The Road To Singularity Ep.12

The Road To Singurality
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12 悲しきWindmill

 6時半に起床、今日も快晴だ。雨など一度も降らせたことがないような空が広がっている。ホテルには朝食が付いている。ベーグルとソーセージ、卵にコーヒーといったシンプルなものだが、これで充分だ。10時ごろチェックアウトしてつぎの目的地、スポーケン(Spokane)を目指す。あいかわらず麦畑の先はまた麦畑である。車窓の景色は変わっていくものと思っている旅行者にとって、何時間もつづく単調な風景はかえって異様である。起伏に富んだ日本の自然のほうが特別なのだろうか。同じ風景のなかを走っていると、昨日と今日の区別がつかなくなる。毎日同じ一日を生き直している気がしてくる。なるほど、この単調な世界では「トランプ」は一つのスペクタクルだ。気晴らしであり、娯楽である。そういう軽い感覚で、彼の大口を楽しんでいるのかもしれない。

 このところアメリカは負けてばかりだよな。戦争でも自由貿易でも負けっぱなしだ。最後に勝ったのはいつだ? もう思い出せないくらい昔じゃないか。私はアメリカを再び強くする。雇用を取り戻す。中国やメキシコや日本が私たちの仕事を奪っている。貿易交渉を進めてきた連中が馬鹿だったからだ。私は頭がいい。私を信じてくれ。メキシコ国境沿いに壁を造って、不法移民が入って来られないようにする。連中が麻薬と犯罪を持ち込めないようにする。国内にいる不法移民は強制送還する。自由貿易協定からは離脱する。もっと具体的に? そんなことはどうでもいい。まあ見ていてくれ。私はトランプ。みなさんに気晴らしとお楽しみを与える男だ。

 彼が言うことは、日本で聞いていると充分にバカバカしいのだが、ここでは妙な整合性をもってくるから不思議だ。これだけ広い土地があり、たくさんの作物ができるのに、どうして中国から安い農産物を輸入しなければならないのか。この土地でできたものを食べる。この国で作られた自動車や家電製品を使う。それでいいじゃないか。中国から安い農産物を輸入したり、メキシコから時給の安い移民を受け入れたりするからおかしくなるのだ。自国の民が自分の国で働き、自分たちで生産したものを消費する。カネはそのためのものだろう。ところが南から来た連中はどうだ。稼いだ金はこの国で使わずに故国で待っている家族のもとへ送る。だからアメリカはうまくいかなくなる。戦争でもなんでも負けてばかりだ。

「トランプが言うことってわかりやすいですよね」
「それだけが取り柄みたいな男だからね」
「サンダースが言っていることも、やっぱりわかりやすいですよ」
「バーニー・サンダース?」
「学費をただにするとかマリファナを合法化するとか」
「他にも言っているだろう」
「最低賃金を時給15ドルにするとか。週40時間働く人が貧困に陥るべきじゃないっていうのは、アメリカを再び偉大にするっていうのと同じくらいわかりやすいですよ。国境に壁を造ってメキシコ人が薬物や犯罪を持ち込むのを防ぐと言って、白人のミドルクラスに受けているのがトランプなら、同じようにわかりやすいことを言って、都市部の若者に受けているのがサンダースじゃないかな」
「バーニーが嫌いなのかい」
「いや、どっちかというと好きだし、トランプよりはずっといいと思うけど、やっぱりわかりやすいんですよ、言っていることが」
「それで何か問題でも?」
「ポピュリズムっていうのは単純化だと思うんです。円周率は3でいいぞ、みたいな。単純化してわかりやすくする。わかりやすいメッセージだけが、それを望んでいる人たちのところに伝わっていく。トランプがポピュリストならサンダースもポピュリストなんじゃないかな」
「いまどきの政治家はみんなポピュリストだろう」
「だとしたら民主主義は終わっていますね」

