The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.8)

The Road To Singurality
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8 Walmartと人間

 翌日も快晴。6時に目が覚めたので、昨夜登ったところまで一人で行ってみる。途中でカメラを担いで下りてくるボブと会った。朝5時ごろに起きて日の出の写真を撮ってきたそうだ。昨夜は午前2時まで星の写真を撮っていた。よくやるなあ。部屋に戻って休息。10時ごろにParadise Innを出発。
 昔から人々は山を神と崇めてきた。アメリカで日本人の移民がいるところには、かならずと言っていいほど〇〇富士と呼ばれる山がある。Mt Rainierは別名、Yakima Fujiというそうだ。そんな話を二人でしながらYakimaでランチ。シアトルからは東へ200キロほど来ている。ホットサンドイッチをたのむと、食パンの上にターキーが載り、さらにホワイトシチューのようなものがかかった不思議な食べ物が出てきた。パンの横には大量のマッシュポテト、やはりクリームソースがかかっている。濃厚というかドギツイというか、毎日こんなものを食べていたら大変なことになる。つぎからはもう少し慎重に注文しよう。

ホットサンドイッチ

 午後2時、Yakimaのワイナリーに到着。YakimaはWalla Wallaとともにワインの産地として有名な町だ。10ドルで5種類のワインをテイスティングさせてくれる。さっそく二人でグラスをやり取りしながら試飲。う~ん、どれもぼくの口にはいまいちだなあ。ボブも浮かない顔をしている。値段はボトル一本が28~52ドルで、けっして安くはない。ちなみにレートは1ドル120円くらい。ぼくがアマゾンで買っているワインは、一本が1000円前後だけれど間違いなくこれより美味しい。一昨日、シアトルのTrader Joeで仕入れてきたカリフォルニア・ワインは700円くらいだった。ワインを購入するとテイスティングの代金は無料になるのだけれど、ここは10ドル払ってパスすることにしよう。

ワイナリー

 今夜は旅のコーディネーターであるHさんが、Yakima Riverのほとりのキャンプ場(Yakima Valley Campground)を予約してくれている。いよいよ最初のキャンプだ。テントや寝袋などもHさんからお借りしている。前にも書いたように、今回の旅では2日間キャンプをする予定だ。あちこち整備されたCampgroundがあって、半年ほど前から予約できるようになっている。予約者は所定の場所でキャンプをする。区画ごとに大型の車を2~3台分の駐車スペースが設けられており、テントを張る専用の場所があり、少し離れたところに食事をしたりお酒を飲んだりするためのテーブルやベンチが置いてある。キャンプ場によって火を使えるところと使えないところがあり、今夜のところはOKということだ。
 キャンプ場へ向かう途中でお酒と食べ物を調達していくことにする。このあたりの町で、たいてい見かけるのはWalmartだ。日本にもあって、たしか西友がやっていたと思うけれど入ってみたことはない。今回はWalmart初体験である。まず入口に置いてあるカーゴの大きさに驚く。日本のスーパーなどに置いてあるものの2~3倍はありそうだ。何をそんなに買い込むのだろう。
 店のなかを一通り見てまわる。まず店内に積み上げられている食品の種類と量に圧倒される。しかも一つひとつのパッケージが大きい。巨大なカーゴが必要になるわけだ。目につく食べ物は、パンやチップスやシリアルなど、炭水化物を主原料としたものが多い。それに冷凍のピザ、小ぶりのバケツほどもある容器に入ったアイスクリーム。こんなものを毎日食べていたら、いったいどうなるんだろう? 結果は明らかだ。肥満した人たちがつぎつぎに訪れる。太ってない人を見つけるほうが難しい。しかも太り方が異常だ。メタボなどという生易しいものではない。ぼくたちから見ると明らかに病気である。なかには自分の足で歩くことのできない人もいる。体重を支え切れないのだ。そういう人たちは、車から降りるとすぐに電動カーゴに乗り換える。水中でしか棲息できないクジラやアマゾンのアナコンダみたいだ。
 ちょっと厳しい言い方かもしれないけれど、この人たちを見ていると人間の尊厳を傷つけられているような気がしてくる。なんてことをしてくれたんだ、Walmart!

