The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.5)

The Road To Singurality
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5 青年はマウント・レーニアをめざす

 ボブの運転する日産のレンタカーは一路、つぎの目的地をめざして走っている。昨夜の宿はシアトル郊外ベルヴュー(Bellevue)のホテルだった。今夜はマウント・レーニア国立公園(Mt.Rainier National Park)にある唯一のロッジ、Paradise Innだ。普段でもかなり予約が難しいところらしいが、今年は建物の半分がリノベーション中で、とくに競争が激しい。唯一空いていた日を、Hさんが素早くおさえてくれた。
 今回の旅はシアトル在住のHさんにコーディネートしてもらった。大手IT企業を退職され、いまは教育関係の仕事に携わっておられる。自然をこよなく愛するアウトドア派で、写真を趣味にしておられるところから、ボブと親しくなったらしい。昨日のホテルもそうだけれど、宿泊場所はすべてHさんが手配してくれたものだ。ぼくたちはA地点からB地点、B地点からC地点へと旅をつづければいいことになっている。参考までに行程を書いておこう。

 7月10日(火曜日) Bellevue Town , Hotel 116
 7月11日(水曜日) Mt.Rainier , Paradise Inn
 7月12日(木曜日) Yakima River , Yakima Valley Campground
 7月13日(金曜日) Walla Walla , AirBnB
 7月14日(土曜日) Palouse , Holiday Inn Express And Suites Pullman
 7月15日(日曜日) Spokane , The Historic Davenport
 7月16日(月曜日) Steam Boat , Steam Boat Rock State Park Campground
 7月17日(火曜日) Quincy , Cave B
 7月18日(水曜日) Bellevue Town , Hotel 116

 シアトルを出発してマウント・レーニア、ヤキマ・ヴァレー、ワラワラと南東にほぼ一直線に並んでいる。ワラワラがワシントン州の南の端で、ほとんどオレゴンとの州境。そこから北東に進路をとってプルマン、さらに北上するとスポーカンという配置になる。西に戻ってスティーム・ボート、南下するとクインシーになり、ちょうど時計と反対周りにワシントン州の南東部を一周してシアトルに戻って来るというコースである。
 前回のカリフォルニアの旅では、ほとんどモーテルを利用したが、今回はロッジあり、アメリカらしくHoliday Innあり、歴史のあるホテル(Spokane)あり、さらに二回のキャンプを挟んでAirBnB(民泊)まで体験できるという盛りだくさんのプランだ。予約だけでも大変だったと思う。おまけに二回のキャンプではテントと簡単なキャンプ用品まで用意してもらっている。なんとも至れり尽くせりのぼくたちである。

