なお、この星の上に(48)

 家に帰る道すがら、健太郎は猟銃の手入れをする父の姿を思い起こしていた。そばに息子がいることも忘れたかのように、自分だけの思いに深く入り込んでいた。重く沈んだ物腰は、そのまま戦地に赴いた過去につながっていきそうだった。実際、あのとき父は自分のまわりに戦場をつくり出していたのかもしれない。銃を構える仕種があまりにも自然で、そのことにかえって違和感をおぼえた。額の下には照準具を見つめる暗い目があった。どこか冷酷な眼差しにも見えた。
 いまさらながら健太郎は父を問い詰めたくなった。あなたは戦争で何をしてきたのか。川を渡ろうとして氷に閉じ込められた馬の話などしていたが、本当はどうだったのか。血も凍るような体験をしたのではないか。黒くてドロドロした過去が眠っているのではないか。父の過去は自分の過去でもある。父の過去が自分のなかに同居している。一つの身体のなかに共存できないもの、共存してはならないものが居座っている。それが野犬に姿を変えて暗い森から出てくる。いかにもおかしな理屈だったが、どんな不合理なことも、いまは呑み込めそうな気がした。
 ほとんどためらいもなしに、途中まで下った道を引き返しはじめていた。見咎められないよう、本道を外れた枝道を行くことにした。山の空気は乾いていた。道に降り積もった落ち葉は軽く、靴の先で蹴ると蝶のように舞い上がる。小鳥の啼き声が聞こえた。そのことに思いがけず安堵をおぼえたのは、男たちが話していたことが気にかかっていたからせいかもしれない。山が静かな日には不吉なことが起こる。このあたりの山は静まり返ってはいないようだ。
 熊と間違えられて撃たれた男のことは、健太郎も聞いたことがあった。村の子どもたちは小さいころから、一つの教訓としてそういった話を聞かされて育つ。猟期に山に入ってはならない、とくに黒や茶色の服を着てうろついてはならない、静かに足音を潜めて歩くのも禁物だ。また別の話もあった。あるとき測量技師が山に入ったまま奇病に取り憑かれて動けなくなった。仲間とともに元気よく出かけたのが、午後には脂汗をかいて「痛い、痛い」と泣き喚くばかりだった。下山して病院に運ばれ、そのまま息を引き取った。当初はマムシに噛まれたのではないかと思われたが、それらしい傷は見当たらない。きっと強い毒をもつ植物か茸でも食べたのだろう。これも子どもたちへの教訓になった。知らない植物を無闇に口に入れてはならない。とくに茸類は絶対に食べてはならない。測量技師が死んだ日も、山は静かだったのだろうか。
 舶来品の石鹸みたいな匂いが漂ってきてきた。いつのまにか雑木林は植林された針葉樹の森に変わっている。空気は爽やかさを通り越して冷たかった。どこかに雪の気配がする。山の上のほうでは、すでに冬がはじまっているのかもしれない。いま自分は山の一部であり、山を流れている気流のようなものが血管のなかを流れている、と健太郎は思った。大きな生命の実感が満ちてきて、自分という一個の存在が山全体に広がっていく気がする。
 風のない静かな日だった。木立のあいだから差す秋の陽が、降り積もった落ち葉の上に暖かそうな日溜まりをつくっている。時間が止まったように感じられた。いつか祖父に連れられて、キジ撃ちに行ったときのことを思い出した。やはりこのくらいの適度に秋が深まった時期で、健太郎はまだ小学生の低学年だった。浅い谷間を隔てた山の斜面から、「ケーン」という独特の鳴き声が聞こえてきた。伐採されたまま植林のされていない山肌は一面が芒に覆われ、ところどころに低い灌木の茂みが見えている。
 いかにもキジが潜んでいそうな場所だ、と祖父は言った。キジはたいてい枯れ草や灌木のなかに隠れている。向こうが物音でも立ててくれないかぎり、人間の目で見つけることは難しい。そこで犬の出番となる。昔は笛を使っておびき出したというが、戦後はもっぱら犬が頼りだった。祖父が飼っていたのは中型の紀州犬で、この犬にキジの匂いを追わせる。獲物を見つけた犬は、しっぽを立ててポイントを睨んでいる。そのあいだに人間のほうは銃に弾をこめて狙いを定める。準備ができたところで合図をすると、犬は獲物に向かってタックルをかける。キジが飛び立ったところを散弾で撃つ、という段取りだった。
