なお、この星の上に(39)

 いつもより遅くまで寝ていたらしい。部屋には朝の光が満ちている。身体全体が激しい運動をしたあとのように熱を帯びていた。長い道のりを駆けてきたような疲労感が残っている。寝巻きの袖をまくると腕に引っかき傷があった。血は赤黒く乾いている。立ち上がり裾のほうもはだけてみる。足の傷はもう少し深かった。何箇所か固まった血が、皮膚に粘土のようにこびりついている。
 いずれもたいした傷ではない。手当をするほどのこともない。だが表面的な傷以上に、健太郎は自分がどこか深いところで裂けてしまっている気がした。何かが壊れかけ、崩壊していこうとしている。自分というものが、半分は自分だが、もう半分は自分ではないものに感じられる。自分のなかに未知の領域があり、そこから湧き出してくる謎が絶えず彼を引き込もうとする。未知を探索したいとは思わなかった。こんなことからは自由になりたかった。
 口数も少なく朝食を済ますと、いつもと同じように家を出た。今日も一日、この自分を生きなければならないことを耐え難く感じた。自分であることは恐ろしい。自分が自分であることこそ恐ろしい。なぜなら自分は、いつでも容易に自分ではなくなってしまうからだ。何かが飛び込んできたのだ。その正体不明のものと、無理な共生を強いられている気がした。
 午後の授業が終わっても、朝の気分はつづいていた。田んぼでは刈り入れが終わり、乾いた土は短く裁断された茶褐色の藁に覆われている。その風景はどこか寒々としていた。夜のあいだに起こっていることを思い返してみる。目を閉じると森の匂いが強くなった。落ち葉や樹皮や腐葉土の匂いが迫ってくる。森のひときわ暗い場所から、何かが現れ出ようとしている。だが、そのあとのことは判然としない。目が覚めたときには、記憶はほとんどかたちをとどめていない。異変は熱病のように通り過ぎている。ただ全身に獣の臭いが染み付いている。顔や手足に傷がある。
 森がやって来たのだ、と健太郎は思った。森は危険な場所だ。このあたりの子どもたちは物心つくとともに、親たちから野生の茸は絶対に食べてはいけないと教えられる。森には人に危害を与える虫や獣もいる。同時に、森は生きるための糧を与えてくれる場所でもある。森なくして人の暮らしは立ち行かない。おそらく太古から人は森とともに生きてきたのだろう。危険な森を少しずつ安全な森につくり変えながら。森は複雑な場所だ。善も悪も渾然一体となって渦巻いている。その森が、どこか深いところに広がっているのを感じた。森がやって来る前の自分を、彼はもう思い出せない気がした。
 家路をたどっているつもりで、いつのまにか村の氏神を祀る神社に来ていた。ふらふらと足を踏み入れた。鳥居を抜けて境内に入り、お詣りもせず小さな拝殿の縁側に腰を下ろした。祖父の言っていたことを思い出した。ちょっと変わった子どもが神隠しにあうことが多かったという。いつも一人で山のなかで遊んでいたり、動物と仲が良かったりする子ども。霊感の強い子どもよく神隠しにあった。自分はそういうタイプなのかもしれない。
「気が変になりよるのかもしれん」
 冗談めかした独り言のなかに、怯えの予感があった。どうして自分はこんな目に遭うのだろう。いったい何が起こっているのか。それは本当に起こっているのだろうか。もちろん起こっている。何かが起こっていることは間違いない。頭がおぼえていなくても身体の傷が記録している。健太郎はシャツをまくって腕を見た。
 これは何かの報いなのか。誰かの呪いなのか。自身には覚えのないことだった。神さまの遊びがを汚したこともなければ、由緒ある木を伐ったこともない。墓石に小便をひっかけたことも、無闇に動物を傷つけたこともない。むしろ子どものころから動物にはやさしく接してきた。家で飼っている牛はもちろんのこと、鶏さえも不承不承にしか食べられない健太郎である。ひょっとして先祖に悪をなした者がいるのだろうか。