 あちこちに風力発電のためのWindmillが建っている。アメリカの風力発電といえばカリフォルニアやハワイ、テキサス州などの取り組みが有名だが、ここワシントン州でも盛んらしい。これだけ広大な土地があれば、巨大なウィンドファームを造ることができる。ソーラーパネルだって敷き詰められる。太陽の日差しは強烈で雨はめったに降らない。原子力発電所一基分の電気を太陽光発電でつくるのに山手線の内側くらいの敷地が、風力発電の場合は3.5倍ほどの面積が必要だと言われるが、ここではなんの問題もない。他にも理由が考えられる。火力発電にしても原子力発電にしても、タービンの出口の蒸気を冷やすための冷却水が必要になる。日本の原子力発電所が海のそばに建っているのはそのためだ。この水が広大なアメリカの内陸部では手に入りにくのではないだろうか。幸いワシントン州はコロンビア川の水流に恵まれているけれど、わざわざ火を焚いて発電するなんてバカバカしい、手っ取り早く水力発電でいこう、ということになっているようだ。

 アメリカのエネルギー政策は州ごとに異なるが、ハワイ州は2045年までに再生可能エネルギーの割合を100%にすると言っている。カリフォルニア州とニューヨーク州も2030年までに50%という目標を掲げている。いまのところアメリカ全体では13%くらいで、日本とそれほど変わらない。40%のイタリア、35%のスペイン、30%のドイツなど欧州諸国に比べると出遅れている感じだ。しかし彼らはエネルギー問題を州ごとに自分たちで考えているという気がする。日本人はどうだろう? あれだけ大きな事故を起こしておきながら、一度壊れたら修理もできない原子力発電所をつぎつぎに再稼働させているのは異常ではないだろうか。倫理的にもおかしいけれど、何よりビジネスの感覚が完全に麻痺している。よほどインチキをしないかぎり、採算が合わないことはわかっているだろうに。

 石炭産業の復興を公約に掲げているトランプは、風力発電に反対して化石燃料を推進している。彼が大統領選に勝利したあと、石油、ガス、石炭などの化石燃料関連企業の株価が上昇した。その一方で、再生可能エネルギー関連企業の株価が低下した。エネルギー問題一つをとっても、環境問題とビジネスと政治が密接に結びついて複雑化しているのがわかる。いっそAIに判定してもらってはどうだろう。環境問題と資源エネルギー問題にかんしては、その国ごとに最適な方法をAIに考えてもらう。客観的なデータを入れれば、私利私欲を抜きにしてアルゴリズムが公正な答えを出してくれるはずだ。近い将来、オクスファムのようなNGOが手を付けるのではないだろうか。

 トランプが大統領になってから、アメリカの太陽光発電業者がソーラーパネルを買い漁っているというニュースをネットで読んだことがある。アメリカで販売されているソーラーパネルの大半は中国やマレーシアやフィリピンなどの外国産だ。これにトランプが高い関税をかけるのではないかという憶測が流れたらしい。2017年にパリ協定からの離脱を表明したトランプだが、世界の流れは温室効果ガスの排出規制に向かっている。この流れは変わらないだろう。ガソリン車やハイブリッドが市場から締め出されつつあるのと同様に、火力と原子力は時代遅れの技術として廃れていくはずだ。世界的にはすでに原発はコストばかりが嵩んでビジネスにならない時代になっている。いったい日本の役人や経営者は何を考えているのか? トランプに馬鹿呼ばわりされてもしょうがないじゃないか。

もう少しエネルギーの話をつづけよう。大気問題と人口問題を抱える中国やインドなどが再生可能エネルギーの普及を推進している。将来的には収益性の高い産業として世界へ進出してくるはずだ。その点ではアマゾンなども遅れは取らないだろう。この会社は秘密主義でわからないところも多いが、テキサス州やインディアナ州などアメリカ各地に風力発電所や太陽光発電所を建設している。将来的には自分の会社で使う電力を100%再生可能エネルギーで賄うと公言しているし、2016年末にはすでに40%以上を達成しているらしい。やがてはAWS(アマゾンのクラウドサービス)のように、余った電力を他の企業や家庭にも融通するようになるだろう。アマゾンは超巨大な会社であるだけでなく、彼らの取り組みは世界がこの先向かう道筋をかなり正確に示している。その未来予想が間違っていないから、いまだに急成長をつづけているのだろう。トランプが言っていることの大半は口先だけに終わるだろうが、ベゾスの言うことはかなりの確率で実現しそうだ。