 実際に獲物が取れたのかどうかはおぼえていない。おそらく祖父は何度か銃を撃ったはずだが、弾が放たれるところも獲物がどうなったのかも、健太郎のなかでは記憶をとどめていなかった。キジが撃たれる光景は大きな銃声とともに子どもに恐怖心を与え、幼い記憶は無意識のうちにそれを消してしまったのかもしれない。戦争で孤児になった子どもたちのなかには、すっかり記憶をなくしている者がいるという。あまりにも大きな恐怖や悲しみは記憶として残らないのかもしれない。そうやって本能的に身を守っているのだろう。
 不意に足元の枯れ枝を踏み折る音が異様に大きく響いた。その音に驚いて足を止めると、森は不思議な静けさに包まれていた。耳を澄ましても何も聞こえない。鳥の羽音も、枝の擦れ合う音もしない。近くに沢でもあるのか、サラサラと水の流れる音だけが聞こえてくる。たしかに今日は山が静かだ。死んだように静かだった。不吉なことが起こりかけているのかもしれない、と健太郎は思った。そのことへの怖れとともに、半分は待ち構えるような気持ちがあった。
 木立の先に腰をかがめている男の姿が目に入った。父だった。このあたりでは伐採した材木や薪を運ぶのに、いまでも木橇が使われることがある。橇の滑りを良くするため、地面に丸太などを埋め込んだ道が山のあちこちに敷かれている。父が待機しているのは、そうした道の傍らだった。行く手を阻まれる格好で、健太郎は足を止めた。これ以上進んでは気づかれてしまう。ここで野犬が現れるのを待つつもりなのだろう。近くにも別の射手が待機しているはずだが、いまのところ確認できるのは父一人だった。
 とりあえず向こうからは見えない木の陰に腰を下ろした。何時ごろだろう。すでに太陽は高くなっている。山では時間の経過がわからなくなる。里とは時間の流れ方が異なっているのかもしれない。同じ速度で均質に流れるのではなく、何時間も止まっていた時間が、何かのきっかけで一気に経過する。
 静かだった山が、急に騒がしくなった。犬が放たれたらしい。遠くから何匹もの犬が吠える声が聞こえてくる。まだ距離は遠かった。目の前にいる男も動かない。山のなかで起こっていることにじっと耳を澄ましている。多くの男たちが同じようにして待機していることだろう。健太郎もまた息を殺して待ちつづけた。耳を澄ましていると全身の感覚が研ぎ澄まされていく。鋭敏になった聴覚には、木の葉の散る音さえも聞こえる気がする。
 静けさに釣り出されるようにして、健太郎のなかに眠っていた記憶が首をもたげた。実際には見たこともない光景だった。明け方なのか夕暮れ時なのかわからない。薄明のなかに黒いものがうずくまっている。舗装されていない土の道で、うずくまっているのは動物らしい。よく見ると犬だ。一匹の犬が傷つき、疲れ果てて動けなくなっている。かすかに息はしているらしい。傍らを兵士たちが歩いていく。みんな銃を肩に担いでいる。犬には目を止める者はいない。きっと路上に盛り上がった土塊くらいに思っているのだろう。トラックが通る。大砲を積んだ車も通る。
 やがて犬は息絶える。死んだ犬は踏みつけられて本物の土塊に近くなる。アイロンかローラーでのされたように平たくなっていく。いまや犬は動物ではなく薄汚い布切れのようだ。アスファルトにこびりついたタールか何かにも見える。雨が落ちてくる。風も吹いてくる。雨に流されて、薄い一枚の布のようになった犬は街を漂う。風に吹き飛ばされて荒涼とした大地の上を飛行する。それは首のない死体が無数に転がっている薄暗い荒野だ。煙が立ち上っているのは死体を焼いているのだろうか。畑には烏さえいない。この異様な世界は烏も寄せ付けない。人の血と脂が湯気となって天に昇っていく。