 2014年には、太り過ぎの人は21億人を超え、それに引き換え、栄養不良の人は8億5000万人にすぎない。2010年に飢饉と栄養不良で亡くなった人は合わせて約100万人だったのに対して、肥満で亡くなった人は300万人以上いた。

 2012年には世界中で約5600万人が亡くなったが、そのうち、人間の暴力が原因の死者は62万人だった(戦争の死者が12万人、犯罪の犠牲者が50万人)。一方、自殺者は80万人、糖尿病で亡くなった人は150万人を数えた。今や砂糖のほうが火薬よりも危険というわけだ。

 2010年には肥満とその関連病でおよそ300万人が亡くなったのに対して、テロリストに殺害された人は、世界で7697人で、そのほとんどが開発途上国の人だ。平均的なアメリカ人やヨーロッパ人にとっては、アルカイダよりもコカ・コーラのほうがはるかに深刻な脅威なのだ。

 先ごろ日本語版が出たユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(柴田裕之訳)から引用してみた。ユヴァルの論旨は明快だ。数千年のあいだ、人類にとって最大の問題は飢餓と疫病と戦争だった。この数十年、人間はこれらの問題を首尾よく抑え込めるようになった。完全に解決されたわけではないにせよ、理解も制御もできない自然の脅威ではなくなり、対処可能な課題になった。今日では、飢餓で死ぬよりも多くの人が肥満で死亡している。疫病で死ぬ人よりも多くの人が老衰で死亡し、自殺による死者の数は戦争による死者の数を上回っている。これら三つの問題を克服した人類は、今後、不死と幸福と神性を目標とする可能性が高い。至福と不死を追い求めることによって、人間は自らを神へとアップグレードすることを目指すだろう。
 なるほど。目から鱗とはこのことだ。いまでは食べ物が足りなくて死ぬ人の数よりも、食べ過ぎで死ぬ人の数のほうが多いのだ。こんなことはアウストラロピテクスもホモ・ハビリスもホモ・エレクトウスもホモ・ネアンデルターレスも、もちろんホモ・サピエンスも体験したことはなかった。人類史上はじめてのこと、その現場をいまぼくたちは目撃している。

