪華な食事。メインは肉と魚を一皿ずつ注文し、もうおわかりと思うが二人でシェアして食べる。Columbia Valleyの赤ワインが美味しい。
「いま読んでいるSFに、物質形態や人類形態という言葉が出てくるんです。遥か遠い未来、宇宙に進出した人類はデータとして電脳空間を飛び交っていて、ときどき物質化して人類形態をとる。いまこうしてワインを飲んでいるぼくたちみたいに」
「なんだか途方もない話だね」
「数百万年後とかの話ですからね。だからリアリティがないかっていうと、そうでもなくて、長いスパンをとることで、かえって現代のテクノロジーが抱えている問題の本質が見えてくるようなところがある。書いている本人は21世紀のこの時代を生きているわけですからね。本来、フィクションとはそうしたもので、千年の時間を表白することで天平時代に造られた仏像の真の姿をあらわにするみたいなところがある」
「面倒くさい喩えだね」
「レオナルドの『最後の晩餐』にしても、500年のあいだに損傷や剥離が進んで細部がわからなくなったぶん、全体の構図というか、イエスと十二使徒たちのドラマが鮮明に立ち上がってきたとも言えるわけでしょう」
「まあ大きな絵だからね」
「グレッグ・イーガンのSFのなかで物質形態や人類形態といった言葉と出会ったとき、すぐにピンと来たんです。未来の人間はときどき実体化して肉体や物質を生きてみるようになるかもしれない。そして生まれたときから物質形態や人類形態をとっていた自分たちの祖先を、うらやましく思うようになるかもしれないって」
「いったいどんな未来だ」
「アメリカン・ドリームの話ですよ。自由・平等を旨とする世界において、70数億の人々が豊かで幸せになることを当然の権利として要求しはじめれば、地球の生態系はたちまち崩壊してしまう。限られたパイをめぐる熾烈な生存競争のなかで、人類そのものがメルトダウンしてしまうかもしれない。いかにして70数億人分の豊かさを生み出すか。どんな魔法を使えば全人類を幸せにできるのか。誰が考えても答えは一つだと思うんです。電脳空間のなかで豊かで幸せになってもらう。それしかありませんよ。テニスをして疲れたり汗をかいたり、喉が渇いたりできるのはごく少数の特権階級だけ。大半の貧しい人たちにはバーチャルな世界のなかで達成感をおぼえたり、快感をおぼえたり、趣味に没頭して時間を忘れたりしてもらう」
「夢も希望もないような話だな」
「いまのうちですからね。近い将来、キャンプ場でビールを飲んで、う~、いまいっていうのはとても高価で贅沢な体験になるんだから」
「そういうことを考えさせるような本は、読まないほうがいいんじゃないの」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。数百万年後の人類からすると、ぼくたちはものすごく贅沢なことをやっているんです。考えてもみてください、星空を眺めて泣きたくなるという体験を購入するのに、いったいいくらぐらいかかると思います?」
「考えたくないよ、そんなこと」
「誰かを好きになって、砂浜を意味もなく走って夕陽のバカ野郎とか言うのに、この惑星一個分くらいのお金がかかるようになるかもしれないんです。そうとは知らずに、ぼくたちはとても高価で貴重で贅沢なことを無料で無尽蔵に享受している。それが人間であるということですよ。ポスト・ヒューマンをめざす理由なんてどこにあります? いまのままで充分だ。こんなにお楽しみが用意されていて、お金もかからない。70数億の人々すべてにとって、人間であることはタダなんですよ! たった一人の取りこぼしもない。いまのところは人間という高価で貴重で贅沢な形態をとることに差別も格差もないんです。こんな重大なことに、どうしてみんな気がつかないんだろう」

 近い将来、「人間」はとても高価な商品になるかもしれない。なぜなら地球という惑星の無限性が閉ざされ、資源、エネルギー、生態環境といったさまざまな場面で有限性が露呈してくるなかで、人類はその「人類形態(homo sapiens form)」を維持しつづけることが困難になるからだ。『トゥルーマン・ショー』でジム・キャリーが巨大なドーム状のセットの端にたどり着いたように、成長をつづけてきた世界は惑星の果てにたどり着いてしまった。トゥルーマンの場合は扉を開けて外の世界へ出ていくことができたが、人類はどこへも行けない。地球というグローバル・システムのなかで生きていくしかない。理想を言えば「協和的に」、だが当分のあいだは熾烈な生存競争に明け暮れる可能性が高い。その一方で人類は、別の様式で成長を追求するようになるだろう。すなわち外部へ向かっていた成長は、180度ひっくり返って内部へ向かいはじめる。人間の心と身体が、21世紀の成長を支える自然となる。

  • 無限性の有限性への転換。
  • 内部と外部の反転。

 これが通常言われている「シンギュラリティ」の核心にあるものだ。少し時間を巻き戻して考えてみよう。近代以前の人たちのなかに、「未来」という観念はなかったかもしれない。経済は成長せずに単純再生産をつづける。人口もあまり増えず、世界は平衡状態のなかで永続していく。近代の幕開けとともに、多くの人が生産は増えるものと考えるようになった。それにともない消費も増える。消費が増えれば人々の生活は豊かになる。生活が豊かになれば人口が増える。増えた人口を維持するために、さらなる経済成長が必要になる。成長をつづけてきた近代が行き詰まりを見せている。その一つの象徴がサブプライム・ローン問題ではなかっただろうか。サブプライム・ローンとは簡単に言えば、いま手元にないお金を未来から回収するシステムである。そのために住宅価格は上昇をつづけ、値上がりしたぶんを借金の返済にまわることができる、というふうに未来が偽装される。偽装の手段が証券化だった。

 だが、もともと未来とは偽装されたものではなかっただろうか。少なくとも近代の人たちが考えた無限に成長をつづける未来なるものは、危うい虚構の上に成り立っていたと言えるだろう。近代とは未来という虚構が信じられた時代だった。信じるに足るものであるためには、経済が成長しつづけなければならない。人々は「成長」という夢を見つづけてきた。その限界が、いまは誰の目にもはっきり見えはじめている。すでに多くの人は経済成長を信じていない。かわりにテクノロジーやデータを信奉している。これが新しい世界宗教になろうとしている。データへの帰依を教義の中核とするこの宗教は、コンピュータ・アルゴリズムと遺伝子工学という二つのメイン・テクノロジーによって、人間そのものに、心と身体という個人の内部に的を絞っている。

 最新の生命科学によれば、人間を含む生き物はすべてアルゴリズムである。人間の心と身体がアルゴリズムなら、これを外部のアルゴリズムによって操作させることになんの支障もない。ぼくたちは効果的にモニターできる外部のアルゴリズムによって、心と身体の健康を管理してもらうようになる。自己はそっくり数値化される。これがシンギュラリティによって人類がたどり着く未来だ。この未来をいかに迎え撃つか。迎え撃つほうにもシンギュラリティを起こす必要があるだろう。