The Road To Singularity ~未知の世界を生きる(Ep.7)

7 星空に抱かれて

 午後11時にボブと一緒に星を見に行く。さすがに外は真っ暗だ。ロッジを出たときには、「なんだ、こんなものか」と思った。この程度の星空なら日本でも何度か見ている。だが一分ほど経って、暗闇に目が慣れてくると腰を抜かしそうになった。なんだ、これは! 空全体が星に覆われていて、その数といい密度といい文字通り圧倒的なのだ。こんなものが頭上にあったとは、毎夜ぼくたちの上に覆いかぶさっていたとは、いまこの瞬間まで気づかなかった。迂闊だった。
 ボブが狙っている天の川が、天上から大地に注ぎ込んでいる。ここは「Galaxy」という科学用語よりは「Milky Way」という詩の言葉を使いたい。まさにミルクが空を流れている。そんな感じだ。少し山のほうへ登ってみる。夕食後の散策で、ボブは撮影ポイントの目星をつけていたようだ。さっそく三脚を立ててカメラをセットしている。ぼくの安物のデジカメでは、さすがに夜の空は写らない。ボブが使っているカメラもデジタルだが、性能がまったく違う。値段も数十倍は違うはずだ。写真は彼にまかせよう。

星空1

 夜空を見てほっとするのは、星も月も変わらないせいかもしれない。街の景色は半年か一年でめまぐるしく変わるけれど、頭上の星空は変わらない。この数万年、ほとんど変わっていない。おかしなもんだなあ、とファインダーを覗き込んでいるボブを見て思う。AI化した最新の高性能デジタル・カメラで、何万年も変わらない宇宙の写真を撮っているのだから。
 AI化といえば、天体望遠鏡もかなり大変なことになっているらしい。高価な望遠鏡には天体ナビゲーション・コントローラーというものが装備されていて、星図を確認しながら見たい天体を指定すれば自動的に視野に導入、あとは自動的に高精度で追尾してくれる。赤道儀を使って極軸を合わせて、といった面倒な操作はコンピュータがやってくれるので、ほとんどポイント・アンド・クリックだけで済んでしまう。こんな最新のメカニズムを駆使して、二百万年前の光をとらえようっていうんだからな。ストーンヘンジのころからずいぶん遠くへ来たものだ。遠くへ来すぎて、帰り道がわからなくなっているのが、いまの人間かもしれない。
 ストーンヘンジと聞いて、ぼくなどはすぐにビートルズの『ヘルプ』を連想する。映画のなかで、「I Need You」と「The Night Before」を演奏するシーンが撮影されたのが、ソールズベリー平原のストーンヘンジなのだ。メンバーたちはいかにも寒そうに演奏している。リンゴなんて鼻水が出ているじゃないか。そういえば『レット・イット・ビー』の屋上ライブも風が吹きすさんで寒そうだった。映像が収録されたのは一月末だったらしい。しかも緯度の高いロンドン、アップル本社ビルの屋上ときたもんだ。でも演出としては最高だった。髭をたくわえ黒のスーツを着たポールはたくましい。ジョージは黙々とギターを弾いている。ジョンはヨーコ夫人の毛皮を着ている。リンゴのオレンジ色のコートも女性ものじゃないかなあ。
 ビートルズの話をはじめるときりがないので星空に戻ろう。ストーンヘンジが古代の巨石天文台であったことは、いまでは定説になっている。巨石が計算尺のような役割を果たしていて、これを使うと月と太陽の出入りなどをかなり正確に予測できるらしい。世界中のあちこちに同じような遺跡が残っているという。中世になるとヨーロッパの主要都市に天文台が作られる。といっても文字通りの天文台ではない。かつては日本でもお寺の鐘が時間を告げた。彼の地において時間を管理するのは教会だった。というわけで教会が最先端の天体観測所となった。なにより教会の大聖堂は当時の高層建築である。文献や資料も揃っている。現在のようにハワイのマウナケア山頂に天体観測所を建てるというわけにはいかないから、そういうところで天体観測をしたのだろう。
 ニコラス・コペルニクスはカトリックの司祭だった。地動説についてまとめた論文を、彼は生前にはけっして出版しようとしなかった。そりゃあそうでしょう、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは異端者として有罪となり無期懲役を言い渡された。後に減刑(監視付きの館で軟禁)となるが、死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。厳しい~! あの、誤解はないと思いますが、ガリレオ・ガリレイってロック・バンドじゃありませんよ。最近は相対性理論というバンドもあって、ややこしいったらありゃしない。
 どうも話が脱線していけないな。極軸が合っていないんじゃないか? スピノザはレンズ磨きで生計を立てながら『エチカ』を書いた。彼はオランダ人だが、ティコ・ブラーエはデンマークの貴族である。その弟子のケプラーは、諸惑星が太陽を焦点の一つとする楕円軌道上を動くという有名な「ケプラーの法則」を唱えた。さらに「万有引力の法則」を発見し古典力学の礎を築いたアイザック・ニュートンと、多くの天文学者や数学者や物理学者や自然哲学者たちが工夫を凝らして月や星を観察しつづけてきた。無数の無名の人たちが夜空を見上げつづけてきた。
 人間はいつごろから星空を見上げるようになったのだろう。洞窟に住んでいたころから夜空を見ていたのだろうか。きっとそうだと思う。ぼくたちはいま、ラスコー洞窟の壁画を描いた人たちと同じ夜空を見上げているのである。