ウォルマート

 一昨日はシアトルのアマゾン本社を見てきた。昼休みにドッグランで犬を遊ばせている人たち。Walmartで目撃されるような超肥満の人はほとんどいない。カジュアルな服装で、多くは健康的な体型を維持している。きっと時間を見つけてジョギングをしたり、休暇はアウトドア・アクティビティを楽しんだりするのだろう。日常の移動手段は車よりも自転車といったタイプだ。ベジタリアンやビーガンもいるはずだ。
 アメリカは分断されている。その象徴がAmazon go とWalmartではないだろうか。犬と働く人たちと肥満を日常として生きる人たち。シアトルからたった200キロほど走っただけなのに、まるで別の国に来たみたいだ。社会学者の見田宗助さんは、近著『現代社会はどこに向かうか』のなかで、70年代にあった大きな「世代の距離」が80年代には著しく減少し、今世紀に入ってほとんど消失していると述べている。つまり親の世代と子どもの世代が同じようなものを消費し、同じ価値観をもって、同じ生き方をしているわけだ。当然といえば当然だろう。ぼくたちは未来を構想できなくなっている。どこへも行けなくなって「いま・ここ」に停滞している。だから「世代」は消失するのだ。
 行き詰っているのはアマゾンで働く人たちも同じだろう。ジェフ・ベゾスに新しい世界構想があるとは思えない。シアトルはシアトルで行き詰っている。アマゾンはアマゾンでどこへも行けなくなっている。ドッグランで犬を遊ばせ、ジョギングをしてオーガニックな食生活を心がけている父親の息子は息子で、やはり行き詰っているはずだ。別の言い方をすると、親も子も同じような価値観のもとに生きている。シンプル化、ナチュラル化、シェア化、脱商品化、脱市場経済化……ある階層を見れば日本もアメリカも違いはない。フランスやイギリスなどヨーロッパ諸国も同じだろう。
 経済発展を遂げたとされる国々に共通した、きわめて特徴的なことは、一つの国のなかで分断が進んでいることだ。分断の深さは、もはや人々を一国の国民として束ねることが不可能なところまで来ている。だから各国の指導者たちは移民排斥の政策を掲げ、ナショナリズムの高揚を画策し、仮想敵国の脅威を煽ることで懸命に国体を維持しようとしている。だが趨勢はすでに決している。国家は解体していく。誰がどう頑張っても、この流れは変わらない。
 いまやAmazon go とWalmartの距離は、別々の惑星くらいに広がっている。都会と田舎、シアトルで暮らす人たちとYakimaのような内陸部の町で暮らす人たちは、ほとんど外国人同士のようになっている。どっちが本当のアメリカなのか知らない。しかしWalmartで買い物をする人たちとAmazon goで買い物をする人たちは、間違いなく別の国の住人だ。民主党を支持する人たちのアメリカと、共和党を支持する人たちのアメリカは別の国だ。トランプを支持する人たちには、オバマやサンダースのやっていること、やろうとしていることは理解できないだろう。「ポリティカル・コレクトネス? いったいどこの国の話だ」という感じではないだろうか。
 別の国といっても、こんなに太った人たちだらけの国は、アジアでもヨーロッパでも見たことがない。人々は体型からWalmart化している。果たして彼らは幸せなのか? 他人の幸せについて傍から云々することはないけれど、ひたすらカロリーの高い餌を与えられて肥育されている家畜をぼくは連想した。大量消費の社会とは、人々に安価で低栄養で高カロリーの餌を提供して、家畜のような生活を送らせるものなのだろうか。

パン

 現在、飼育されている乳牛の多くは改良に改良を重ねられて、100年前の5倍以上の乳を出すようになっているらしい。乳量を維持するために大量の穀物が与えられる。本来、牛は草を反芻するための四つの胃を備えた草食動物である。穀物だけを与えると牛は死んでしまう。そのため一般的には穀物と粗飼料(草を裁断したもの)を混ぜ合わせて与える。穀物は草よりも安価で手に入りやすく、乳量も増やしてくれるため、どうしても穀物多給型になる。穀物を多量に摂取すると、牛は様々な内臓疾患に侵される。発症を抑えるために大量の抗生物質が投与される。
 Walmartで買い物をする人たちだけのことではない。安い餌を過剰に与えられてぶくぶく太っているのはぼくたちも同じだ。安価で手に入れることのできる食べ物、インターネット上で安易に提供されるモノやサービス、ニュースをはじめとする情報、音楽、映画、ゲームなどの娯楽。とくに複製可能なものは広汎に流通するほど無料に近くなっていく。これらを無節操に消費することによって、ぼくたちの身体と精神には余分な肉がたくさんついている。乳牛と同じように様々な疾患に曝され、多くの人はなんらかの薬を飲んでいる。睡眠導入剤、各種の精神薬、降圧剤、コレステロール値を下げ、食後の血糖値を抑制する薬剤……大量の抗生物質を投与される牛と変わらない。ただ彼らと違って、ぼくたちは自ら進んで、そうとは気づかないうちに家畜化していくのだ。