レーニア山

 前方に白く雪を被った山が見えはじめている。標高4392メートルのマウント・レーニアだ。どこかで聞いた名前だなと思い、帰国して調べてみると、石塚真一さんのマンガ『岳』に主人公の島崎三歩がかつて登った山として出てくる。作者の石塚さん自身、三度挑戦したけれど一度も登頂できなかったと短いエッセーのなかで書いておられる。もちろんぼくたちは山頂をめざすわけではない。麓のロッジに泊まり、星空の写真を撮るのだ。
 ときどき忘れそうになるけれど、師匠の本業は写真家である。その彼が今回、いちばん撮りたいと思っているのがマウント・レーニアの星空なのだ。Hさんによると、ここはアメリカでも夜空の暗さが指折りだそうだ。近くに街がない、携帯電話の基地がない、上空を飛行機が飛んでいないなど、さまざまな好条件が重なって絶好の撮影ポイントになっている。
 いまは光害マップという便利なものがあり、インターネットなどで簡単に見ることができる。世界でもっとも光害がひどい地域はアメリカ東海岸、西ヨーロッパ、それに日本列島である。なんでも独り占めなんだなあ、光もエネルギーも富も健康も……明るく光っている地域に住む人たちは、そろそろ自分たちの暮らしぶりを見直したほうがいいのかもしれない。
 ところでカメラは、ぼくたちにとっていちばん身近なAIの一つだろう。誰でもスマホで簡単に美しく鮮明な写真が撮れるのは、カメラがAI化したからだ。すなわちピントを合わせたり、シャッタースピードと絞り値の組み合わせを調整したり、それまではカメラを持つ一人ひとりが経験によって習得していたことを、スマホに搭載されている小型コンピュータがプロ並みの精度でやってくれるようになった。猫の写真を一枚撮るにしても、外から入って来る光をセンサーが感知して画像を認識し、適正な露出を算出するために、あの薄いスマホのなかでは膨大な演算がなされているはずだ。
 これはAIについて考えるうえで、外すことのできないポイントである。AIはそれまでプロや専門家などごく一部の人にしかできなかったことを、ボタンに手を触れるといった簡単な操作によって老人から子どもまで、誰にでもできるものにしてくれる。プロや専門家にとっては脅威かもしれないが、そうでない多くの人にとっては朗報である。そのあたりのことをプロの写真家であるボブがどう考えているのかわからない。
 この際だから、AIについてもう少し考えてみよう。ぼくたちが何気なく使っている携帯電話は、1980年代はじめのスーパー・コンピュータよりも高性能だと言われている。日立製作所のS-810、富士通のVP100、NECのSX-2といった初期のスーパー・コンピュータの値段がいくらくらいだったのか知らないが、おそらく数千万とか数億といった単位だろう。それらを優に超える性能をもつ小型コンピュータが、ぼくたちのポケットのなかに無造作に入っているのである。日本人ってとんでもないお金持ちではないか!
 こうした利便性は貨幣に換算されないから、「お金持ち」という感覚には結び付きにくいけれど、ほんの数十年前の日本人とくらべて、ぼくたちは目に見えないところでとんでもなく豊かになっているのだ。ただしスマホにしても、それが可能性として秘めている「豊かさ」を、ぼくたちはまだ活用できていない気がする。たんなる検索やコミュニケーションのツールとして使う程度ではもったいない。宝の持ち腐れである。みんな数億円が自分のポケットに入っているくらいのつもりで、一人ひとりの人生を豊かにするための使い方を発明しよう。
 そんなことを考えているうちにお昼になった。お昼になると自動的におなかが減るぼくたちである。しばらく走って、いかにもアメリカらしい田舎町に、いかにもアメリカ風のダイナーを見つけた。郷に入れば郷に従え。最初はその土地の流儀を尊重するのが、ぼくたちの旅のスタイルだ。慣れてくると本領発揮で、日ごろの国内旅行モードになる。というわけで初日のランチはハンバーガー、例によってフライドポテトが山ほど付いてくる。これでいいのだ。