星空2

 ところで動物たちも、空を見上げて雲を眺めたりするのだろうか。ぼくは長く猫を飼っているけれど、彼や彼女が空を見上げているところを目撃したことはない。たしかにポーズとして、上を見ていることはある。それは空を見ているのでなく、宙を飛んでいる鳥や蝶を見ているのだろう。だからいつも全身全霊を込めて見ている。注視であり、凝視である。喰ってやる、という気概をもって見つめている。ぼくたちのように、ただぼんやり空や雲を眺めているのとは違う。だらしなく口をあけて、頬といい顔といい身体全体の筋肉を弛緩させて見ているわけではない。おたくの犬や猫はどうですか? 夕焼けを見ながら、物思いにふけっていたりするのかな。
 おそらく人間だけが空を見る、雲を眺める。夜になれば星空を見上げて圧倒される。驚異の念をおぼえる。なぜだろう? それは人間が「心」と呼ばれるものをもっているからだと思う。遠くを見やるとき、ぼくたちは自分の心に語りかけているのである。では動物たちには心がないのか? 微妙なところだけれど、人間のような「心」はないんじゃないかな。現代の生命科学は、すべての哺乳類と鳥類、少なくとも一部の爬虫類と魚類には感覚と情動があると主張している。さらに感覚や情動はデータ処理のアルゴリズムである、という理論が幅を利かせてきている。うかうかしていると、人間と他の動物、さらにはAIとの境界は意味をなさなくなる。しかしぼくたちが「心」と呼んでいるものは、感情や情動を司っているだけではない。まったく次元が違うという気がする。