「馬鹿くさい」
 いい加減に切り上げないと、詮索は果てしなくなりそうだった。考え過ぎるのがよくないのだ、と自省してみる。気持ちが繊細に内に向かうから、ろくでもないものと出会ってしまう。感じなくていいことまで感じてしまう。普通の者が知覚しないようなことを知覚してしまう。そんなふうに生まれついているのかもしれない。古い言い伝えや俗信の類を、頭では否定しながら、どこか心惹かれている。幼いころからそうだった。高い棚から物が落ちたり、不意に柱が鳴ったりすると、何かの予兆ではないかと心が騒いだ。世にも不思議な、人知を超えたことが起こるのではないかと皮膚が慄いた。恐ろしさと魅惑が入り混じった予感に全身がとらわれていた。
 人の気配を感じて顔を上げると、銀杏の木のところに清美が立っている。縁側の端に腰を下ろした健太郎を、しばらく訝しげに見ていたが、やがて近づいてきて正面にたたずんだ。
「なんか」いつもの調子で言った。
「なんかって、健太郎が思いつめた顔をしてふらふら歩いとったけん、心配になってあとをついて来たんやない」そこでまじまじと彼の顔を見て、「どうかしたんか」とあらためてたずねた。
「どうもせん」
 健太郎はまくっていたシャツの袖を手首まで下ろすと、念入りに袖口をボタンで留めた。
「猫にでも引っ掻かれたんか」清美は目ざとくたずねた。
「いらん世話じゃ」健太郎は煩わしそうに言った。「なんか用があるんか」
「なんも」清美は拝殿の縁側に少し離れて腰をかけた。「用がないと話したらいけんのか」
 こぢんまりとした境内には、御神木とされている銀杏の木があった。落葉した黄色の葉が根元を覆っている。それがあたりの雰囲気を明るくしていた。
「清美は進学やろう」当たり障りのないことに言葉を向けた。
「そうやけど」唐突な問いを自然に受けて、「健太郎も進学組やったな」と返した。
「なんか行きとうのうなった」
「高校か」ちょっと驚いた顔をして、「就職するんか」とたずねた。
「わからん」
「進学も就職もせんと、ぷらぷら遊んで暮らつもりやな。怠け者やね、健太郎は」
 その口ぶりは綾子に似ている。
「何をニヤニヤしとるん」清美はちょっと腹を立てたように言った。
 ここは気持ちのいい場所だ、と健太郎は思った。それは隣にいる清美が、穏やかでいい匂いをさせているからだ。彼女から「健太郎」と呼ばれるのは心地がいい。
「なあ、清美」
「なんやの、あらたまって」彼女ははじめて不審そうな顔をした。
「わしから目を離さんでくれ」
「はあ」と間の抜けた声を出した。当惑したその顔が真剣になった。「どういうことなん」
 健太郎もまた真剣だった。
「いつもわしを見とってくれ」
 森のことを話したかった。おまえが見てくれていないと、おかしなものになってしまう。暗い森のなかで、おまえが「健太郎」と呼んでくれれば、いつでも自分を見つけることができる。その声が細い光のように差し込んで、わしを包んでくれる気がする。
「からかっとるんか」
 そうでないことは二人ともわかっていた。ここにととどまりたい。二人でこの場所にとどまりたい。思ったままを口にするかわりに、
「大人になりとうないな」と言った。
「高校には行きとうない、大人にもなりとうない。今日の健太郎はヘンやな」
 彼は切ないような気持ちで清美を見た。大人になりたくなかった。とりわけ大人の男には。おまえから「健太郎」と呼ばれる者で、いつまでもありつづけたい。そんな彼を清美は痛ましそうに見ていたが、
「やっぱりヘンじゃわ」と一言呟いて静まった。
(イラスト RIN)