ハンバーガー

 ダイナーのウェイトレスは、熟女を通り越した年恰好のご婦人たちだ。日本では間違いなく肥満に分類される体型だが(ここは逆接でいいのかな?)、愛想がいい。にこやかで友好的である。「お味はどう? 満足してもらえたかな」なんて訊いてくる。下町の食堂のおばちゃんみたいだ。前回のカリフォルニアでも感じたけれど、少なくともぼくが旅したかぎりでは、アメリカ人はとても親切でフレンドリーだ。スーパーのレジなどでも、笑顔で気さくに話しかけてくる店員さんが多い。そこへいくと日本人のほうがよほどぶっきらぼうで、同胞なのにしばしばロボットを相手にしているような気分になる。
 おなかがいっぱいになったぼくたちは、豊満な熟女たちに見送られて再び車上の人となる。『岳』の作者・石塚真一さんがはじめて氷河を見たところと言うだけあって、マウント・レーニアには年間を通してかなりの雪が残っている。二週間ほどまえに訪れたHさんによると、六月にはロッジのあたりでも1メートル以上の積雪があったという。ほとんど雪山ではないか。一応、モンベルの登山ウェアを持ってきているけれど、ちょっと心細いので厚手のポロシャツと登山用のズボンを買った。コロンビアのポロシャツはSサイズなのに、袖も裾もかなり長い。身長173センチのぼくは、日本ではだいたいMサイズだ。Sサイズでこのデカさなら、小柄な人はどうすればいいんだろう。
 いつのまにかぼくたちは無口になっている。ボブはハンドルを握ったまま前方にじっと目をやっている。どうしたの師匠、ひょっとしてダイナーの熟女に恋をしたのかな? そんなことはないよね。きっと今夜の星空撮影イベントのことを考えているのだろう。勝負の一夜になるはずだ。快晴の上に、折よく新月である。美しい星空を撮るには絶好のコンディションだ。一応、11時くらいに撮影開始の予定だが、終了が何時になるのかわからない。師匠のことだから、場合によっては明け方まで写真を撮りつづけるかもしれない。ぼくは30分くらい付き合ってロッジに引き上げる予定だ。いくら師弟の間柄とはいえ、そのあたりはマイペースでやっていいことになっている。