花

 父が亡くなってそろそろ5年になる。寂しかったり心細かったりもするけれど、父との関係はだいたいのところ良好である。かえって存命中よりいいかもしれない。毎朝父に挨拶をするし、日に何度となく父のことを考える。元気なころにはなかったことだ。懐かしい思い出や面影とともに父が近づいてくる。この感覚は悪くない。ついでに一人で暮らしている母のことも気になって、顔を見に行かなきゃ、なんて思う。そんなことを考えると、「死んでみるのも悪くはないかもしれない」と思ったりする。ぼくの死後も子どもたちとの関係が、いまの父との関係のようにつづいていくのだとしたら、死んでみるのも悪くない。
 人間の場合、死んだ人は死んだままではなく、ぼくやあなたの思い出となり、その人たちのなかに生きつづける。誰かのなかで生きつづける自分を、まるで自分そのもののように、ぼくたちはリアルに感じることができる。心身一如の「私」はいまここにある。その私がなくなっても、他者のなかで生きつづける私を「自分」と感じることができる。人間と他の動物たちとの違いはそんなところにある気がする。
 また、こんなこともある。学生のころ、好きな人と炬燵に入って一日中レコードを聴いていた。あれ以上の幸せってないよな、といまでも思う。結婚してからも、子どもたちや家族と過ごす時間のなかで、同じように幸せなときがたくさんあった。こうした「幸せ」は自力で単独には生み出せない。「生まれてきてよかった」「生きていてよかった」と思えるような幸せは、かならず他者によってもたらされるものだ。つまり自分が自分であることをもっとも生き生きと、大きな喜びとともに鮮烈に、強く確信をもって感じるとき、そのような「自分」は他人によってもたらされているのだ。
 ささやかだけれど無上の幸せ。特別なものではない。ただ「このぼく」にとって、という体験の固有性において特別なだけである。一般化して語られる幸せは、ただの記号に過ぎない。「幸せ」というリアルな感覚は一人ひとりの「その人」に固有に訪れる。そして「その人」は、もともとその人であったわけではない。ほかならぬ「この私」は、誰かとの出会いによって生まれる。世界にただ一人の「あなた」のまなざしによぎられて、一般的な代名詞に過ぎなかった私が、「この私」という固有な存在に、ただ一つのかけがえのない世界となる。
 私が「この私」である根拠は、私のなかにはなくて、「あなた」という特別な他者のなかにある。ぼくたちが日々を生きていることの基盤は二人称のつながりにある、と言ってもいいだろう。誰もが二人称のつながりにおいて生き、死もまた誰かによって生きられる。そこが遺伝子やアルゴリズムが跳び越えることのできない、人間と他の動物たちとの本質的な差異だと思う。こうした差異を生み出しているのが人間の「心」なのである。

夕暮れ

 ヒトとチンパンジーは600万年ほど前に共通の祖先から分かれたと言われている。その後、ヒトは独自の進化をとげて、450万年前にアウストラロピテクス・ラミドゥスが現れる。250万年前には、最初に石器を作った祖先の一つであるホモ・ハビリス(器用な人)が、180万年前には最初にアフリカを出たホモ・エレクトウス(直立人)が、さらに3万年前までヨーロッパで生き延びていたホモ・ネアンデルターレス(ネアンデルタール人)などがつぎつぎに登場し、10万年前にわれわれが属している種であるホモ・サピエンス・サピエンスが現れる。
 スティーヴン・ミズンの『心の先史時代』によると、このホモ・サピエンスたちのなかで6万年前から3万年前にかけて文化の爆発的発達が起こり、ビッグバンのようにして最初の芸術、複雑な技術、宗教が現れた。この時期に原初的な人間の心が生まれた、とミズンは言う。彼によれば初期人類は、石器などを作る技術的知能、狩猟採集のために必要な知識を管理する博物的知能、集団で生活するために必要な社会的知能、という具合に特化した認知領域をもち、各要素を分化した状態で発展させてきた。こうした初期人類の認知領域が、あるとき相互に連結されて「認知的流動性」が生じた。これが現代人類の心の原型となったというのである。
 一方、ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』のなかで、ぼくたちが一般的に「心」と呼んでいる主観的意識のある心は、いまから三千年くらい前に生まれたと述べている。それまではどうだったのか? ジェインズの用語を使えば〈二分心〉の時代だった。つまり人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていたというのである。こうした〈二分心〉は社会統制の一形態としての役割を果たし、おかげで人類は小さな狩猟採集集団から大きな農耕生活共同体へと移行できた、とジェインズは言う。なぜなら〈二分心〉の人間にとって、声こそが意思であり、意思は命令という性質をもつ声として現われ、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだったからである。
 このような〈二分心〉は、それを統制する神々とともに言語進化の最終段階として生まれた。では神々はいかにして生まれたのか。神々の起源は? ジェインズによれば、神々の起源は死者である。死んだ人々が神になった。とりわけ死んだ王が生ける神となった。なるほど、死せる王たちが最初の神だったわけだ。それはいつごろのことなのか? 現在までに発見されたなかで、最古の王墓は紀元前9000年ごろものとされている。紀元前7000年ごろになると、パレスチナの遺跡などから神の家らしきものが現れる。こうした神の家は紀元前4300年ごろにはメソポタミア全域に広がる。
 大雑把に1万年ほど前ということになるだろうか。よろしい。現在より遡ること1万年から3000年までを〈二分心〉の時代としよう。その後、人々の集団が大きくなって諸問題が複雑化したとか、文字による表記がはじまり神々の声にとって代わるようになったとか、幾つかの条件が重なって神々は衰退する。神々と人間との提携関係が弱まり、ついには人間に神々の声が聞こえなくなり、〈二分心〉は崩壊の時代を迎える。以下、詳細は省くけれど、要するに〈二分心〉に代わるのものとして意識が誕生した、というのがジェインズの描くシナリオである。沈黙した神々に代わって「私」が判断し、決定を下さなければならなくなったわけだ。
 そう言われると、そんな気がしてくる。これまで見てきたことをまとめてみよう。