 いつの時代もそうだが、未来をアレンジするのは先見性のあるごく一部の人たちである。多数の人たちが思っていることは時代遅れになる。そうやって歴史は更新される。民主主義の限界はここにある。それは現にある世界をうまく動かすためのシステムであっても、新しい世界をつくり出す機能は備えていない。なぜなら民主主義の原則は多数決だからだ。多数によって決まるものは未来にはならない。多数を出し抜いた者たちが未来をつくるのである。ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾス……GAFAとかGAFA+MとかFAANGとか、最近は英語の頭文字が多くて困るけれど、いまあげたようなところが、この先数十年の世界を先導していくのは間違いないだろう。

 それに備えた生き方や考え方を、ぼくたちがつくり出さなければならない。創造し、創出する。いくら抗ったところで、未来はコンピュータアルゴリズムとバイオテクノロジーを中心としたものになる。すでにインターネットや携帯電話はぼくたちの非有機的身体になっている。この先はAIやロボットやゲノム編集技術などが加わるだろう。こうした流れは誰にも止めることができない。ベゾスにも、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンにも止められない。もちろんトランプと習近平とプーチンが手を結んだところでどうにもならない。トランプなどは遺伝子工学やAIについて、ほとんど何も知らないのではないだろうか。その点では、彼が目の敵にするIS(イスラム国)の人たちとあまり変わらない気がする。

 車を停めてボブがWindmillの写真を撮っている。どうも態度が投げやりである。とりあえず撮っているという感じだ。カメラを操作する指先に気持ちがこもっていない。長く一緒に旅をしていると、そういうことがわかるようになる。
「いい写真は撮れそうですか」
「だめだね。どうも絵にならない」
「風車が?」
「だいいち可愛くないよ」
 ボブはいつも二人称で写真を撮っている。そんな気が前からしている。被写体と一瞬のうちに懇ろになれるのだ。一種の才能と言ってもいいだろう。彼にとってファインダー越しに見ているものは、人でも物でも〈あなた〉なのである。そんなボブの写真がぼくは好きだ。
「写真を撮らせてもらっても、ありがとうという気持ちにならないんだよな。その点では、いまは悪者にされている原発のほうにちょっとだけ共感する」

 可哀そうなWindmill。でもボブの言うことはなんとなくわかる気がする。この広大な土地に林立するWindmillは、どこかいかがわしいのだ。それは電気自動車をエコカーと呼ぶのと似たいかがわしさかもしれない。風力発電や太陽光発電に「クリーン・エネルギー」というレッテルを張るのは、いかがわしさ以外のなにものでもない。たとえばソーラーパネルをつくるため電気を、中国やマレーシアやフィリピンではどうやってつくっているのだろう。そのために排出されるCO2の量も計算に入っているのだろうか。もちろん原子力発電が「クリーン」というのも嘘八百である。ウラン燃料の製造過程から放射性廃棄物の後始末まで含めると、CO2の排出量は火力発電と変わらない。さらに原子炉で生み出される熱の三分の二は海に捨てているわけだから、より直接的に地球を暖めているとも言える。現在、電力について言われていることは、すべて嘘と疑ってかかったほうがいい。

 でも、それだけではない。風の大地に建ち並ぶWindmillに感じられる「いかがわしさ」は、もっと根深いものである気がする。ぼくたちがいま目にしている風景が、未来世界の一コマであることは間違いない。そこにいかがわしさを感じるとしたら、来るべき世界は多分にいかがわしいものではないのか。医学を含めた科学技術とビジネスと倫理や正義が複雑に絡み合い、混然一体となったいかがわしさ。エイズや癌などの病気を克服するために遺伝子治療の研究を進める。治療不可能な先天的疾患を予防するためにヒトゲノムに手を加える。そのようにしてヒト自体のアップグレードが図られていくことのいかがわしさ。

