なお、この星の上に(49)

 青白く光る草原を駆けていた。いつか美しい茶色の馬を見た芒の草原だ。風に乗って駆けているみたいだった。大空を飛んでいる気分だった。日差しが弾ける。草花が匂い立つ。空が草原にばらまかれている。ふと横を見ると、先ほど健太郎に撃たれたはずの犬が一緒に走っている。黒褐色の毛に覆われた野犬だ。
「アツシ、おまえだな」
 伴走しているものは答えない。答えるまでもない。
「わしらは一つのものだ」
 そう言う彼もまた一匹の野犬だった。鼻が鋭敏になっている。いま追っているのは光の匂いだった。光に匂いがあるのか? あるとも。虹に色があるように。二匹は一陣の風のように草原を駆けていく。音のように戯れながら走りつづけた。草原は鈍色に輝いている。そのなかを一条の輝き流れる糸が走っていく。どこへ向かっているのかわからない。わかっているのは、駆けつづけなければならないということだ。足は休みなく地面を蹴っていく。途切れることのない音楽のように。爪で音符を刻んでいく。草原に耳には聞こえないメロディを残して。
「どこまでも一緒だ。一緒に駆けていこう」
 長いあいだ待ちつづけ、探し求めていたものと、ようやく出会えた気がした。彼はいまはじめて自分に触れている気がした。祖父や父から流れ下ってきた自分ではなく、自分が直に自分に触れている。この感触は、けっして一人では届かなかったものだ。ともに駆けるものがいて、はじめて生まれている感覚だ。前に進まなくてはならない。立ち止まってはならない。立ち止まれば、一つのものは二つに分かたれてしまう。一つのものであるためには駆けつづけなくてはならない。光や風とともに、大地と空と溶け合って進みつづけなくてはならない。
「おまえはわしで、わしはおまえだ。そうだろう、それでいいのだろう?」
 なんの違いも、なんの境界もない。どこまでが自分で、どこからが自分でないのか。どこまでが人間で、どこからが動物なのか。二つの心臓は一つの鼓動を刻んでいる。太古から、この場所は開かれている。おまえが見ているものは、わしが見ているものだ。わしが吸っている空気は、おまえの肺を通ってきたものだ。視線は光で、呼吸は風だ。この瞬間、いまここで世界が生まれている。前にもあとにも何もない。いま、このときだけが永遠につづいていく。すべてが身体のなかに入ってくる、目で見ているものも、鼻で吸っているものも、耳で聞いているものも、足が踏みしめているものも。みんなここからはじまったのだ。離れようとして離れない一つのものから。わしがおまえであり、おまえがわしであるという、この場所から。
 すべてが穏やかに静まり返ったまま、どこまでも広がっていた。深々とした静けさのなかを二匹の野犬が駆けていく。語ることなど何もない。二つで一つのものは声を発することもなく、はるばると冷えた山の空気のなかを駆けていく。世界の果てまでも駆けていく。そこにもう一つの世界がある。この世界とは別の世界が、少しだけ脇へ逸れたところにうずくまっている。そのわずかな距離は、鳥や幻が通うのは一瞬だが、人や動物が駆けていくには大変だ。だが、もうここがそうかもしれない。この先には空と大地しかない。二つのあいだには何もない空間が広がっている。そんな世界の果てへ、自分たちは来てしまったのかもしれない。
 不意に重さを感じた。それは痛みのようでもあり、最初の悲しみのようでもあった。どこから来たのか、この悲しみは。一つのものが分かたれ、しだいに引き離されて割れ落ちていくような感覚にとらわれている。
「待て、どこへ行く」
 言葉を発しているのは何ものなのか。深く沈んだ感覚のなかを、言葉は切れ切れに漂った。どこからか硝煙の匂いがしてくる。遠く置いてきたはずの死が匂ってくる。匂いに追いつかれまいとして足を早めた。だが、この重い足取りでは飛翔することなどできない。息を止めた。誰かが遠い声で呼んでいる。声に応えなければならない。そう思ったとき、彼はどこかに取り返しのつかない忘れ物をしてきたような気がした。
(イラスト RIN)