1. 原初的な心の誕生(6~3万年前)
2. 〈二分心〉の時代(約1万年前~3000年前)
3. 主観的意識のある心の誕生(3000年前~)

 面白いことに、安田登さんによると「心」という漢字も3000年ほど前に生まれたという。偶然ではないだろう。ジェインズの考察と勘案すると、どうやら3000年くらい前に、「自己」とか「私」といった主観的意識のある「心」が生まれたと考えてよさそうだ。ここで一つ気づくことがある。3万年前(ないしは6万年前)から1万年前のあいだ、2万年から5万年がそっくり空白ではないか。2万年と5万年、3万年の開きがあるけれど、どっちにしても長大な時間である。この間、人間の心はどういう状態だったのか?
 先に、人間が生きることの基盤は二人称にあると言った。空白の2~5万年、この長大にして未解明の期間、ホモ・サピエンスは〈二人称〉の時代にあった、と考えてみてはどうだろいう。ぼくたちの祖先は、どこまで行ってもいつも「ふたり」という状態で生きていた、となんの傍証もないけれど主張したい。するとミズンの言う「認知的流動性」を備えた原初的な心から、ぼくたちが普通に「心」と呼んでいる主観的意識のある心が誕生するまでの歴史は以下のようになる。

1. 原初的な心の誕生
2. 〈二人称〉の時代
3. 〈二分心〉の時代
4. 主観的意識としての心の誕生

 空白の2~5万年を少し素描してみよう。〈二人称〉の時代、世界は「ふたり」として体験された。〈二分心〉の時代のように神々の声は聞こえていないし、「神」なるものを対象化することもない。それが「ふたり」ということだ。ぼくたちは一体化していて隙間がない。だから「あなた」が痛がっていることを「痛い」と感じる。ある朝、冷たくなっている「あなた」を「悲しみ」として体験する。「あなた」が動いたり笑ったりしなくなった日々を「辛い」とか「寂しい」とか感じる。そんなふうに世界はぼくたちに降りかかる。つまり人は世界を喜びや悲しみとして感受するようになったのだ。
 先史時代、人々が狩猟採集によって生活していたころの人口密度はとても低かった。夏井睦さんによると、1平方キロメートルあたり0.1~1人程度と推定されており、これはJR山手線で囲まれるエリアに6~60人程度になる(『炭水化物が人類を滅ぼす・最終解答編』)。人々は十数人程度の血縁集団で遊動生活をしていて、当然、他の集団と接触する機会はほとんどなかった。したがって食料をめぐって争ったり、競い合ったりする必要もなく、のんびり平和に暮らしていた。うらやましい。しかも昆虫、小動物、木の実など食料は豊富で、遊びながらでも集められるので、一日数時間ほどぶらぶら歩いて移動していればよかった。本当かな? とにかく、そうした楽園状態のなかで〈二人称〉の時代は長くつづいたと考えられる。
 一つのシナリオを描いてみたい。舞台は現在のイラクからイランにかけての一帯である。地球が温暖であった時代、このあたりも草木や動物が豊富だった。あちこち移動しなくても容易に食料が手に入るから、狩猟採集の民はしだいに定着をはじめる。家族はより大きな集団になり、社会性が高まる。その後、地球は寒冷期を迎える。植物や動物の生育域は縮小していき、チグリス・ユーフラテス川流域の、いわゆる「肥沃な三日月地帯」に人々は集まってきた。人は増える、しかし食べ物は限られている。もはや山手線の内側でのんびり平和に、というわけにはいかない。争いが起こる。最古の戦争(部族間の戦闘)は、この地で起こったと主張する学者もいる。暴力の痕跡を残した人骨や、棍棒や短剣などの武器が遺跡から発掘されているらしい。1万年ほど前のことと推定されている。ジェインズのいう〈二分心〉の時代が幕を開けたころだ。〈二分心〉によって統制された人たちが、「あいつらを殺せ」という神の声に従って戦争をしたのだろうか。