 そんな記憶が暗い部屋の隅で膨らんで、眠っている健太郎のなかに忍び込んでくる。父の記憶ではないだろうか、といまにして彼は思った。あそこで銃を懐に抱いて待機している男の記憶、それが暗い水のように夜毎流れ込んできていたのではないか。自分のなかに広がっている未知と謎は、この男によってつくり出されたものだ。この男が、自分のなかの半分を謎にしている。謎のなかにはいろんなものが棲んでいる。邪悪なものもいる。おぞましいものもいる。この男がいるかぎり、自分という人間は潔癖ではない……。
 そのとき一発の銃声が聞こえた。響きは長く尾を引きながら、ゆっくりと山のなかに吸い取られていった。再びあたりは静かになった。目の前の男はまだ動かない。銃声のしたほうへ小さく顔を向けただけで、あいかわらず腰を上げる気配はない。銃声は一発だけだった。息が詰まりそうな時間が過ぎていく。何かがやって来ようとしていた。心臓が高鳴るのがはっきりとわかった。緊張感で息苦しい。無性に喉が渇いた。何度も舌で唇を舐めるが、すぐに乾いてしまう。深呼吸をすると父が振り返りそうな気がする。
 暗い影のようなものが森を覆っている。強大な力を持った危険な存在が、近くに潜んでいる気配が感じ取れる。時間はタールのように路面にこびりついている。流れない時間から引き剥がされるように、それは姿を現した。雑木林の下生えのなかから不意に現れた。一匹の野犬だった。目の前で低い唸り声を上げて牙を剥いている。全身が硬い鉱石のような黒褐色の毛に覆われ、健太郎のほうを冷ややかに凝視している。
 奇妙に澄んだ視線に射抜かれたまま、彼はその場を動くことができなかった。身体から汗が吹き出してくる。努めて落ち着こうとした。怯えていることを悟られてはならない。一方で、いま起こっていることにたいする現実感が乏しかった。自分の身に危険が迫っているのに、そのことを素直に受け入れられそうな気がする。どこか陶酔した夢見心地に引き込まれかけ、これから自分に起こることが、自分の身を離れた別の場所で起こることのように感じられた。
 長い時間が経過した気がするが、実際には数秒だったのかもしれない。不意に野犬の身体が膨らんだように見えた。つぎの瞬間、犬は素早く健太郎の横を走り抜けて、父のいる木橇道のほうへ飛び出していこうとした。
「待て」
 犬は自分の名前を呼ばれたかのように立ち止まった。
「アツシ、おまえか」
 犬や健太郎のほうを向いてわずかに牙を剥いた。肯定したようにも、否定したようにも見えた。それから林の外へ身を躍らせた。異変に気づいた父が銃を構えた。流れるような仕草で弾を薬室に起こり込み、膝撃ちの姿勢で狙いをつけた。まさに引き金を絞ろうとする間際だった。
「撃つな」
 突然現れた息子に、父親の指は止まった。照準具から目を離して健太郎を見ると、
「離れろ」と怒鳴った。
 その隙に、犬は父に襲いかかった。鈍い銃声が空気を震わせた。ひと握りの毛が宙を舞った。悲鳴は上がらない。弾は犬の身体をかすめただけで、命中はしなかったらしい。二発目の銃声はなかった。火薬の匂いが漂ってきた。
「撃て、撃て」誰かが叫んでいる。
 犬が父の腕に喰らいついていた。銃は持ち主の手を離れて地面に転がっている。
「撃て」叫んでいるのは父だった。
 憤怒と痛みに顔を歪め、犬を拳で殴って引き離そうとしている。
「銃を拾え」必死の形相で父は訴えた。
 健太郎は言われるままに銃を取った。犬は銃の先で触れられるほどの距離だ。父の銃は左右二連式の散弾銃だった。弾はあと一発残っているはずだ。引き金を絞れば自動的に発射される。これだけの至近距離にあっても、誤って父を撃ってしまいそうな気がした。
「早く撃て」
 父や横向きに身体をねじるようにしている。その喉仏に野犬は喰らいつこうとしている。もはや猶予はない。健太郎は銃を構えると、照準具も見ずに狙いをつけた。犬は父に気を取られて、自分に向けられている銃口に気づかない。
「撃て」父が叫んだ。
 銃声が山の空気をつんざいた。何が起こったのかわからなかった。自分の身体のなかを風が吹き抜けていく気がした。その風が火薬の匂いも、血の匂いも吹き払ってくれる。まるで夢で見た犬のようだった。布状になった彼の身体は、風に運ばれる羽根のように舞い上がる。
(イラスト RIN)