青空

 ぼくがわりと好きでよく読んでいるイギリスの作家に、アーヴィン・ウェルシュという人がいる。ダニー・ボイルの映画『トレインスポッティング』の原作者と聞けば、思い当たる方も多いだろう。歳はぼくと同じくらい。小説の主な舞台はスコットランドの首都エディンバラで、ウェルシュ自身がそこで生まれ、暮らしているようだ。作品には彼の自伝的な要素も反映されていると思われる。小説の登場人物の多くは、失業保険をもらいながらドラッグに浸り、パブでビールを飲んで喧嘩をしたり、たまに趣味でDJをやったりという、まあどうしようもない人たちである。サッカーに熱狂するフーリガンたちの暴力沙汰もよく出てくる。彼らの多くは郊外のゲットーみたいな公共住宅に住んでいて、その点では、ヨーロッパに暮らすイスラム系移民と似たような境遇にある。
 シャルリー・エブド事件以来、ヨーロッパ社会でイスラム系移民の置かれている現状が、ぼくたちの目にも少しだけ詳らかになった。襲撃事件と相前後して、ユダヤ系スーパーに立てこもり警官に射殺された容疑者がいた。彼が少年時代に住んでいたところは、フランスでも最貧困地区といわれる街だった。アラブ系や黒人などのイスラム教徒が三万人くらい住んでおり、社会からの偏見と貧困を背景に、すさまじい憎悪が渦巻いているようなところらしい。財布を手にした瞬間に強盗に襲われる。ピザの配達さえ入ることができない。行政からも見捨てられ、救急対応の医者や郵便配達も、治安が悪いからと来てくれない。火事が起きたときだけ消防が来るのだそうだ。仮に頑張って大学を卒業しても、出身地を書いた履歴書はゴミ箱へ行く。当人たちにしてみれば、暴動でも起こすしかないということかもしれない。
 生まれたときから貧困と差別と偏見しか知らない若者が、強盗をしたり麻薬に溺れたりするのは、ごく自然なことだ。捕まって刑務所に入ればイスラム過激派に感化され、出所したときにはテロリストになっている。ムスリムとしての生き方をとことん否定されてきた若者が、イスラム国などの呼びかけに応じてジハードの戦士になる。
 テロ事件を引き起こしたイスラム系移民が置かれている状況は、すでにヨーロッパの多くの若者が共有するものになっているのかもしれない、と先のウェルシュの小説などを読んでいて思う。ただ後者は、国家によって手厚くケアされているところが大きな違いだ。小説に描かれた若者たちは、本国政府から失業保険や生活保護をドラッグや酒のように与えられることで、テロリストになる代わりに多くが半ば廃人化している。逆に言えば、こうした補給が途絶えれば、即座にテロリストに変貌する可能性を秘めているということだろう。
 アメリカでは失業保険や生活保護の代わりがWalmartなのかもしれない。いかにも資本主義自由市場経済の国だ。アメリカは世界の先進モデルととらえることもできる。同一労働・同一賃金化が進むグローバル化した世界では、安価なモノやサービス、娯楽などが「叛逆」を抑え込むためのツールとなっていくのかもしれない。それでもテロリストへの道は常に開かれている。現にアメリカでは銃による無差別な殺人事件があとを絶たない。これは国内テロみたいなものだろう。見境なしに銃を乱射する高校生は、ホームグローンのテロリストと言っていいのではないか。コロンバインにしてもマイケル・ムーアの映画などで見るかぎり静かな郊外の住宅地だ。きっと住人たちはWalmartやSafewayで日用品を購入しているのだろう。そういう場所で、あるとき学生による「叛乱」が起こる。
 外へ向かって牙を剥けない人たちは内側で叛乱を起こす。家庭で連れ合いや子どもたちに向かって、あるいは自分自身に向けて。

 ペルーやハイチ、フィリピン、アルバニア(貧困と政情不安に苦しむ開発途上国)では、毎年自殺する人は10万人当たり五人程度だ。一方、スイスやフランス、日本、ニュージーランドのような豊かで平和な国では、毎年10万人当たり10人以上が自ら命を絶っている。(ユヴァル、前掲書)