 先日、最寄りの駅で電車を待っているときに、線路わきの歯科医院の広告が目にとまった。「歯の黄ばみ、気になっていませんか? 歯のホワイトニング、8000円~」虫歯の治療ではなく、健康な歯のアップグレードが歯科医の仕事になっている。こんな身近なところから、世界の風景は少しずつ変わりつつある。変わったことを意識しないうちに、そっくり作り変えられようとしている。あと十年後か二十年後の人たちは、世界が様相を変えたことにすら気づかないかもしれない。変化が目にとまる時代を生きているぼくたちが、いま考えられることを考えて、未来の世代に残さなければならないと思う。

 午後1時にはホテル(Davenport Hotel)に着いてしまった。近くのレストランで昼食。ハンバーガーとビール。ぼくたちもだいぶアメリカの暮らしに染まってきたようだ。ホテルに戻って休憩。夕方、ボブと市内の散策に出かける。街中をかなりワイルドな川(Spokane River)が流れていて滝がある。あたりは公園として整備されている。どこかで軽く飲もうという話になったが、ぼくは少し風邪気味なのでおとなしくホテルに帰って休むことにする。スーパーが見つからないので、バスターミナルに隣接したドラッグストアでハム、チーズ、マフィンなどを買って夕食にする。

 コーヒーを淹れてテレビをつけるとチャンネルが115もある。ここでは何もかも過剰だ。テレビ番組はCMばかりでちっとも面白くない。ぼくはベッドに寝転んで、可哀そうなWindmillのことをぼんやり考えはじめた。巨大な風車が建ち並ぶ風景に、荒涼としたハンフォードの核関連施設の眺望が重なる。重大な放射能被害をもたらす原子力発電よりも、「クリーン」な風力発電や太陽光発電のほうがベターという考え方もあるだろう。でも、どこか引っかかりを感じるのは、ハイデガーの技術論のことが頭にあるせいかもしれない。

 技術とは人間に制御しえない何かだ、という言い方をハイデガーは繰り返ししている。人間は技術にたいして超越的に振舞うことができない。人間が技術をコントロールしているというのは見せかけだけのことに過ぎない。コントロールすることは、すなわちコントロールされることである。人間と技術の関係はどこまで行っても相互的・双方向的である。これがハイデガーの技術論の根幹にある考え方で、マルクスの疎外論をそっくり近代化した体裁になっている。

 なぜ人間が技術を制御できないかといえば、一度手にした技術は自らの意志で廃棄することができないからだ。化石燃料を使った発電が地球温暖化につながることがわかっていても、これを手放すことができない。一つの技術が捨てられるのは、より優れた技術が登場したときだけである。仮に原子力発電という新たな技術によって、CO2の排出による地球温暖化を乗り越えることに成功したとしても、それは原発を厳重な管理のもとに運転し、一歩間違えば重大な放射能災害を引き起こすといった、よりストレスフルな技術との関係にとらわれることを意味している。さらに太陽光発電や風力発電といった、原子力発電に代わるエネルギーの供給システムを完成させたとしても、そこにより深刻な弊害や破壊性が待ち受けていることは、人間と技術の相互規定性からして明らかだと思われる。

近代とりわけ20世紀は電気とともにあった。豊富な電力の上に人々の暮らしを築き上げてきた時代が20世紀だった、と言ってもいいだろう。グローバリゼーションとは、20世紀の世界化ではないだろうか。電気と切り離せない生活スタイルを、全世界に敷衍しようとした途端に人類は行き詰ってしまった。蒸気機関の発明とともにはじまり、戦争でも経済でも技術が第一義的なものとなった「技術の時代」が行き詰ったとも言える。同時にそれは「人権の時代」の終焉をも意味しているだろう。自由や平等とともにはじまった近代は、たしかに長い人間の歴史において画期的なものだった。しかしスマートフォンやインターネットによって、この画期的な理念が世界中に拡散した途端、「人権」は「技術」と同様に行き詰ってしまった。

 70数億の人々が自由であり、平等であることを所与の権利として求める時代。所与の権利のなかには、当然、電気を自由に使うことも含まれる。地球上の全人類が一律に使う電気を、いったいどうやって生み出すのか。そんなことが果たして可能なのか。技術的に解決できるのだろうか。乾いた大地に整然と建ち並ぶWindmillが、どこか放心しているように見えるのは、行き詰った時代を生きるぼくたち自身を、そこに重ね合わせてしまうからかもしれない。