ボブ

 コンピュータのアルゴリズムがもっとも得意とするのは、言うまでもなくさまざまなもののマッチングである。無数の二者択一を繰り返すことによって、たとえばトレーディングの世界では売るべき銘柄(あるいは買うべき銘柄)と売り注文(買い注文)を出すタイミングをマッチングさせる。腎臓移植を待っている患者とドナーをマッチングさせる。音声認識ソフトを使ってコールセンターにかかってきた電話から顧客のパーソナリティを分析し、最適のカスタマーサービス担当者とマッチングさせる。いずれは教師と生徒、看護師と患者といった関係も、アルゴリズムがうまくマッチングさせてくれるようになるだろう。
 ところが、である。こと恋愛にかんして、アルゴリズムによるマッチングはうまくいかないのである。大手の恋人探しサイトが、アルゴリズムを使って相性が良いと思われる二人をピックアップするのと、ランダムな二人をピックアップするのとでは、うまくいく確率は変わらないという統計がある。そりゃそうでしょう。そんなことは当たり前田のクラッカーだ。恋愛にしても結婚にしてもクリエイティブなものだ。どんな二人が出会うかよりも、出会った二人がその後の関係をいかに築き上げていくか、創造していくかという問題である。たとえばぼくたちのように、肝心なところだけ一緒、あとはマイペースというもの一つの創造的な関係のあり方だ。いくらか牽強付会っぽいけれど、そういうことにしておこう。
 それにしても、こんなふうになんでもかんでもAIがやってくれるようになると、ぼくたちは何に喜びを見出せばいいのだろう。スマホやデジカメで美しい写真が撮れたといっても、自分の腕がいいのか機械に内蔵されたアルゴリズムが優秀なのかわからない。いまはヒット曲を書くためのアルゴリズムもあるそうで、シーケンサー・ソフトを使って曲を細分化し、メロディ、ビート、テンポ、リズム、ピッチ、コード進行といった要素からヒットする曲のパターンを探り出す。同様にして、ベストセラー小説を書くためのアルゴリズムも作ることができるだろう。
 ところで問題は、ぼくたちはなんのために曲を書いたり小説を書いたりするのかということだ。ヒット曲やベストセラーを生み出すためだろうか? それはそれで結構なことだが、売れるか売れないかは創作の喜びとは関係ないと思う。少なくともぼくにとって、ものを書くことの喜びはそういうところにはない。見当違いも甚だしい。いったい何を考えているのか。表現ということが、まったくわかっていないのではないか。
 たとえば高頻度取引の世界では、微小な価格差を見つけて真っ先に売り注文や買い注文を出せば利益を独り占めにできる。ミリ秒単位の時間差を稼ぎ出すために、高性能のコンピュータや高速度の通信回路に莫大な投資をしているなどという話を聞くと、いったい何をやっているのかと思う。人間はもっとエレガントな生き物であるはずだ。ぼくはそう信じているので、なんだか自分の人格を傷つけられたような気がして、アルゴリズムというこざかしいやつにたいして憎しみすら湧いてくる。世の中のあらゆる事象は二者択一の選択肢にまで分解できるなんて、いったい誰が決めたんだ。
 そのアルゴリズムによって仕事を奪われていく。人間がやっていることのほとんどは、アルゴリズムのほうがずっとうまくやれる。MBLでどのピッチャーをマウンドに送るかを決めるのは、いまや監督ではなくてアルゴリズムだ。そのイニングに登場する打者、またはそれと似たタイプの打者を打ち取ってきたピッチャーは誰か、最近の登板数、ランナーを出しても盗塁させない技術はあるか、ホームとアウェー、デーゲームとナイトゲーム、天然芝と人工芝とで成績にばらつきはあるか、などのデータを瞬時に分析して、最適のピッチャーをマッチングさせてくれる(クリストファー・スタイナー『アルゴリズムが世界を支配する』)。
 ぼくたちは何をすればいいのだろう。何によって生きる喜びを感じればいいのか。コンピュータとアルゴリズムが主導権を握る世界にあって、幸福とはどんなものになっていくのだろう。いちばん手っ取り早い方法は生化学的作用の操作だろう。21世紀には、幸福は生化学系(biochemical system)によって定義されるようになるかもしれない。まさに幸福の科学だ。
「どう思います?」
「どう思うって、何が」
「そんなふうにケミカルなシステムによって自分の感情をコントロールできるようになったとして、もうおれって最高! 世界最強の男はぼくです、北朝鮮でもシリアでも地球温暖化でも飢餓でもマラリアでも、難問は全部まかせなさいという気分になって、女の人を裸にしちゃって……」
「ちょっと待て、落ち着け。女の人を裸にする? 話の行先が見えないぞ」
「大丈夫、ちゃんと切符は持っているんだから……なんの話だっけ?」
「ほら見ろ」
「そうだ、女の人だ。彼女を一分たりとも休ませずに、もう朝まで満足させちゃって、すごいぞ、おれ。これってシンギュラリティかも?」
「わかったぞ。きみにはワシントン州の空気が合わないんだ」
「そうじゃなくて、人間の幸せについて考えているんです」
「その話、いまここでしなきゃだめなのかい?」
「だめです」
「黙って聞くよ」
「そういう最高にして最強の状態を生化学的な操作によってつくり出せるようになったとして、ぼくたちは幸せってことになるんでしょうか。それを幸せと言ってしまっていいんでしょうか。生化学系の操作による幸せの追求で、人は本当に幸せになるんでしょうか。そんなもので幸せになっていいんでしょうか。師匠、なんとか言ってくださいよ」
「とりあえず最後まで喋りなさい」
「生化学的に人間の幸せを定義するって、いったいどういう了見なんだろう。でも、バイオテクノロジーとアルゴリズムが出会うと、かならずそうなるんです。だったら人間の苦悩や苦痛も、やっぱりバイオケミカルな事象ってことになるんですか? 冗談じゃない!」
「おい、おい、助手席で暴れるなよ」
「拷問されている人間の苦痛や恐怖がバイオケミカルな事象だなんて、レイプされて殺される女性の……そんな、そんな、そんなものを二者択一のアルゴリズムで書こうとするなよ」
「泣くんじゃない」
「泣いちゃいません。ワシントン州の太陽が眩しすぎるんです」
「カミュみたいなこと言ってる」
「I’d rather go blindって、昔、ロッド・スチュアートがうたってたな」
「あのさあ」
「なんです」
「今夜は飲みに行こうか」
「いいですね」
「ぼくがおごるよ」

カモ