 もちろん戦争ばかりしていたわけではない。足りない食料を増産する術が模索され、農耕が発明された。世界で最初の都市が出現したのも、西アジア一帯と考えられている。やはり農耕との関係が深い。作物を育てるのに最初は天水に頼っていたが、安定した生産を得るためには灌漑が必要だ。そのために多くの人が集められ、都市国家が生まれた。城壁のなかに神殿と住居がある。巨大な建造物が現れるということは、原始的な宗教が生まれていた可能性が高い。まさに〈二分心〉の時代を象徴する景観だ。神々は問題を見極め、そのときの状況や目的に沿って行動を準備する。古代の都市国家において、〈二分心〉は有効に機能しただろう。それぞれの都市は、個別の神によって庇護されていた。神々は相互に不可侵なので、都市同士も平和に交易をつづけることができた。
 その後、先に見たような与件が重なって〈二分心〉は崩壊し、主観的意識のある心の時代を迎える。3000年ほど前に生まれた「自己」や「私」が肥大して、どうしようもなく行き詰っているのが現代と言うこともできるだろう。

レーニア山

 星空を見ていると泣きたい気持ちになるのはなぜだろう。大切な人がいまここにいてほしいと思うのは? その人と一緒に星を見たいと痛切に感じるのは? それは〈二人称〉の時代、ぼくたちが「ふたり」としてあった時代が追憶されるからだと思う。何万年も変わらない星々の光ともに、あの時代が甦ってくる。人間が自他未分の「ふたり」としてあったころを、泣きたいような気持とともに追想しているのではないだろうか。
 ふと、こんなことを思う。ラスコーの洞窟に暮らした先史時代の人たちも涙を流すことがあったのだろうか。誰かのために、あるいは自分自身の秘密のために泣くことがあったのだろうか。彼らは泣くかわりに星空を見上げたのかもしれない。人間の歴史がはじまって以来、無数の無名の人たちが、夜空の星を見上げるふりをして涙を流しつづけてきたのだろう。
 なんと人間は愛すべき生き物だろう。なんと悦ばしいことだろう。そのような生き物としてぼくが、あなたがあることは。誰もが固有の愛すべき生き物を生きている。そんな生き物が70数億も集まってつくっている世界が暗いものであるはずがない。暴力や貧困に満ちていていいはずがない。憎悪や悲嘆に明け暮れるままであっていいわけがない。
 人間は自分が何もので、どこから来てどこへ行くのか、といった意味をたずねたがる動物であり、そのために星空を見上げる必要がある。たぶんAIは星空を見上げなくても平気だし、時間の無駄と考えるかもしれない。賢いAI。その賢さのなかに、ささやかだけれど無上の幸せという感覚はないように思う。
 星空に抱かれると、いろんなことを考えるんだなあ。ぼくは30分ほど星を見ていた。寒くなってきたのでそろそろ部屋に引き揚げようかな。ボブはまだ粘って写真を撮りつづけるようだ。さすがはプロの写真家だね。風邪を引かないように。クマにも襲われないように。おやすみ。
 (Photo:© naonori kohira)