 ユヴァルも言っているように、人間は簡単には幸せにはなれないのだ。すでに見たように、ぼくたちは「ひとり」では幸せになれない。人が幸せになるためには、どうしても「ふたり」という場所が必要だ。「場所」という言葉を使ったのは、実体として一人とか二人とか言いたいわけではないからだ。

野の花

 大量消費社会の落とし穴は、好きになるための時間をつくれないことだと思う。何かを好きになるためには時間が必要だが、モノもサービスもひっきりなしに過剰に提供されつづけるなかでは、この時間を捻出できない。もちろん一目ぼれということはある。はじめて耳にした音楽、はじめて見た絵画を、瞬時に好きになる。だがその場合、人でも音楽や絵画でも、好きになる対象は世界でただ一つのものだ。大量に生産され、安価に流通しているもののなかには、そうした類のものはほとんどない。
 クラシック音楽を好きな人と、まったく興味のない人がいる。どれを聴いても同じに聞こえるとか、長くて退屈といった声をよく耳にする。ぼくもいまでこそクラシックをよく聴くけれど、中学や高校のころはほとんど興味がなかった。最初は加山雄三やベンチャーズ、中学に入ってビートルズを聴きはじめ、徐々にロックに深入りしていった。大学時代にジャズの洗礼を受ける。バッハやモーツァルトなどのクラシック音楽を「いいなあ」と思って聴きはじめたのは、30代半ばごろからである。つまり四半世紀の時間がかかっているのだ。
 剣豪小説で一家を成し、オーディオマニアとしても有名な五味康佑が、あるエッセーのなかで「名曲というものは作曲家がつくるものではなくて聴衆がつくる」と述べている。たしかにそうだ。いくらベートーヴェンの『第九交響曲』が名曲といっても、「いいな」と思って聴く人がいなければ名曲になりようがない。『第九』はまだわかりやすい。だがクラシック音楽の最高峰と目されているバッハの『マタイ受難曲』などは、一度や二度聴いてわかるものではないだろう。ベートーヴェンも後期のピアノソナタや弦楽四重奏曲になると、それなりにクラシック音楽を聴き込み、長く彼の諸作品に親しみながら自身も年齢を重ね、あるとき「ああ、こんなに崇高な音楽だったのか」と気づくのである。
 宮沢賢治はベートーヴェンの最後の三つの弦楽四重奏曲を、『第九』以上に偉大な作品と言っているけれど、それは賢治の発見であり創造である。彼がベートーヴェンの作品を偉大な作品として再創造したと言ってもいい。たとえば作品131(第14番)を聴いてみよう。ほとんどシェーンベルクである。新ウィーン派の12音階や無調音楽と一緒に聴いてもまったく違和感がない。そんなものがすぐにわかるわけはないし、まして生涯で至高の一曲と言い切る場合、その人の人生が賭けられていると言っても過言ではないだろう。
 好きになることは、多分に創造や表現の要素を含み持つ。すると面白いことになる。たとえばベートーヴェンのある作品を好きになったとしよう。「いいなあ」と思ってその人が聴いている音楽は、ベートーヴェンの作品なのだろうか、それとも聴いている人の作品なのだろうか。両方だと思う。作品と、それを聴いている人が「ふたり」という場所で出会っている。ぼくたちが誰かを、何かを好きになるとはそういうことなのだ。
 何度も馬鹿の一つ覚えみたいに取り上げるけれど、映画『タイタニック』のなかで、ローズはジャックによって創造された世界でただ一人のかけがえのないローズである。ローズにとってのジャックも同じである。これが「ふたり」という場所だ。人と人が、あるいは人と作品が出会って「ふたり」という場所が生まれる。この場所に降り立ったとき、人間という生き物は幸せを感じるように出来ている。「ひとり」の場所では、何をどうやったところで、ぼくたちは不全や空虚のなかに置き残される。見易い道理ではないかと思う。